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日本の人類学者22.今西錦司(Kinji IMANISHI)[1902-1992]

2012年08月05日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Kinjiimanishi

今西錦司(Kinji IMANISHI)[1902-1992][『今西錦司:そこに山がある』(1998)、日本図書センターの表紙より改編して引用](以下、敬称略。)

 今西錦司は、1902年1月6日、京都西陣の「錦屋」を経営していた今西平兵衛の長男として生まれました。ちなみに、名前は、屋号から一字とって命名されたそうです。やがて、京都府立京都第一中学校・第三高等学校を経て、1925年に京都帝国大学農学部農林生物学科に入学します。入学当時、農学部にするか理学部にするか悩んだそうですが、理学部では京大瀬戸臨海実験所での実習があるため、最終的に農学部を選択しました。それは、その時間を山登りに使いたかったからだそうです。1928年に京都帝国大学を卒業すると、直ちに大学院に進学します。

 ところが、1929年2月に徴兵されその年の11月末まで軍務につきました。徴兵検査の時、「何に志願するか?」と聞かれ、「山が好きだから山砲を志願したい。」と言ったそうですが、山砲は台湾にしかないという理由で工兵隊に入隊したというエピソードが知られています。その後、工兵曹長として除隊となり、1931年には陸軍工兵少尉として予備役に編入されました。

 1932年には理学部大学院を修了し、研究嘱託に就任します。翌1933年、理学部講師嘱託に就任しますが、これは、常勤のポストでしたが無給という条件でした。この1933年、今西は賀茂川でカゲロウの「棲み分け」を発見します。1939年、興亜民族生活科学研究所の研究員となりました。この興亜民族生活科学研究所は、当時、京都帝国大学医学部衛生学教室の戸田正三[1885-1961]が主催しています。ちなみに、戸田正三は、1932年に大阪医科大学の第2代校長に就任しました。初代校長は、足立文太郎[1865-1945]です。戦後、戸田正三は金沢大学の初代学長に就任し、1949年から亡くなる1961年まで務めました。今西は、この研究所で初めて給料を支給される身分となっています。

 1941年、今西は『生物の世界』を出版しました。これは、遺書のつもりで書いたと言われています。軍歴があるため、召集されてしまうかもしれないと思っていたそうです。同じ年、ポナペ島の生態調査も実施しました。1942年には、大興安嶺探検隊を組織し、調査しています。1943年、興亜民族生活科学研究所が解散したため、今西はまた、無給の理学部講師嘱託に戻りました。しかし、転機が訪れました。

 1944年、今西は、西北研究所所長として中国の張家口に赴任します。この時、次長は、後に東大教授となる石田英一郎[1903-1968]でした。また、その他研究員として、藤枝 晃[1911-1998](戦後、京大教授)・森下正明[1913-1997](戦後、京大教授)・中尾佐助[1916-1993](戦後、大阪府立大学教授)等がおり、梅棹忠夫[1920-2010](戦後、国立民族学博物館館長)は嘱託でした。ところが、1945年8月8日、ソ連が対日宣戦布告を行ったため、今西は義勇軍に組み込まれます。しかし、ソ連軍は張家口に攻め込んでこなかったため、1945年8月15日、玉音放送を義勇軍の中で聞きました。その後、列車で北京まで引き揚げ、約10ヶ月過ごした後、1946年6月に帰国します。大事に書いた原稿は持ち帰ったと言われています。

 1946年に帰国した今西は、再び母校で無給講師に就任します。しかし、1948年になると京都大学理学部の常勤有給講師となりました。今西46歳の年でした。この頃、教養部の動物学教室教授にという話があったそうですが、「人類学ならやりたいが、動物学はもうやりたくない。しばらくの間の腰かけなら話は別だが。」と返答し、断られたというエピソードが残っています。もし、この時、目先のポストについていれば、後の霊長類研究も無かったかもしれません。その後、動物学教室に3名も講師がいるのは多すぎるから1名減員とするという達しがあり、今西は自分から辞めると手を挙げます。救いの手が、人文科学研究所から差しのべられました。こうして、今西は、1950年に京都大学人文科学研究所西洋部に講師として移籍します。この時、昆虫学関係の蔵書はすべて整理したという今西の決意が伝わるエピソードが残されています。1959年には、人文科学研究所に社会人類学研究部門が新設され、教授に就任しました。今西は、すでに57歳になっていました。

 この頃、学生達の就職先を作らなければならないと思い、1956年には、名古屋鉄道の援助で愛知県犬山市に日本モンキーセンターを創設しています。同様に、後には京都大学霊長類研究所を日本モンキーセンターに隣接して創設しました。

