前回は(と、いっても1年も前のことになるが。)、弾誓(たんせい)の佐渡での開眼と離島を決意するまで、が内容でした。(NO41をお読みください)
今回は、佐渡を出てからの弾誓の足取りを追います。
慶長9年(1604)、年の瀬も押し迫った凪ぎの日、弾誓は佐渡を離れます。(慶長9年は宮島潤子氏説、五来重氏は慶長2年としている。)
悟りを開いて得た教えを光明仏として布教したいと念じたからでした。
出航した佐渡の港や着岸した越後の港がどこか、記録にはありません。
分からないと言えば、船賃を払ったのか、乞食然としてるとはいえ修験僧、只で乗せてもらったのか、そうしたことも分かりません。
舟を下りた弾誓が向かった先は、善光寺。
今や生きる阿弥陀仏となった弾誓が阿弥陀三尊を本尊とする善光寺にお参りするのは当然のことでしょう。
善光寺から、彼は虫倉山の尾根伝いに西へと向かいます。
虫倉山(長野市旧中条村)
古来から日本の山には、里人が知らない、山人のアンタッチャブルな世界がありました。
山岳修験者の弾誓は、こうした山人たちと昵懇の間柄でした。
弾誓や二代目但唱が金属鉱山に詳しい「山見わけ」であったのも、山人たちとの交流によるものです。
普通、弾誓らは里人が知らない山道を通ります。
雨露を凌ぐのは、洞窟。
これらの洞窟は昔からの行者の活動拠点でもありました。
勿論、弾誓とその弟子たちにとっても、虫倉山は、佐渡の檀特山とともに霊山でした。
そうした洞窟伝いに虫倉山を抜けて、弾誓はやがて現在の大町市へと下りて行きます。
大町市には、弾誓寺がありますが、これは弾誓開基の寺ではありません。
弾誓寺(大町市)
開基者は、三世長音。
この地で弾誓が念仏を絶やさないことの大切さを人々に教えたことを記念すべく長音が建てた寺です。
寛永13年(1636)のことでした。
弾誓が立ちよった当時、ここは常福寺という寺でしたが、荒廃しきっていました。
弾誓は、この常福寺に常念仏の道場を開きます。
常念仏とは、常時念仏を唱え、絶やさないこと。
何人かで交代しながら念仏を途切れることなく唱え続けるのです。
その結果としての継続の日数を石に刻みたくなるのは、人の情というものでしょうか。
弾誓寺の境内には7基のノッポの石碑が並んでいます。
7本の常念仏塔 南無阿弥陀仏七万日回向
左から「南無阿弥陀仏五万日回向(文化10年・1813)」、「三万日(宝暦2年・1752)」、「一万日」、「四万日(天明3年・1783)」、「一万日」、「二万日」、「七万日(文久3年・1863)」。
七万日と言えば約200年、ひと時も念仏を絶やすことがなかったことになります。
弾誓の偉業を讃えて、長音は常福寺を弾誓寺に改名、新たに開基しました。
この石塔群の手前奥にある観音堂には、弾誓像があると聞き、観音堂保存会メンバーに鍵を開けてもらいました。
弾誓寺観音堂
堂中央正面には、金色の聖観音立像。
10世紀に造られた長野県指定文化財です。
目的の弾誓坐像は聖観音に向かって右側に、三世長音像と並んでおわしました。
長音 弾誓
意外なのは、山伏姿ではなく、僧形であること。
髪も長髪ではなく、剃髪しています。
箱根塔ノ峰時代、小田原の大蓮寺で一度剃髪をしている記録がありますが、生涯を通して有髪だったと言われていますから、何故、この像が僧形であるのか、不思議なことです。
「有髪は、木食戒の一つ」とする人もいるほどです。(五来重『塔の峰本「弾誓上人絵詞伝」による弾誓の伝記と宗教』)
弾誓と長音、ふたりの坐像はこの上なくリアリテイに富んでいます。
想像では不可能な細部描写があります。
長音 長音の墓
