石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-4(谷中1丁目のニ)

2016-08-15 05:32:34 | 寺町

谷中寺町巡りの4回目は、妙泉寺から長運寺、妙福寺、妙行寺、延寿寺、宗善寺と回り、これで谷中1丁目の寺を全部紹介することになる。

11 法華宗長久山妙泉寺(谷中1-5-35)

モダンな寺というよりも、大きくてモダンな一般家屋という印象を受ける。

右の建物の玄関上に「妙泉寺」の文字がなければ、寺だと思う人は誰もいないだろう。

建物ばかりか、石仏も超モダン。

漫画のキャラクターの傍に「貧乏が去る像」の石柱が立っている。

私には、冗談としか思えないが、像の左の縁起を読むと真面目な石像らしい。

以下が、縁起全文。

まずは、読んでみてください。

貧乏が去る像の貧乏神を撫でたあと
 頭上の猿を撫でると貧乏が猿(去る)という
 大変縁起のいい石像です。
 
貧乏神をこらしめる猿は、一説によれば、四天王のひとり、

 毘沙門天の化身ともいわれております。
 毘沙門天は、仏法を良く聞いたことから多聞天と呼ばれ、
 福徳の天女、吉祥天を妃とした神さまで、
 仏像の毘沙門天は貧乏神を踏みつけていることでも有名です。
 妙泉寺の貧乏が去る像は、国土安穏や訪れる方々の
 富貴繁栄を祈念するものでございます。
 家は富み、心は元気、幸福になりますようお参りください。」 
 

「こじつけばかりで、こんなもの信じられるか」と言わない方がいい。

現世利益を叶える民間信仰は、みなこじつけの産物だからです。

観音や地蔵の姿を借りて、仏教らしさを纏った迷信だが、「信ずるものは救われる」のだから、存在意義はある。

「貧乏が去り、金持ちになる」というのではない。

「貧乏が去る」だけで、誰もが無害。

ま、私は、像を撫ではしませんでしたが。

妙泉寺を出て、左折、住宅地を進むとひっそりと寺がある。

11 日蓮宗大乗山長運寺(谷中1-7-4)

谷中感応寺内に、安産守護を目的に創建されたのが、寛永5年(1628)。

それが感応寺の改宗事件の余波で、元禄10年(1697)、現地に移転を余儀なくされた。

墓地入口に舟形地蔵法界萬霊塔がある。

刻字は読めないが、卒塔婆から、そう判断できる。

「南無妙法蓮華経付施餓鬼為法界萬霊盂蘭盆会水向供養」。

今年もお盆の季節となった。

新しい卒塔婆が加わっていることだろう。

長運寺を出て、真っ直ぐ行く。

左の塀は、次の寺、妙福寺の塀。

突当りを左折するとすぐに山門がある。

12 日蓮宗石岡山妙福寺(谷中1-7-41)

山門前に、高い題目塔。

側面に朱色に刻されているのは「冠鍋日親大上人開基霊場」。

「冠鍋」は「なべかむり」と読み、日親が受けた刑罰の一つ。

日親は室町時代から戦国時代にかけて、日蓮の思想継承者として不受布施を実践した高僧。

足利義教に日蓮宗を信奉し他宗の信仰を捨てることを勧めたが容れられず、更に『立正治国論』を献上しようとした。

激怒した義教は、日親を投獄し、熱湯浴びせ、むち打ち、火あぶり、足の爪はがし、陰茎串刺し、真っ赤に焼けた鍋を頭に被せる刑罰を30回にわたって繰り返したという。

それでも日親は屈することなく、法華経の布教を止めなかった。

その日親が開基したのが、妙福寺。

境内に入る。

植物が生い茂って、境内と言うよりも植物園の一画の様。

植物に遮られて見えにくいが「日蓮大菩薩」塔がある。

石仏巡りを始めた頃、日蓮大菩薩に初めて出会って、「なんて尊大な始祖だろう」と思った。

だが、日蓮大如来ではなく、菩薩であることに気が付いて、考えを改めた。

お釈迦さまという仏さまがいらして、その教えを日蓮が使い走りの菩薩として、衆生に分かち与えるという図式の中の菩薩ならば、納得がゆくからです。

いろいろな草花の苗が、植木鉢に芽吹いている。

散水は、豊富な井戸水のようだ。

日親上人のキャラクターである、反権力的で、不屈の闘志などはどこにも感ずることはない、穏やかな境内でした。

 13 日蓮宗正栄山妙行寺(1-7-37)

