2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、日川、日下部、後屋敷、加納岩を各地区ごとに分けて掲載します。
八幡地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の東山梨郡八幡村のこと。南、北、江曽原、市川、大工、堀内、水口、切差の8集落から成る。
▼南1337番地路傍
丁度、丸石だけが日陰になって按配がよろしくない。
陽が差すまで待てる、おおらかな人間に憧れるが死ぬまでダメだろう。
戦前、この中組道祖神はなかった。
上組か下組道祖神祭に参加していたが、自分たちのが欲しいということで、戦後、ここに造立した。
光を受けて丸い石が転がっている。
どこかで丸い石を見つければ、つい、持ち帰ってしまうんだろうか、山梨県民は。
▼北 元JA八幡北支所西側
道祖神や庚申塔は、その性質から人の集まりやすい場所にあることが多い。
現代、人が集まる場所にあるのはごみ置き場。
神とごみが並ぶ風景は、今や日常化してなんの違和感もない。
ここから左へカメラを向けたのが下の写真。
のんびりとして、人影はない。
人の集まる場所に神とごみが同居、と書いたが、そもそも人が集まることはあるのだろうか。
▼江曽原橋北詰
上の写真には、大事なポイントが3点ある。
一つは、道祖神が丸石ではなく、男女双体像であること。
なぜ、丸石ではなく、双体像なのか、設置理由を知りたいものだ。
二つめは、巨大な「蚕影山(こかげさん)」碑。
「蚕影山」は、文字通り蚕の神様。
本社は、茨城県つくば市にある。
これまでは、偶然にも丸石神道祖神単独の写真ばかりだったが、山梨市では、丸石神と蚕神がセットになっている祭場が圧倒的に多い。
山梨市の中でも、とりわけここ八幡地域は、養蚕が盛んな地域だった。
江戸時代後期から昭和30年代まで、地域の主産業は養蚕だった。
今では全滅して果樹栽培に切り替わっているが、昔の面影は農家の建物に色濃く反映している。
注目ポイント3点目は、「蚕影山」碑背後の農家の建物。
やたらに大きな建物であるのは、2階が蚕室だったからです。
▼江曽原835番地路傍
江曽原橋を渡って緩やかな坂道を上って集落に入る。
奥まった農家の庭先に丸石道祖神が在す。
傍らに双体道祖神が見える。
像容は磨滅して辛うじてそれと判るくらい。
丸石神の台石には「道祖神」の文字。
右側面には「寛政/七乙卯/仲冬/願主/若衆中」とある。
写真を撮っていたら農家の御主人が出てきた。
「昔はもっと広かった」と立ち位置でその広さを教えてくれる。
ご主人の背後の隣家は、広い蚕室の2階屋。
「無用の長物」とはこのことか。
物がなしい風景です。
▼市川608番地路傍
ちょっと広いが四辻の一画。
初めて丸石4個の道祖神に出会う。
今回、山梨市の丸石神めぐりでは、1個から約80個のものまであった。
何個でなければならない、という決まりはないようだ。
台座裏面に「文化十三子年師走吉日」と横書きされている。
傍らの石碑は「蚕影大神」。
≪続く≫
◇参考図書
〇『山梨市史 民俗編』平成17年
〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年
〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年
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