しかも長音は、比類なき有能な作仏(さぶつ)聖だったわけですから、この作者は長音ではないか、そう推測してもよさそうです。
しかし、県や市の文化財の説明では、作者欄は白紙、つまり不明となっています。
長音ではない明らかな理由とは何なのでしょうか。
弾誓と長音の坐像の反対側のガラスケースには、なにやら人の歯らしきものが綿を敷いて置かれています。
これは、弾誓の6代目の弟子筋にあたる木食山居上人の歯。
「弾誓や長音に倣って、山居上人は享保9年(1724)、70歳を期してこの観音堂の地で入定、即身成仏した。地下の念仏の声と鉦の音が絶えた時、上人の死を知らせる寺の鐘の音に人々は涙を流して手を合わせた」という伝説がずーとこの町に言い伝えられてきました。
その伝説の真贋を確かめるべく、平成14年、発掘が行われ、遺骨や遺品の出土で伝説の正しさが証明されたのでした。
上の写真は、歯とともに出土した遺品の数々。
長音や山居については、改めて章を設けるつもりです。
木食行者の弾誓は、一か所に安住することはありません。
大町を後にした彼は隣村の雲照院(現松川村板取)に立ち寄り、ここでも常念仏を勧めます。
雲照院阿弥陀堂(松川村)
雲照院という寺は廃寺となり、今は茅葺の阿弥陀堂が昔ながらの姿を残すだけ。
堂内の阿弥陀三尊を拝観したく、鍵を保管している区長の家を探すも分からない。
仕方なく桟の間にレンズを突っ込んで、パチリ。
このあたりは、『彈誓上人絵詞伝』(古知谷阿弥陀寺本・1767年)の「飯田の阿弥陀寺、大町の彈誓寺、松本の念来寺、百瀬の昌念寺、雲照院も上人を持って開基とし念仏不退の道場なり」によるのですが、各寺の開基は弾誓とする記述は正しくない。
弾誓の弟子たちにより開基されたものです。
次に弾誓が足を留めたのは、百瀬の昌念寺(現、松本市寿中の正念寺)。
正念寺(松本市のHPより無断借用)
松本市文化財HP「松本のたから」では、正念寺を次のように説明しています。
「 木食寺院の正念寺はいわゆる仏餉(ぶっしょう)寺で、藩より鐘の音の聞こえる範囲の托鉢(たくはつ)を許され、それによって寺を維持しました。檀家は持たず、地域に奉仕し、喜捨によって寺が存続しましたから、それだけに地域の人々との結びつきが深く、その信頼を維持してゆくために木食戒、作仏の修業も厳しいものでした」。
正念寺には、弾誓上人立像があります。
正念寺の 弾誓像(松本市HPより無断借用)
作者は、正念寺六世本光昭阿上人。
延享3年(1746)作仏と伝えられています。
松本市には、弾誓像がもう一体あります。
西善寺の弾誓像(松本市HPより)
こちらは、西善寺(松本市和田境)の弾誓上人立像。
もともとは市内の念来寺にあったのですが、廃仏毀釈の難を逃れて西善寺に移されたものです。
作者は弾誓弟子6世相阿。
制作したのは、享保の後半、1720年代後半から1730年代前半と見られています。
いずれの像も長髪で顎髭があります。
制作者は二人とも弟子とはいえ、弾誓の死後100年のことですから、直接、師に会ったことはありません。
言い伝えか絵詞伝の像を参考にしたのでしょうか。
木食弾誓が山岳修験者であることは、佐渡の外海府の壇特山や信州虫倉山を縦横に歩き回っていることから分かることですが、それを実感したのは上諏訪の唐沢阿弥陀寺への道でした。
上諏訪から霧ヶ峰への道路を右折すると阿弥陀寺の参道へ。
唐沢阿弥陀寺参道入り口(諏訪市)
勾配が急で私の軽自動車では、アクセルを踏み抜いても時速10キロも出ない。
アクセルを踏んだままズルズルとずり下がるのではないかという恐怖を感じるほどなのです。
同じ経験を箱根塔の沢の阿弥陀寺の参道でもしました。