日蓮宗寺院が続く。

どの寺も同じなのか、違うのか、違うとすれば、何がどう違うのか。

境内に「一字一石塔」がある。

経文を長く残す素材に石を選び、一石に一字を書いて埋め、その上に建てた石塔が「一字一石塔」。

書き写す経典は、大乗妙典と称される法華経が多かった。(『日本石仏事典』より)

日蓮宗寺院の妙行寺にあるのも、当然と言っていい。

当然といえば、日蓮宗だから、浄行菩薩がおわす。

「咳守護」とあるのが、他寺の浄行菩薩との違いだろうか。

 寺の前の三つ角に巨大なヒマラヤ杉。

その巨木に抱かれるように、駄菓子屋風パン屋がある。

三つ角にあるから「みかどパン」だが、ぐるっと寺に囲まれて、その昔、「三方寺店」と呼ばれていたらしい。

昭和のイメージそのままの風景に心奪われる。

絵筆を走らせる老人がいる。

絵心があれば、私もきっとここを描くだろうと思う。

谷中もこの辺りになると、ディープな谷中と言っていい。

目的の寺を目指してさっさと来る、というより、道に迷いながら、露路へ路地へと入りこんだら「昭和の谷中」にぶつかった、というのがふさわしい。

「ワーオ」という女の声に振り向いたら、外国人女性がいた。

歓声を上げるほどこの景色が気に入ったらしい。

帰国して、日本というとこの界隈を思い出すに違いない。

「心のスーベニア」として、最高です。

14 日蓮宗六浦山延寿寺(谷中1-7-36)

俗に「日荷さま」、「日荷堂」と呼ばれるのは、日荷上人をお祀りしているから。

山号の「六浦山」は、日荷上人の出身地、横浜市金沢区六浦にちなんだもの。

「日荷さま」は、健脚の神として敬われているが、それは日荷上人の信じられない健脚と大力伝説があるからです。

室町時代、荒井平次郎光吉(上人の俗名)の夢枕に、金沢文庫・称名寺の仁王が現れ、『身延山の守護神になりたいから、助力してほしい』と頼みます。
光吉が夢の話をしても、寺は、勿論、けんもほろろ。
一計を案じた光吉は、囲碁好きの和尚に勝負を挑みます。懸け碁に光吉は勝ち、仁王は光吉のものとなります。
しかし、和尚は、のんびりしたもの。「あんな重い仁王は動かしようがない」と。ある夜、山門から仁王を担ぎ出した光吉は、三日三晩かけて、身延山まで運び込み、奉納に成功します。
驚いた身延山の住職が光吉に授けた名前が「日荷」。
日蓮聖人の「日」と担いできた大荷物の「荷」を組み合わせた名前でした」。(延寿寺HPより)

「あやかりたい」気持ちがなければ、「あやかる」ことはないだろうが、「あやかりたい」気持ちがあれば、必ず、「あやかる」ということでもないと私は思うのだが・・・

「祈れば叶えられる?」神様が、境内にもう一つある。

「富増稲荷」。

あまりにも直截的で、私は、祈る気にもならない。

 

幕末の上野戦争では、この谷中も戦場となった。

その戦禍については、全生庵の項で詳述するが、ここ延寿寺も戦禍を被り、山門を残し、焼失した。

山門に立つ寺号石塔に残る傷跡は、当時の弾痕と見て間違いない。

 延寿寺の角を左へ。

緩やかな坂道を下ると左に宗善寺がある。

15真宗大谷派向岡山宗善寺(谷中1-7-31)

傾斜地に墓地が広がっている。

見晴らしがいい。

樹々の上に本郷台地の建物が見える。

ただ、それだけ。

浄土真宗寺院らしく、石仏、石造物は皆無。

だから、書くことがない。

だから、これで終わり。

(*次回更新日は、8月20日です)

 

≪参考図書≫

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

◇石田良介『谷根千百景』平成11年

◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html