石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-29-一葉樋口夏子碑(西片1-17-18)

2019-07-21 08:52:46 | 石碑

白山通りに面した洋服の量販店の前、ウインドーに接した形で、碑はある。

赤い店名の看板がけばけばしくて、一葉碑は沈み込んだように目に付きにくい。

近寄って見る。

◇一葉樋口夏子碑(西片1-17-18)

自然石の「一葉樋口夏子碑」とステンレススチールの「樋口一葉終焉の地」説明板がある。

花が供えられている。

「丸山福山町町会」とある。

「隣に酒うる家あり、女子あまたいて、・・・遊び女に似たり。
 常に文書きて給われとて、わがもとに来る。ぬしはいつも
 変わりて、そのかずはかりがたし(一葉日記「しのぶぐさ」)

上は、文京区制作の旧町名案内の文面の一部。

この地は、今は西片だが、昭和39年までは「円山福山町」だった。

 

まずは、自然石の碑から。

一葉樋口夏子の碑

 花ははやく咲て散がた はやかりけり あやにくに雨風のみつヾきたるに 
かぢ町の方上都合ならず からくして十五円持参いよいよ転居の事定まる 
家は本郷の丸山福山町とて阿倍邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが
有けり守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず 
家賃は月三円也たかけれどもこゝとさだむ 店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すも 
わづらハしく心うき事多ければ得かゝぬ也 五月一日 小雨成しかど転宅 手伝は伊三郎を呼ぶ

 上一葉女史の明治廿七年四月廿八日五月一日の日記より筆跡を写して記念とす

 

この碑の左隣に、ステンレス板を折って、上面と縦面の両面を使っての説明板がある。

まずは、上面から、

 樋口一葉の本名は奈津。なつ、夏子とも称した。明治5年(1872)東京府内幸町(現・千代田区内幸町)に生まれ、明治29年(1896)この地で、短い生涯を閉じた。文京区在住は十余年をかぞえる。明治9年(1876)4歳からの5年間は、東京大学赤門前(法真寺隣)の家で恵まれた幼児期を過ごした。一葉はこの家を懐かしみ”桜木の宿”と呼んだ。父の死後戸主になった一葉は、明治23年(1890)9月本郷菊坂町(現・本郷4丁目31・32)に母と妹の3人で移り住んだ。作家半井桃水に師事し「文学界」同人と交流のあった時期であり、菊坂の家は一葉文学発祥の地といえる。                    終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27年(1894)5月のことである。守喜(もりき)という鰻屋の離れで、家は六畳と四畳半一間、庭には三坪ほどの池があった。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉の名作を一気に書き上げ、”奇跡の二年”と呼ばれている。「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での生活を偲ぶことができる。

正面向きの縦書きは、右隣りの一葉樋口夏子碑の変体仮名を現用仮名に変えて読みやすくしたもの。

 

原文と同じく縦書きにしてある。

現用仮名にしてあっても、私は、すんなり読むことができない。

「変体仮名だから読めなくて」と言い訳することもできない有様で、なさけないこと夥しい。

 

 


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