だから、こうした急峻な崖の上の岩窟を、彼は好んで住まいにしたことは確かなようです。
松本を立ち去った弾誓は塩嶺峠を越え、岡谷から下諏訪を経てここ上諏訪の唐沢山へたどり着きます。
唐沢山では弾誓を心待ちに待っていた人がいました。
数年前にこの地に十一面観音を本尊として祀り、念仏に明け暮れていた念仏僧河西浄西でした。
法国山阿弥陀寺は弾誓開基とばかり思い込んでいたので、河西浄西開基と知って意外でしたが、浄西の登場はこの出会いの場面だけ、阿弥陀寺は弾誓とその信奉者の遺品と逸話で満ちています。
駐車場に車を停めて、参道を上って行きましょう。
嶽門
石垣の山門をくぐると右手の谷川のほとりの巨岩が目につきます。
立て札には「弾誓上人の爪彫り名号碑」とある。
巌には文字が刻まれているようだが、光線の具合が悪くて読めない。
持参の資料では、正面に「南無阿弥陀仏 林誉一童」、向かって右に「乃至法界王 当山開基光明仏為」、左に「五十回忌千日結願王 相念 万治三庚子五月吉日」と刻まれているという。
光明仏即ち弾誓の50回忌供養塔なのです。
ところで、弾誓50回忌で作成された石造物が下諏訪にもあります。
万治の石仏(下諏訪町)
自然石の胴体に別の石に彫られた仏頭が嵌めこまれた巨大な石仏、通称「万治の石仏」は諏訪大社春宮の西を流れる砥川のほとりに鎮座しています。
「万治の石仏」に向かって左には「南無阿弥陀仏」の文字。
それより左方に少し下がって「万治三年十一月一日」、さらにその下に「願主 明誉浄光、心誉広春」とあります。
この仏頭には、仏頭伝授を教えの継承の儀式の中核とする弾誓派の崇拝の念が感じられると五来重氏は述べています。
大きな自然石なので身体だけでなく頭も線刻することは十分、可能です。
であるのに、わざわざ頭を嵌めこむようにしたのは、仏頭伝授のイメージが背景にあったからではないかと氏は推測します。
明誉と心誉の二人が木食作仏聖であり、万治3年が弾誓50回忌であることを突きとめたことが、宮島潤子氏が名著『謎の石仏ー作仏聖の足跡ー』を書くきっかけとなったのでした。
石段をのぼりつめた先の崖には、磨崖名号が2幅。
右は徳本上人、左はその弟子徳住上人の六字名号。
独特な字体の名号塔で有名な徳本上人は、弾誓上人を慕ってこの阿弥陀寺で数年修行したと伝えられています。
徳本六字名号は、磨崖の他、本堂内と本堂後ろ、それに石垣門を入ってすぐの4カ所にあります。
本堂内 本堂後ろ 石垣山門入ってすぐ
一か所にこれほど徳本名号塔があるのも珍しいことです。
鐘楼前には弾誓の六字名号碑、その近くには祐天の名号塔もあります。
弾誓名号塔 祐天名号塔
本殿がやけに新しいなと思ったら、平成5年の火災で再建したもの。
善光寺大本願本堂「本誓殿」を移築したのだそうだ。
本殿の屋根の真後ろ、懸崖造りの奥に弾誓が籠った岩窟がある。
中は意外に狭い。
河西浄西が祀ったといわれる十一面観音の他は、小さい石仏ばかり。
何故か、弾誓とその弟子たちの手になる石仏、石碑は一つも見られません。
今風幼児のカラフルなオモチャが、修行岩屋の厳粛さを損なっていて誠に残念。
弾誓が籠っていた頃は、当然、懸崖造りはなく、むき出しの岩窟でした。
そこに座して念仏を唱える弾誓を慕って、諏訪の町から人々が押し寄せてきます。
そうした信者の寄進で、岩窟の前に庵が建ち、やがて庵が寺になる・・・これは弾誓が行く先々で繰り広げられたパターンでした。
集まってくる人たちは、当時のことですから、どこかの寺の檀家です。
しかし、信仰心の観点からは、寺と檀家の関係は既に形骸化していました。
ここにだけ、実践的念仏聖とその信奉者の間にだけ、迸る信仰の渦があったのです。
