石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

板橋宿を歩く-2

2011-04-12 19:42:13 | 板橋宿を歩く

 

 加賀藩下屋敷

 

左の写真の見える範囲は全部加賀藩下屋敷。埼京線を東端として写真には写らない藩域が左に大きく広がっています。その広さ約22万坪。 

どの大名家も上、中、下屋敷を江戸に有していました。加賀藩の上屋敷は本郷、中屋敷は駒込、そして下屋敷がここ板橋にありました。 

加賀藩下屋敷は、諸大名の屋敷中最大だったことはよく知られていますが、実は上屋敷も最大でした。そのため普通なら中屋敷にいるはずの隠居や藩士も上屋敷に居住していました。中屋敷には直属奉公人がつめていましたが、下屋敷にはたった一人の士分と50人の足軽がいるだけでした。

加賀藩5代藩主前田綱紀は、80年の治世の間、参勤交代を往復60回もしています。そのなかで彼が下屋敷で休憩した記録は2,3回しかありません。下屋敷によらず、中屋敷へ寄るほうが多かったのです。では広大な下屋敷は何のために使用されたのでしょうか。藩主とその家族の狩猟、保養、遊山の場としてでした。屋敷内には石神井川を利用した回遊式庭園があり、そこで舟を浮かべて園遊会をしたという記録がありますが、それもたった1回。ほとんど藩主が訪れることはありませんでした。もっと下屋敷について書くつもりでいたのですが、内実のあまりのばかばかしさにあきれてこれ以上書く気がしません。

 

 

                         下屋敷御林大綱之絵図 文政7年(1824)

      

 

      

 

 今、この下屋敷跡地には、加賀公園、金沢小学校、加賀中学校、加賀1,2丁目など加賀藩にちなんだ名前の施設や地名が多く見られます。加賀1丁目の東板橋図書館の入り口付近には、加賀藩や金沢市関係の本を集めたコーナーがあり、石神井川を散歩すれば、兼六園に固有の灯篭、ことじ灯篭にぶつかります。

 

 

 

                       ことじ灯篭

 

 石神井川を散歩しているといくつかの「緑地公園」があることに気付きます。この「緑地」は加賀藩下屋敷跡地が明治時代、陸軍の火薬製造所であったことを物語っています。火薬製造所で事故が起これば、大災害となる。その災害被害を食い止める緩衝地として緑地帯が設けられたのでした。板橋に軍の火薬製造所が設置された最大の要因は、下屋敷内の水車が火薬製造の動力源として有効だったからですが、22万坪という広大な土地が事故の際、防波堤となることも重要だったのです。

 板橋区には下屋敷跡地以外にも陸軍用地が広がり、板橋区は軍産都市として発展するわけですが、その萌芽は加賀下屋敷にあったと言って過言ではありません。

 

川越佐次兵衛とサカムカエ

ちょっと寄り道しすぎました。中山道に戻りましょう。江戸時代の地図を見ると加賀藩下屋敷への道から家が立ち並んでいます。一番端が「盛川」。その隣が「伊勢屋佐次兵衛」となっています。現在、荘病院の向かいのレンガ色のビルがその跡地です。戦前、城北の紅灯の巷として栄えた板橋遊廓のここが入り口で、入り口に面していた「新伊勢元楼」の前身が「伊勢屋佐次兵衛」でした。大正から昭和初期の絵図の右上隅に「新伊勢元楼」が見えます。

 

 

天保14年(1843)、「板橋宿」の人口は、2448人。男1053人、女1395人でした。女の方が多いのは、54軒の旅籠のうち18軒は飯盛旅籠で遊女とその予備群がいたからです。もちろん「宿」ですから、宿泊者のための地域だったことは確かですが、賑わいは宿泊者だけがもたらしたわけではありません。

 

              『商家高名録』の伊勢屋佐次兵衛 文政8年(1834)

 『商家高名録』(文政8年、1825)に描かれた「川越伊勢屋佐次兵衛」の看板には、旅籠の文字はありません。代わって「御休泊所」と料理の文字が読み取れます。これは料理屋として利用する客が多かったことを物語っています。

この絵が描かれたより少し前の文政5年、小石川の両替商伊勢屋長兵衛は、念願のお伊勢参りを終えて、無事江戸に戻ってきます。彼が草鞋を脱いだのは「川越伊勢屋佐次兵衛」でした。しかし、宿泊のためではありません。出迎えに来た60-70人の人たちとサカムカエの宴をするためでした。

サカムカエは「境迎え」と書き、長旅をしてきた人の無事を祝う儀式でした。当然、旅立ちの時も盛大な宴を開きます。水盃はその席で交わされました。これをサカオクリ、又はデタチといいます。要するに長い旅に出る場合は、別れの宴をはり、村境まで見送るのが江戸時代の風習で、江戸ではその境が四宿だったということです。

江戸のブームのひとつは旅。伊勢参りや善光寺参り。四国八十八所巡礼、西国三十三所めぐりと長旅も珍しくありませんでした。当然、サカオクリ、サカムカエの宴も頻繁に行われ、「宿」は潤うことになるのでした。

四宿が江戸の境であることは、品川にも千住にも「泪橋」という地名があることからも分かります。送る人たちと送られる旅人が涙ながらに別れたから「泪橋」。板橋宿の上宿にも戦前まで「泪橋」がありました。

川越伊勢屋佐次兵衛店の絵でも木戸をくぐろうとしている何人かの人たちがいて、店の中で立って手を挙げている男がいます。「みなさん、お久しぶりです。達者で戻ってきました。ま、おあがりください」とでも言っている様です。隣に立つのは一足早く会いに来た妻女でしょうか。このあと座敷でサカムカエの宴会が始まるのです。

 

 


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