上野の山を挟んで、東にも西にも、寺町が展がっている。
このブログの「東京の寺町」シリーズで東上野、西浅草などは回ったが、西の、谷中寺町は、手を付けていない。
ためらう理由は二つ。
一つは、坂の多い地区だから。
脚力が弱くなって、坂道が苦手になった。
もう一つは、日蓮宗の寺が多いこと。
このブログは「石仏散歩」だから、石仏、石碑等の石造物がテーマだが、日蓮宗寺院には、石造物が少ない傾向がある。
浄土真宗寺院ほどではないが、境内に石造物が皆無の寺もあるくらいだ。
谷中寺町の6割は日蓮宗だから、こと、石造物に限れば、収穫はあまり見込めそうもない。
それでも谷中寺町を歩き回って来たのは、谷中の町が醸し出す雰囲気が好きだから。
戦災にも遭わず、焼け残った区域もあって、昭和の匂いがプンプンとするのが,堪らない。
普通、谷中寺町と云えば、JR西日暮里駅の内側西日暮里3丁目や上野桜木の一部も含めての呼称のようだが、今回は、谷中1-7丁目にある寺だけが対象です。
タイトルは「谷中の寺町」だが、正確には「谷中寺町の石造物」。
歴史的な大寺でも見るべき石造物がなければ、スルーします。
では、谷中1丁目からスタートです。
地下鉄「根津駅」を出て、言問通りを北へ上る。
言問通りの左側に谷中寺町は広がっている。
と、思い込んでいるから見逃してしまうのだが、言問通りの右側にも谷中1丁目はあるのです。
1 臨済宗楞伽山天眼寺(谷中1-2-14)
谷中寺町では、少数派の臨済宗寺院。
山号は「りょうかさん」。
武州忍城主松平候により、延宝6年(1678)開基された。
東京都の史跡として、太宰春台の墓が指定されている。
太宰春台は、江戸中期の儒学者ということだが、私は名前を聞いたこともない。
偉人とはいえ、まったく知らない人物を受け売りするのは気が進まないので、紹介はカット。
これからも、私が知らないということで、カットされる「有名人」が続出することになる。
いい年をして誠に、恥ずかしい。
石造物としては、のっぽの無縁塔が目立っている。
スカイツリーが見えれば、対の景色は面白そうだが、残念ながらスカイツリーは上野の山の向こうだから、見えるはずがない。
墓地入口に、年忌法要者のリストが掲示されている。
五十回忌の故人名が並んでいる。
果たして法要されたのは、何人なのだろうか。
寺を去る時、山門前の掲示板が目に入った。
「人の世に」とは、六道のうちの人道を指すのだろうか。
寺を出て、左折、すぐの信号を渡って向こう側へ。
黒いタクシーの横が天眼寺。タクシーのすぐ前に「文京区」の標識がある。
横切ってきた道路が言問通りで、別名、善光寺坂。
善光寺坂は信濃坂ともいうが、それは坂上に信濃善光寺の宿院があったから。
宿院善光寺は元禄の大火で焼失、寺は青山に移転したが、善光寺という名前だけが門前の坂に残った。(台東区教委の説明板より)
善光寺坂を渡った所にあるのが、「昔せんべい大黒屋」。
向かいは根岸2丁目で、その間の通りを行くと右に寺が3軒並んでいる。
2 日蓮宗栄源山本寿寺(谷中1-4-9)
別名「川端の本寿寺」と呼ばれるのは、寺の前に藍染川が流れていたから。
今は暗渠になってその面影はないが、谷中2丁目の「へび道」はいかにも小川の流れそのままに見える。
漱石や鴎外の小説に、この藍染川が何度か登場するようで、文学散歩のブログでは往時の写真が載っている。
境内で目立つのは、2本のノッポの題目塔。
「南無妙法蓮華経妙経自讀三萬部 日観」
もう1基は、同じ刻文で、「二萬部」とある。
日蓮宗では「法華千部会」なる法会がある。
「妙法蓮華経」一部八巻二十八品の語数は、69384文字。
それを、千回読誦するのは大変だからも10人、100人の集団でやる。
10人なら一人100回で済み、100人なら10回で済むという百万遍念仏と同じ発想によるもの。
日観上人は「自讀」というのだから、一人で3万部読誦したということになる。
不眠不休でやるのだろうか、超人間的荒業のようで、日蓮宗寺院が密集する谷中寺町でも同種の石塔は見かけなかった。
墓地の奥に、一際、広く大きく目立つ墓域がある。
江戸の長者番付で前頭にランクされる酒屋高崎屋(本郷向丘)の墓。
現在の高崎屋(東大農学部前)
どれほどの金持ちだったか、天保年間(1830-1844)、当時のスター絵師・長谷川雪旦に描かせた「高島屋絵図」があるほどです。
瓢箪型の石塔は、高崎家の家紋が千成瓢箪だから。
瓢箪は「繁盛、富、権力」の象徴でした。
高崎屋の家訓は「正直第一、謹慎、柔和、家を思い信心肝要」。
信仰心が篤いから、代々、本寿寺の檀家総代として多大な寄進をしてきた。
しかし、大スポンサーの高崎屋を相手に、寺が訴訟を起こしたことがあるというから、面白い。
本寿寺に残る古文書には、その訴訟記録が載っていて、それによれば、高崎屋の女将の葬儀を別の寺で執り行ったことに対して、寺が抗議する内容だという。
3 臨済宗祝融山瑞松院(谷中1-4-10)
墓地への入口の宝篋印塔しか見るべき石造物はない。
山門を入って右の隅にポツンと如意輪観音墓標がおわす。
どんないわれがあるのだろうか。
4 臨済宗龍興山臨江寺(谷中1-4-13)
寛永7年1630)、不忍池南岸に建てられた。
池を望むから臨江寺なのたが、寛文7年(1967)、現在地に移転して「臨江」ではなくなった。
境内に入ると左に「忠節蒲生君平墓」が立っている。
蒲生君平は、宇都宮の人で、江戸後期の熱烈な尊王論者。
林子兵、高山彦九郎とともに寛政の三奇人と称された。
赤貧洗うが如く、乞食のような身なりで、あんまをしながら、天皇陵についての「山陵志」を著した、という人物資料を読みながら、かつての同僚を思い出した。
彼は蒲生君平の先祖の主君、蒲生氏郷の子孫だったが、40代半ばで退社し、マッサージ師となった。
つまらないことで横道をした。すみません。
臨済宗寺院だから、無縁塔にはかなりの石仏が並んでいる。
無縁塔からちょっと離れて、阿弥陀三尊が、放置されたように在す。
*次回更新日は、8月5日です。
≪参考図書≫
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
◇石田良介『谷根千百景』平成11年
◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年
◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年
◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年
◇会田範治『谷中叢話』昭和36年
◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』
◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年
◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年