それがどのような熱狂だったのか、文字の記録は残されていませんが・・・。
私は心臓に持病かあるので、ハイキングや登山とは全く無縁です。
箱根塔ノ峰の阿弥陀寺は、箱根湯元駅をスタートとする塔ノ峰から箱根外輪山への登山道の入り口にあるのですが、ここがゴールではなく登山の出発点だということが、私には信じらません。
箱根湯本からの、わずかな距離の急峻な上り坂に辟易したからでした。
それも歩いたわけではなく、車で上ったというのに・・・
その勾配と距離は唐沢阿弥陀寺とほぼ同じ、本堂と洞窟の位置関係も似通っています。
信州諏訪を後にした弾誓は、甲府からここ箱根塔ノ峰にやってきます。
慶長11年(宮島説)のことでした。
塔ノ峰という地名は、インドの阿育(アショーカ)王が仏舎利を納めた宝塔があったことからつけられました。
と、いうことは、この地が先人の修行地だったことを物語っています。
いつものように適当な洞窟を見つけて、弾誓は念仏を唱え始めます。
その風態は、人間離れしていました。
『弾誓上人略伝』は、次のような逸話を載せています。
「狩りの為に山に分け入り、思いがけない場所で、怪しげな者を見た小田原城主大久保忠隣は『怪しい奴、打ち殺せ』と家来に命じ、犬をけしかけた。しかし、犬は、なぜか、襲いかかろうとしない。大久保氏は自ら弓を取って矢を射るが、矢は届かない。男は『我は修行聖である。』と静かに念仏を続けたので、城主は自らの非を悟り、弾誓に帰依して寺地24丁を与えた」。
弾誓上人絵詞伝 塔の峰本 『謎の石仏』より
私は、2度、塔の峰阿弥陀寺を訪ねています。
駐車場から寺の本堂までは緩やかな坂道。
石仏が点在して目を楽しませてくれます。
一か所、石仏の肩越しに、箱根の町が見える場所がある。
最初は、一昨年の3月。
洞窟を見るのを楽しみにしていましたが、「前夜の雨で足場が悪いから」と寺の人に行くのを止められました。
2度目は、去年の6月、ヘビに気を付けながら本堂脇の道を洞窟へと上ってゆきました。
6月だというのに、前の年の落ち葉が新緑を凌いで、薄暗くて茶色が支配する世界でした。
用意されたロープをつかんで上る場所もありますが、さほどつらさを感じない200メートルほどの坂道を上ったところに洞窟は口を開けていました。
石造物が10基ほど見えます。
そういえば、寺からの上り道には石仏も石碑もなかったことに気付きます。
洞窟の前に立って中を覗きこむ。
3メートル位は明るくて、その先は闇の世界。
何も見えません。
上諏訪の阿弥陀寺と塔ノ峰阿弥陀寺との違いと言えば、洞窟の広さ。
「窟内良(やや)広(く)而風吹(けど)不入雨」「入(ること)数歩而内暗、其広縦横三間余」(『弾誓上人略伝』)
塔ノ峰阿弥陀寺の洞窟は、広いだけでなく、数多くの石造物が残されいることも特徴です。
私はうかつにも懐中電灯を持参しなかったので、カメラのフラッシュに浮かぶ石造物を瞬間的にみただけです。
ですから以下の窟内石造物については、宮島潤子『謎の石仏』、五来重『塔の峰本「弾誓上人絵詞伝」による弾誓の伝記と宗教』の丸写しです。(他の部分も丸写しなのですが・・・)
最も多いのが、圭頭板碑が51基。
圭頭というのは、上部が山形に尖っていること。
碑文は、中央頭に釣り針状のマーク、その下に「南無阿弥陀仏」、右に「設我得我」、左に「不取正覚」。
左右の銘文は『仏教無量寿経』の48願全てにつく「説我得仏」(たとえわれ仏を得たらんと)、「不取正覚」(仏にならない)。
宮島氏によれば、「たとえ我仏となることを得ても、(衆生と共ならざれば)仏にはなることを遠慮する」との弾誓仏の決意だという。