 1962年、京都大学理学部に自然人類学講座が新設され、教授に就任します。但し、今西は人文科学研究所と併任ということで、2名の助教授が就任します。この助教授には、弟子の伊谷純一郎[1926-2001]と新潟大学から東京大学理学部人類学教室出身の池田次郎が就任しました。

 1965年、今西錦司は京都大学を定年退官します。ところが、ここで問題が起きました。無給講師をしていた今西には、退職金や年金がほとんど出ないことが判明したのです。しかも、名誉教授にもなれないことになりました。

 今西錦司博士還暦論文集として、以下の3冊の本が1965年~1966年に出版されました。今西錦司の幅広い学問が伝わってきます。

  • 『自然:生態学的研究』(森下正明・吉良竜夫編)、中央公論社
  • 『サル:社会学的研究』(川村俊蔵・伊谷純一郎編)、中央公論社[このブログで紹介済み]
  • 『人間:人類学的研究』(川喜田二郎・梅棹忠夫・上山春平編)、中央公論社[このブログで紹介済み]

  しかし、ここでも救いの手が差しのべられました。定年退官した、1965年4月に岡山大学教養部で文化人類学の教授に就任します。当時、京都大学の定年は63歳で岡山大学は65歳でした。しかし、岡山には居住せず、月に1・2回集中講義をしたそうです。岡山大学で定年を迎えた年、1967年には岐阜大学学長に就任し、1973年まで2期6年務めました。岐阜大学では、退任したその年、名誉教授になっています。また、1974年には京都大学名誉教授にもなりました。

 今西錦司博士古記念論文集として、以下の本が1977年に出版されました。

  • 『形質・進化・霊長類』(加藤泰安・中尾佐助・梅棹忠夫編)、中央公論社[このブログで紹介済み]

 晩年には栄誉にも恵まれています。1972年には文化功労者となり、1979年には文化勲章も受章しました。今西は、「これで私は他の人より8年長く現役を勤め、昨秋は幸い文化功労者に選ばれるという光栄にも浴したので、今度はどうやら人並みに引退できそうになった。」と書き記しています。

  今西錦司が書いた本は膨大ですが、主なものに以下のものがあります。その他、『今西錦司全集』全10巻が、1974年から1975年にかけて講談社から出版されています。

  • 今西錦司(1951)『人間以前の社会』、岩波書店
  • 今西錦司(1960)『ゴリラ』、文藝春秋社
  • 今西錦司(1965)『人類の祖先を探る』、講談社[このブログで紹介済み]
  • 今西錦司(1966)『人間社会の形成』、NHK出版[このブログで紹介済み]
  • 今西錦司(1968)『人類の誕生』、河出書房[このブログで紹介済み]
  • 今西錦司(1974)『人類の進化史』、PHP
  • 今西錦司(1976)『進化とはなにか』、講談社[このブログで紹介済み]
  • 今西錦司(1976)『私の霊長類学』、講談社[このブログで紹介済み]

Imanishi1998

 今西錦司は、1992年6月15日、90歳で死去しました。カゲロウ・ウマ・ニホンザル・ゴリラと調査研究対象を移し、日本の霊長類学の基礎を築いた波乱万丈の人生と言えるでしょう。弟子の伊谷純一郎は、京都大学を退官する前日の1990年3月30日に病床の今西を見舞い「長い間お世話になりましたが明日退官します。」と挨拶をすると、今西は「こちらこそ。」と答えたと書かれています。

 今西錦司の葬儀は、1992年6月20日に行われ、弟子の伊谷純一郎が弔辞を述べました。その弔辞によると、今西との思い出は2つあり、1948年12月5日に幸島を訪問した時と1958年にアフリカを訪問した時だと読まれています。この2つは、日本の霊長類学の始まりと日本のアフリカの地域研究の始まりでした。

*今西錦司に関するものとして、以下の資料を参考にしました。

  • 宮地伝三郎(1965)「序にかえて」『サル:社会学的研究』(川村俊蔵・伊谷純一郎編)、中央公論社、pp.i-vii
  • 馬場 功(1973)「ひと・今西錦司氏」『季刊・人類学』、第4巻第4号、pp.142-149
  • 斎藤清明(1989)『今西錦司:自然を求めて』、松籟社
  • 本田靖春(1992)『評伝・今西錦司』、山と渓谷社
  • 大串龍一(1992)『日本の生態学:今西錦司とその周辺』、東海大学出版会
  • 伊谷純一郎(1992)「弔辞」『霊長類研究』、第8巻第2号、p.236
  • 江原昭善(1994)「追悼:今西錦司先生追悼文に代えて」『Anthropological Science(人類学雑誌)』、第102巻第5号、pp.449-454
  • 今西錦司(1998)『今西錦司:そこに山がある』、日本図書センター

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