人類学のススメ

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日本の人類学者26.須田昭義(Akiyoshi SUDA)[1900-1990]

2012年08月14日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Akiyoshisuda

須田昭義(Akiyoshi SUDA)[1900-1990][山口 敏(1990)「須田昭義先生をしのぶ」『人類学雑誌』第98巻第4号を改変して引用](以下、敬称略。)

 須田昭義は、1900年2月16日に東京で生まれました。旧制第二高等学校理科甲類を卒業後、東京帝国大学理学部動物学科に入学し、1927年に卒業します。卒業後は、大学院に入り松村 瞭[1880-1936]の指導を受けて人類学を専攻しました。

 この頃の事が、岡書院を経営して雑誌『ドルメン』や多くの人類学・民族学・考古学関連の本を出版していた岡 茂雄[1894-1989]によるエッセイ『本屋風情』に書かれています。ちなみに、岡 茂雄は、著名な民族学者の岡 正雄[1898-1982]の兄です。岡 茂雄によると、鳥居龍蔵[1870-1953]が1924年に松村 瞭の学位論文をめぐる事件で、東京帝国大学理学部人類学教室助教授を辞任し、1925年に松村 瞭が鳥居龍蔵の後任に就任します。すると、石田収蔵[1879-1940]は東京農業大学に去り、小松真一(川村真一)[?-1970]は国鉄に就職し、山内清男[1902-1970]は東北帝国大学医学部の長谷部言人[1882-1969]の助手となって去り、人類学教室に残ったのは、須田昭義と八幡一郎[1902-1987]だけであったと書かれています。

 須田昭義は人類学教室に残り、松村 瞭につきました。1928年には、東京帝国大学理学部人類学教室助手に就任します。須田昭義は、その後、定年する1960年までこの教室に留まり人類学研究と後進の指導を行いました。1932年には、大島昭義から須田昭義として結婚した夫人側の苗字に変わっています。

 この大島昭義時代の主な論文には、以下のものがあります。

  • 大島昭義(1928)「奄美大島に於ける人類学的調査報告」『人類学雑誌』、第43巻第8号、pp.335-356
  • 松村 瞭・大島昭義(1931)「人類及び人種」『岩波講座生物学第10巻』、岩波書店

 須田昭義は、1936年に東京帝国大学理学部人類学教室講師・1944年に同助教授・1957年に教授に昇任しました。研究分野は、恩師の松村 瞭と同じ分野の生体計測や人種学を主に行っています。また、人口学の分野にも興味の範囲を広げて多くの論文を発表しました。1937年に設立されたAPE会の一員として、考古学や民族学分野の研究者とも幅広く交流しています。ちなみに、APEとは、類人猿という意味ですが、人類学のA(Anthropology)・先史学のP(Prehistory)・民族学のE(Ethnology)を意味していました。この会には、人類学から赤堀英三[1903-1986]、先史学から八幡一郎[1902-1987]・江上波夫[1906-2002]、民族学から岡 正雄[1898-1982]等が参加しています。

 戦後になると、大磯のエリザベス・サンダース・ホームで、日米混血児の総合的研究を行っています。このエリザベス・サンダース・ホームは、沢田美喜[1901-1980]が1948年に創設した施設で、戦後、主に米国人男性と日本人女性との間に産まれた混血児を保護していました。ちなみに、沢田美喜の父親は岩崎久弥[1865-1955]で、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎[1835-1885]の息子です。

 須田昭義が書いた主な論文は、以下の通りです。これらの論文を見ると、指紋・生体計測・人口学について多くの論考があります。

  • 須田昭義(1932)「台湾本島人女子の指紋」『人類学雑誌』、第47巻第6号、pp.193-205
  • 須田昭義(1935)「日本人指紋の統計(1)」『人類学雑誌』、第50巻第7号、pp.261-278
  • 須田昭義(1935)「日本人指紋の統計(2)」『人類学雑誌』、第50巻第8号、pp.312-330
  • 須田昭義(1935)「日本人指紋の統計(3)」『人類学雑誌』、第50巻第9号、pp.352-371
  • 須田昭義(1939)「オロッコ及びギリヤークの皮膚隆線系統」『人類学雑誌』、第54巻第1号、pp.9-35
  • 須田昭義(1940)「琉球列島民の身体計測」『人類学雑誌』、第55巻第2号、pp.39-63
  • 須田昭義(1940)「オロツコの人口」『人類学雑誌』、第55巻第12号、pp.538-543
  • 須田昭義(1942)「オロッコの身体計測」『人類学雑誌』、第57巻第6号、pp.217-233
  • 須田昭義(1943)「日本人掌面の皮膚隆線系統略報」『人類学雑誌』、第58巻第7号、pp.269-278
  • 須田昭義(1944)「漕艇選手の体格」『人類学雑誌』、第59巻第8号、pp.291-296
  • 須田昭義・増谷 乾(1952)「野球選手の体格に就いて」『人類学雑誌』、第62巻第5号、pp.227-236
  • 須田昭義(1958)「相撲新弟子の将来性について」『人類学雑誌』、第66巻第5号、pp.227-240
  • 須田昭義・保志 宏・江藤盛治・芦沢玖美・北条暉幸(1973)「日米混血児の胴長・腸骨棘高・肩峰幅・腸骨稜幅の長期観察」『人類学雑誌』、第81巻第3号、pp.185-194
  • 須田昭義・保志 宏・江藤盛治・芦沢玖美(1976)「日米混血児四肢成長の長期観察特に個人成長の季節変動について」『人類学雑誌』、第84巻第1号、pp.15-30

 須田昭義は、1972年に新規に創設された国立科学博物館人類研究部や、1967年に創立された京都大学霊長類研究所にも委員として関わっています。須田昭義は、1960年に東京大学理学部人類学教室を定年退官します。退官後は、1966年から1969年まで慶応義塾大学文学部の専任講師に就任し、人類学を講義しました。

 東京大学での教え子には、岩本光雄(元京都大学)・江藤盛治(元獨協医科大学)・木村邦彦(元防衛医科大学校)・香原志勢(元立教大学)・寺田和夫(元東京大学)・埴原和郎(元東京大学)・山口 敏(元国立科学博物館)等がいて、戦後の日本の人類学を様々な分野で発展させています。

Suda1963

須田昭義編(1963)『人類学読本』表紙

 須田昭義は、1990年8月26日に死去しました。恩師・松村 瞭の研究分野である生体学を受け継ぎ、掌紋や人口学に広げ、周辺科学である考古学や民族学との連携を行った人生と言えるでしょう。

 須田昭義は、生前に、蔵書と別刷りを国立科学博物館に寄贈しています。この内、蔵書は1980年に国立科学博物館から『須田文庫目録』として刊行されました。また、別刷りは、内容が検索できるファイルとして整理されています。ちなみに、私は1980年代初頭、当時国立科学博物館に勤務されていた佐倉 朔先生の下でその別刷りファイルを整理するアルバイトをしたことがありました。当時としてはまだ高価なソード製のパソコンを使って入力したのですが、その整理作業を通じて人類学の幅広い分野を実感したことを覚えています。ただ、難しい漢字が多く、苦労しました。

*須田昭義に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 板橋区立郷土資料館(2011)『明治・大正期の人類学・考古学者伝』
  • 岡 茂雄(1974)『本屋風情』、平凡社
  • 山口 敏(1990)「須田昭義先生をしのぶ」『人類学雑誌』、第98巻第4号、pp.381-383

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