釣り針マークは、「心」だと五来氏は読み解いています。
その五来氏によれば、この圭頭名号塔は小田原を中心に広範囲に多数あるのだそうです。
しかも、塔ノ峰洞窟の慶長12年(1607)が最も古い製作年であることを考えると、弾誓のこの形式がこの地域を席巻したことになります。
洞窟正面には3基の無縫塔。
無縫塔3基(阿弥陀寺HPより無断借用)
うちの1基は、正面に名号、左右に願意と弾誓の名前が刻まれています。
ここでの名前は「法国仏」。
その左は「不取生(ママ)覚」。
弾誓仏と彫られた無縫塔もあるらしいのですが、真っ暗な中でシャッターを切ったので、その無縫塔は撮れていませんでした。
写真はありませんが五輪塔も8基、同型、同寸法の既製品らしきものがあるということです。
弾誓五輪塔の特徴は、空、風、火、水、地の代わりに南、無、阿、弥、陀仏と刻むこと。
阿弥陀仏に帰命する弾誓仏らしい五輪塔です。
ここでもう一つ、弾誓の常人らしからぬ、いかにも修行者らしい逸話を紹介しましょう。
以下は、『弾誓上人絵詞伝塔ノ峰本』下巻第八段から。
「同じ国の北山に紫の雲立まよひ、あやしき事のありけりと人々いへるを聞たまひ、上人自ら訪ね行き、彼所を見給に、人里遠き山にして、松杉まことに茂り合、鳥の声だに聞ねば、憂世を厭人住家なめりとおぼしめし、峩々たる岩の洞にいり、松吹風を共として、夜すがら声明声すめば、やがて一宇を造営し、貴賎群衆なせしかば、心驚無常山発願寺と額をかけ」と塔の峰にありつつ、伊勢原一の谷に浄発願寺を造った理由を明らかにしています。
浄発願寺奥の院洞窟前の説明板より
驚くべきは次の一節。
「然るに此の一の沢と塔の峰とは相隔る事凡十里なり。二山の間上人日夜往来し給ふに、その疾こと風のごとし。或は晨朝は塔の峰にて勤修し、日中は一の沢にて執行し給へり。両山兼任の間、すべて六年を経たり」。
地図のBが塔ノ峰阿弥陀寺、Aが一の沢浄発願寺。(こういう地図を作りたいけど作れないとぼやいたら、友人が作ってくれた。持つべきは友)
直線距離でも30キロはあろうか。
私には、荒唐無稽の話としか思えません。
私が一の沢浄発願寺へ行ったのは、一昨年の正月4日。
弾誓が籠った岩窟がある寺の奥の院は、ヒルが多いということで、冬を選びました。
小田急伊勢原駅からバスで終点の日向薬師へ。
終点から歩いて約15分、川向こうに浄発願寺が見えてきます。
浄発願寺(伊勢原市)
歴史ある寺なのにどこか新しさがあるのは、昭和13年、山津波で寺は崩壊、4年後の昭和17年、約1.5キロ下の現在地に再建されたからです。
寺から更に歩くこと15分、奥の院入り口に着きます。
日向川に突き出た巨岩が、浄発願寺12世天阿上人の修行場所でした。
弾誓が、紫雲石と名付け、その上で念仏修行をしたという大磐石もこうした巨岩だったに違いありません。
川向うの旧山門前には、六地蔵。
揃って首がないのは、明治の廃仏毀釈の傷跡でしょうか。
奥の院までの参道両側に点在する石仏の大半には首がありません。
あるのが珍しいくらいです。
唐沢阿弥陀寺、塔の峰阿弥陀寺の参道を歩いてきた者には、この奥の院への参道はなだらかで歩きやすい。
道の所々に常念仏供養塔。
弾誓開基の寺らしい雰囲気です。
そして、53段の石段。
罪人が造った石段
4世空誉上人が幕府から罪人53人を貰い受け、一人一段ずつ築かせたのだそうだ。
以降、浄発願寺は駆け込み寺として名を馳せ、殺人、放火犯以外は駆けこんで罪を免れたという。
ちなみに佐渡相川の弾誓寺、京都古知谷の阿弥陀寺も駆け込み寺。
弾誓とその弟子たちの思想が窺われます。
石段を登りきると山中にしては、不自然な広場が出現します。
