石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-12(谷中5丁目のロ)

2016-09-25 07:04:36 | 寺町

全生庵を出て左へ。

三崎坂沿いにまだ寺が続く。

42 新義真言宗天瑞山明王院歓福寺(谷中5-4-2)

歓福寺ではなく、明王院と呼ぶのは何故なのだろう。

谷中寺町には、御府内八十八ケ所が7カ寺あるが、明王院は、その五十七番。

札所石塔正面に「現世聖天尊」とあるのは、本堂に聖天さまを祀ってあるから。

聖天さまは、十一面観音が化身して歓喜天となったもの。

多大なる現世利益を与える仏として敬われています。

境内に入ると高い納経塔が目に入る。

浮彫の弘法大師が目立ちます。

無縁仏コーナーに白さが目立つ如意輪観音がいらっしゃる。

穏やかながらきりっとしたシャープなお姿。

白っぽいのは、表面を削りおとしたからか。

 

明王院の隣は、石屋さん。

寺町だから、石屋が多い。

店内に珍しい墓標があるので、パチリ。

日傘の下に頭巾を被った男、足元に天秤と籠が二つ。

「飴売り商人の墓」と表示がある。

男の右に「得善清居士」。

左に「天明四甲辰星九月二十九日」と刻されている。

ガラスに前の景色が映りこんで、見えにくいが、飴売りの像であることは判る。

主人がいたので訊いてみたが「どこの墓にあったものか知らない」との返事だった。

43 真言宗智山派初音山観智院(谷中5-2-4)

道路に面して広く開けた境内の右側が幼稚園なので、甲高い子供の声に包まれている。

明王院と同じく慶長16年(1611)に神田に創立、慶安年間一緒に移転してきた。

御府内八十八ケ所の一つであることも同じで、観智院は、六十三番。

隣同士なのだから、札所番号も連番である方が巡りやすいと思うのだが、大抵、こうしたミニ霊場では、そうしたことは無視されているようだ。

境内の左にあるお堂は、不動堂と大師堂。

黒ずんでいるのは、江戸の度重なる火災と地震、関東大震災、東京大空襲を免れて昔のままだから。

三崎坂に面して六地蔵が並び、その横に地蔵が2体おわす。

立像の地蔵は見なれているが、もう一体はなんと胸像。

胸像の地蔵は初めて見た。

元は立像だったものが何らかの理由で、上半身のみとなり、胸像に作り替えたのではないか、その理由を知りたいと思い寺に電話した。

「不動堂を造る時地下から掘りだされたものと聞いているが、原型がどうであったかは、知りません」との返事。

墓地に大名墓がいくつか点在する。

寛永12年(1635)に参勤交代が制度化されると、諸大名と藩士たちは江戸住まいを強いられ、江戸に菩提寺を持つようになる。

観智院には、播磨姫路藩酒井家、三河吉田藩松平家、越後三日市藩柳沢家の墓がある。

 

観智院を出て、左へ。

信号を左折、一方通行の道を逆に歩いて行く。

谷中らしい店や路地を見ながら行くと左に養泉寺がある。

44 日蓮宗長清山養泉寺(谷中5-2-28) 

山門から真っ直ぐの参道の突当りが本堂。

狭い境内の片隅に小堂があって、「聖観世音」と「浄行菩薩」の提灯が掛かっている。

浄行菩薩は普通だが、聖観音は崩れてそれと判らないほどの有様。

軟石ではないので、崩れの原因が不明。

45 日蓮宗感応山常在寺(谷中5-2-25)

立派な山門をくぐって境内へ。

境内には、無縁塔が1基あるだけで、他に石造物はない。

たまたま本堂の戸が開いていたので、いつもは見向きもしない本堂内の写真を撮る。

元々、この寺は感応寺(元天王寺)の末寺だった。

それが不受布施問題で、感応寺が幕府から改宗を迫られ、天台宗となったため、常在寺は身延山久遠寺の末寺となり、生き延びてきた。(森まゆみ『谷中スケッチブック』より)

 

*次回更新日は、10月1日です。

 

 ≪参考図書≫

 

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 

  ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

 

 ◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 

  ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 

 ▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html