全生庵を出て左へ。
三崎坂沿いにまだ寺が続く。
42 新義真言宗天瑞山明王院歓福寺(谷中5-4-2)
歓福寺ではなく、明王院と呼ぶのは何故なのだろう。
谷中寺町には、御府内八十八ケ所が7カ寺あるが、明王院は、その五十七番。
札所石塔正面に「現世聖天尊」とあるのは、本堂に聖天さまを祀ってあるから。
聖天さまは、十一面観音が化身して歓喜天となったもの。
多大なる現世利益を与える仏として敬われています。
境内に入ると高い納経塔が目に入る。
浮彫の弘法大師が目立ちます。
無縁仏コーナーに白さが目立つ如意輪観音がいらっしゃる。
穏やかながらきりっとしたシャープなお姿。
白っぽいのは、表面を削りおとしたからか。
明王院の隣は、石屋さん。
寺町だから、石屋が多い。
店内に珍しい墓標があるので、パチリ。
日傘の下に頭巾を被った男、足元に天秤と籠が二つ。
「飴売り商人の墓」と表示がある。
男の右に「得善清居士」。
左に「天明四甲辰星九月二十九日」と刻されている。
ガラスに前の景色が映りこんで、見えにくいが、飴売りの像であることは判る。
主人がいたので訊いてみたが「どこの墓にあったものか知らない」との返事だった。
43 真言宗智山派初音山観智院(谷中5-2-4)
道路に面して広く開けた境内の右側が幼稚園なので、甲高い子供の声に包まれている。
明王院と同じく慶長16年(1611)に神田に創立、慶安年間一緒に移転してきた。
御府内八十八ケ所の一つであることも同じで、観智院は、六十三番。
隣同士なのだから、札所番号も連番である方が巡りやすいと思うのだが、大抵、こうしたミニ霊場では、そうしたことは無視されているようだ。
境内の左にあるお堂は、不動堂と大師堂。
黒ずんでいるのは、江戸の度重なる火災と地震、関東大震災、東京大空襲を免れて昔のままだから。
三崎坂に面して六地蔵が並び、その横に地蔵が2体おわす。
立像の地蔵は見なれているが、もう一体はなんと胸像。
胸像の地蔵は初めて見た。
元は立像だったものが何らかの理由で、上半身のみとなり、胸像に作り替えたのではないか、その理由を知りたいと思い寺に電話した。
「不動堂を造る時地下から掘りだされたものと聞いているが、原型がどうであったかは、知りません」との返事。
墓地に大名墓がいくつか点在する。
寛永12年(1635)に参勤交代が制度化されると、諸大名と藩士たちは江戸住まいを強いられ、江戸に菩提寺を持つようになる。
観智院には、播磨姫路藩酒井家、三河吉田藩松平家、越後三日市藩柳沢家の墓がある。
観智院を出て、左へ。
信号を左折、一方通行の道を逆に歩いて行く。
谷中らしい店や路地を見ながら行くと左に養泉寺がある。
44 日蓮宗長清山養泉寺(谷中5-2-28)
山門から真っ直ぐの参道の突当りが本堂。
狭い境内の片隅に小堂があって、「聖観世音」と「浄行菩薩」の提灯が掛かっている。
浄行菩薩は普通だが、聖観音は崩れてそれと判らないほどの有様。
軟石ではないので、崩れの原因が不明。
45 日蓮宗感応山常在寺(谷中5-2-25)
立派な山門をくぐって境内へ。
境内には、無縁塔が1基あるだけで、他に石造物はない。
たまたま本堂の戸が開いていたので、いつもは見向きもしない本堂内の写真を撮る。
元々、この寺は感応寺(元天王寺)の末寺だった。
それが不受布施問題で、感応寺が幕府から改宗を迫られ、天台宗となったため、常在寺は身延山久遠寺の末寺となり、生き延びてきた。(森まゆみ『谷中スケッチブック』より)
*次回更新日は、10月1日です。
≪参考図書≫
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
◇石田良介『谷根千百景』平成11年
◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年
◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年
◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年
◇会田範治『谷中叢話』昭和36年
◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』
◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年
◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html