山津波で流される前本堂があった場所 右に罪人の石段の上段が見える
そこが旧浄発願寺の本堂跡。
僧侶40余名を擁した大寺院でした。
正面に向かって左の崖下に石仏、石碑が列を成して、ここが寺院跡地であることを物語っています。
そこから更に迂回して斜面を上ると整然と並ぶ無縫塔を覆うかのように巨大岩壁が張り出して、その下にぽっかりと穴。
岩の天井からしたたり落ちる水滴の音が、窟内にこだまして、静けさを強調しています。
外の光が壁際の石造物をぼんやりと写し出しているので、洞窟の奥行きはそれほど深くはないことが分かります。
正面に素朴な阿弥陀如来座像。
『謎の石仏』(平成5年・1995)には、正面に弾誓立像があると書いてあるので、探したが見つからず。
周りの無縫塔には「法国満正光明仏」と刻してあると言うが、この日も懐中電灯を持参せず、確認できなかった。
塔の峰洞窟では見かけない聖観音立像が数体あるが、圭頭板碑はほんのわずかしかないようだ。
このちがいにはどんな意味があるのだろうか。
慶長13年(1608)、弾誓は相模を後に京都へ向かいます。
途中の村々で勧化をしながらの旅でした。
家康と信玄の見方ケ原合戦での戦死者の霊を沈めるため遠州で行った融通大念仏には、生き阿弥陀如来弾誓に結縁を願う大群衆が押し寄せたと絵詞伝は伝えています。
京都古知谷に分け入った弾誓は岩上で念仏を唱え、説法を行いますが、やがて弟子たちによって洞窟が穿たれます。
信者たちに日課念仏(一日百遍の念仏を唱えること)を授けるとともに、授与の印(しるし)に与える名号札を書くことに弾誓は精を出していました。
『謎の石仏』より
一説では、その数四百万幅。
1分間に5幅ずつ書いたとして毎日3時間、即身成仏から示寂までの16年間揮毫していたことになると五味氏は言います。
私が古知谷阿弥陀寺を訪ねたのは、3年前の4月、京都市内からバスで30分、寺の山門前は桜が満開でした。
参道は林の中、なだらかな坂道。
唐沢阿弥陀寺や塔の峰阿弥陀寺の参道に比べれば上り坂とはいえない程の緩やかさ。
さすがの弾誓もみずからの老化を悟ったのでしょうか。
ここ阿弥陀寺は紅葉の名所として有名なのだが、4月の初めでは、紅葉を想像することも難しい。
本堂に入る。
阿弥陀寺(京都市)
朝早いので参拝者は、私一人。
本堂を過ぎると、弾誓上人石廟がある。
弟子たちが穿ったというこの洞窟の下に弾誓の石棺があります。
傍らの説明文。
「正面に置かれた石館は信者の人たちによって収められたものです。開基弾誓上人は、穀断ち塩立ちのすえ、松の実、松の皮を食べ、体質を樹脂質化して後、念仏三昧をもって生きながら石窟の二重の石棺に入り、念仏の声が聞こえなくなった時、空気穴を密封し、現在でもミイラ仏として端坐合掌の相で安置されています」。
弾誓が即身成仏して入定したのは、慶長18年(1613)、63歳でした。
洞窟の底のほうから冷気が吹きあげている。
「ウォーン」というような低音がかすかに聞こえる気がする。
霊気を感じて思わず辺りを見まわすが、もちろん誰もいない。
折角肝心の石廟まで来たというのに、ゾッとしてそそくさと立ち去ったのでした。
本堂の一隅には、弾誓上人の遺品が展示されています。
まずは、弾誓流相伝の儀式で重要な仏頭伝授に使用される仏頭。
仏頭
弾誓が来ていた衣や履いていた鉄の靴もあります。
弾誓の衣 鉄の履物
鉄の靴を履いて箱根と伊勢原の山中を、日々、往復していたなんて、ますます信じられない。(未完)
次回3回目は、二代目但唱の足跡を追います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます