今回から谷中5丁目に入る。
南は三崎坂から北は谷中銀座、西は六阿弥陀通りと東は諏訪台通りに囲まれた区域。
谷中5丁目にある寺は、19か寺。
まず、谷中3丁目の大円寺と六阿弥陀通りを挟んで反対側の立善寺から。
38 日蓮宗長興山立善寺(谷中5-4-19)
幼稚園を経営しているので、日ごろは賑やかなのだろうが、訪れたのが日曜日だったので、森閑としていた。
山門脇の入口も閉ざされて、境内に入れず。
下谷金杉にあった寺は、家光の墓所建設用地として没収される。
開基・日栄聖人が不受布施派だったため、代替地も認められず、半世紀も不遇の時代を過ごす。(寺のHPより)
山門前脇の小堂に黒光りの大黒さん。
不受不施派のヒーロー「鍋冠り日親」は、俵に跨った自画像を遺したという。
表だって日親上人を祀れない不受不施派の信者たちは、似た造形の大黒様を代わりにした。
これもその一つだろうか。
立善寺を出て左へ進むと三崎坂にぶつかる。
三崎坂を上り、左へ回る順路で紹介してゆこう。
39 日蓮宗延寿山長久寺(谷中5-4-11)
前回は、三崎坂上に向かって右側、4丁目の寺を巡ったが、今回は、坂の左側。
大円寺の次が長久寺。
開基者は、谷中村の名主だそうだ。
特記すべき石造物なし。
山門前の題目塔背後の樹の切り株が新しく、痛々しい。
40 日蓮宗松栄山福相寺(谷中5-4-9)
慶安年間の創立は、この界隈では古株になる。
入口から山門、本堂へと緩やかに下る参道を下りてゆく。
入口脇に虚空蔵菩薩の文字塔がある。
工事中のカラーコーンが、寺のムードを台無しにしている。
本堂前の高い石塔は開山・日信上人の墓。
「 寛文二寅年
開山自應院日信聖人
三月二十一日 」
41 臨済宗普門山全生庵(谷中5-4-7)
俗に「鉄舟庵」とも言われるように、全生庵は、山岡鉄舟により、明治13年(1880)、上野戦争の犠牲者を弔うべく創立された。
江戸城の無血開城をもたらし、江戸を流血の惨事から救ったのは、山岡鉄舟の力によるところが大きい。
徳川慶喜や勝海舟の意向を受けて、単身、駿河の西郷隆盛に幕府恭順の意を伝えに行った時、官軍の取り囲む中を「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、まかり通る」と名乗りをあげながら駆け抜けたという武勇伝がある。
全生庵の座禅会には、安倍首相や石破大臣など現役政治家が参禅していることが知られている。
山岡鉄舟のような決断力や実行力を座禅で養ないたいと思ってのことだろうが、決断し、実行する「政策」の中身に、まず、力を注いではどうか。
境内に「山岡鉄舟居士之賛」碑がある。
上部に、有栖川宮親王の篆書体で「山岡鉄舟居士之賛」とあり、碑文には浄土宗初代管長鵜飼徹定による詩文が、勝海舟の書によって刻まれている。
境内には、もう1基、重要な碑があって、それは「三遊亭円朝翁」追悼碑。
文と書は、明治の元老井上馨。
噺家と元老、組み合わせは尋常ではないが、それほど円朝が卓越した芸人だったということ。
円朝については、墓地で再び触れる予定。
墓地へ。
いくつか大型の顕彰碑があるが、知らない人ばかりで素通り。
粗末な小屋にお地蔵さんがいらっしゃる。
全体に白っぽくて、像容が崩れかかっている。
その崩れ方が、石仏の崩れ方とは違うような気がする。
薄れてほとんど読めないが、木札には「名工 伊豆の長八〇〇〇作」と書かれているようだ。
伊豆の長八は、左官職人。
漆喰をこてを使って浮彫にする名人として有名だった。
これは、長八がこてで造った漆喰造りのお地蔵さんということになる。
伊豆の長八の作品を見るのは初めて。
ちょっと感動的な出来事です。
全生庵といえば、鉄舟であり、円朝だが、どうやら今は、「黄金観音の寺」の方が通りがいいようだ。
高さ6.3mの観音様が、墓地の高台にすっくとお立ちになり、金色に輝いておわします。
作者は、北村西望氏。
平成3年開眼です。
観音さまの目線での風景
平井庵主の開眼法語は
湧出す谷中観自在
大悲の請願、衆生を度し(救い)
大慈の慧日、世界を照らす
普門山頭 光明を放つ(普門山は、全生庵の山号)
円朝が、山岡鉄舟と会ったのは、「怪談・牡丹灯篭」を完成させて、既に名声を得ていた明治10年(1877)頃。
その円朝を「噺は上手いが、死んでいる」と鉄舟は批判する。
鉄舟の人柄に惚れた円朝は、鉄舟に師事することに。
修行の上、噺は口でするものではなく、心でするものと悟り、鉄舟をして「噺が生きている」と言わしむる。
全生庵では、毎年、8月、幽霊画を公開するが、48点もの絵は全部、円朝が収集したもの。
創作噺の参考にと集めたのだと云うから、並みの噺家でないことは確かだ。
山岡鉄舟の墓
明治21年(1888)、鉄舟の死に際して、駆けつけた円朝は涙ながらに一席演じた。
鉄舟の、たっての願いを聞き入れてのことだった。
「腹はって 苦しきなかに 暁烏」。
鉄舟、辞世の句です。
それから12年後の明治33年(1900)8月11日、円朝も後を追った。
「今すこし遊びたけれどお迎かひに
ひと足先にハイ左様なら」
戒名は、三遊亭円朝無舌居士。
墓石側面の「耳しひて 聞さだめけり 露の音」は、辞世句。
鉄舟、円朝の墓の近くに見覚えのある名前の墓がある。
作曲家・広田龍太郎の墓。
墓域右側に「叱られて」の楽譜と松村貞三による撰文がある。
撰文は以下の通り。
広田龍太郎 昭和27年、文京区本郷の自宅にて没、ここに眠る。
彼は大正・昭和にかけて、器楽曲、オペラ、舞踏曲等活発な作曲活動もしたが、中でも千数百曲におよぶ歌曲と童謡の作曲は彼の代表的な仕事となった。彼のうたは人の心の最も自然な息吹きであり、その瑞々しさは風説をこえ些かも色褪せることはない。数多くの曲が発表当時から国民的な規模で愛唱されつづけ、日本人の心の原風景の中に光を孕んだ風のように棲みつづけるものとなった。「千曲川旅情のうた」、「叱られて」等の歌曲、「春よ来い」、「靴が鳴る」等の童謡は最も人口に膾炙した傑作である。 撰文 松村貞三
*次回更新日は、9月25日です。
≪参考図書≫
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
◇石田良介『谷根千百景』平成11年
◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年
◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年
◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年
◇会田範治『谷中叢話』昭和36年
◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』
◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年
◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html