石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

73 それは佐渡から始まった(3)-木食弾誓とその後継者たち(但唱編)-

2014-02-16 10:01:42 | 木食弾誓と後継者たち

如来寺の五智如来と聞いて、あなたは、すぐ、イメージできますか。

マイナーなテーマの石仏を取り上げるこのブログにアプローチしたあなたなら、「ああ、あの大きな・・・」とすぐ思い出すでしょうが、仏像など興味がない大多数の人たちは、ご存知ないでしょう。

東京都品川区西大井にある如来寺には、都内最大級の木像五智如来が在します。 

 

向かって右から薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来。

堂内の奥行きが狭く、5体をワンショットに収めることは、とても、できません。

私のカメラでは、手前の薬師如来が抜けています。

堂内が暗くて、像容がはっきり捕えられないのも、残念なことです。

この五智如来を造ったのは、如来寺を開山した但唱上人。

彼は、この五智如来を、長野県飯田市と駒ケ根市の間の松川町の山中で彫刻しました。

寛永期中ごろ、380年ほど前のことです。

但唱上人は偉大な作仏(さぶつ)聖ですが、その偉大さは、この巨大五智如来を彫ったからではありません。

江戸まで運んだことにあります。

巨大な仏像を造ることはできても、それを信州から江戸まで運ぶことは、誰にもできることではありません。

しかも但唱上人自らは、喜捨を受ける身で一銭たりとも持っていないのです。

天竜川を筏で下り、沿岸沿いに船で江戸まで運ぶ。

想像するだに膨大な人力と財力を要するこの大事業を、幕府や藩の力添えがない一介の木食念仏僧

がなぜ成し遂げることができたのか。

結論からいえば、信仰の力、信者の協力があったからでした。

要所要所を信者であるプロの職人集団がボランティアとして運搬輸送に携わり、バトンタッチしながら江戸まで運んだに違いありません。

但唱上人は、卓越した作仏聖であり、そして同時に、在野の偉大な実践的宗教家だったのです。

 

「イメージが崩れるな」。

坐像を見て、そう思った。

「如来寺の歴史と寺宝展」(品川歴史資料館、2013年10月-12月)の入口でのこと。

展覧会の主人公、如来寺開山の但唱上人座像が来館者を出迎えている。

但唱上人像があることが、まず、意外だった。

更に意表をつかれたのは、そのでっぷりとした体躯。

合掌する手も分厚く指も太い。

但唱上人は、普通、木食但唱と称せられる。

木食とは、木食戒(穀断ち)(火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を 受けた僧を意味します。

ならば、痩身の木食聖をイメージして当然でしょう。

この但唱像の作者は、但唱の弟子・林貞ですから、本人と酷似していることは、まず、間違いない。

痩身であるはずの木食但唱が肥満体型なのは、なぜか。

但唱の足跡を追うことで、その謎が明らかになってゆきます。

「それは佐渡から始まったー木食弾誓とその後継者たちー」の3回目は、弾誓の弟子・二世但唱編です。

(*1回目のNO41と2回目のNO64をお読みください。)

 

始祖・弾誓はじめ但唱らその後継者たちは、日本宗教史正史には登場しません。

だから、彼らを記録する文書はごくわずか。

関係寺院に残された伝記のたぐいと地域史の断片だけです。

『但唱伝記』によれば、但唱は、天正7年(1579)、摂津国多田郷有馬郡高杉(現兵庫県三田市高杉)の生まれ。

13歳で父と死別、母と暮らしていたが、18歳の時、弾誓と師弟となることを誓ったという。

時に弾誓46歳。

親子ほどの年齢差がありました。

修行中の弾誓を訪ねて佐渡・檀特山に分け入ったのは、但唱、21歳。

それから7年間、弾誓に従って厳しい木食戒の修行に明け暮れます。

不思議なことに、7年もいながら但唱の記録は佐渡には残っていません。

私の手元にある参考図書は、宮嶋潤子『謎の石仏ー作物聖の足跡』、五来重『木食遊行聖の宗教活動と系譜』、田中圭一『地蔵の島、木食の島』ですが、但唱がいつ佐渡を離れたか、その時期についても一致していません。

そればかりでなく、佐渡を離れてからの活動年月日にもズレがあります。

多分、根拠とする原資料の記述が異なっているからでしょう。

私にはどれが正しく、どれが間違っているか判断する基準も能力もないので、混乱を避けるため、時系列で足跡を辿るのをやめ、場所とそこで起きた出来事を中心に書いてゆくことにします。

 

 ◎須坂市奇妙山平の岩窟

佐渡を離れた但唱は、その後、各地を遊行して回ります。

一か所に一番長く滞在した場所は、須坂市奇妙山平でした。

奇妙山平は、須坂市と上田市の市境、東は群馬県嬬恋村に接する地点の四阿(あずま)山の麓にあります。

 この地に籠る前に但唱は、師弾誓を箱根に尋ね、そこで弾誓流仏頭相伝を受け、「念来称帰命山」の法名を授かっています。

帰命山=奇妙山。

但唱の修行地だったので奇妙山と呼ばれるようになった、そう私には思えます。

 

念願の奇妙山平を私が訪れたのは、2013年の9月のことでした。

標高は1400m位ですが、車でならなんなく上ることができます。

緩やかな山道は両側が樹木でおおわれて視界がききません。

たまに見通しがきくと、深い谷間の向こうに切り立った崖が見えます。

崖は岩山で、樹木も生えないほどの岩地です。

見方を変えれば、石仏の石材には事欠かない山ということになります。

入山禁止のバーの手前に駐車、、バーをくぐって奇妙山平へ。

上り坂を20分ほど進むと「奇妙山石仏」の標識。

人が来ないのでしょう、道らしき道の草木は踏みしだかれてはいません。

クマザサをかき分けて進む。

やがて平らな場所に出るとそこに巨大な岩が横たわっていました。

「大岩」です。

岩を抉って、中に石仏が安置されている。

但唱が彫った阿弥陀如来ではないでしょうか。

「大岩」を通り過ぎて、さらに100mほど進むとポッカリと浮かんだような岩が出現します。

「浮島」です。

「浮島」の上には6,7体の石造物がおわします。

全部、作仏聖但唱の手になる作品です。

接写をしたい。

が、岩の高さは約3メートル。

よじ登ることはできても、しかし、下りるのはやばそうだ。

自分の体の老化は認識しているので、あっさりと断念。

下からズームで撮ったお地蔵さんは、風化が進行しているように見える。

お地蔵さんの目線の先には、観光名所米子大瀑布の滝が白く光っています。

伝説によれば、但唱と閑唱は毎朝滝壺まで下り、滝行の禊をしてから作仏に取り掛かったといわれています。

「大岩」まで戻る。

但唱が弟子の閑唱と暮らしていた岩窟は、高さ1.5m。

奥行はせいぜい2mほど、作りかけの石仏や石材がごろごろしていて、居住環境は劣悪そのもの。

雨露が凌げればよい、そう思っていたに違いなく、住み心地を良くしようとした形跡はまったくない。

今でこそ、林道が近くを走っているが、但唱がいた頃は、人通りが全くない山奥。

念仏を唱えながら作仏をする乞食のような行者の噂は、どうして広まったのだろうか。

いつの間にか、「国郡貴賤道俗男女夜に日を継て群衆し」共に念仏を唱えるようになったという。

信じられない話だが、本当のことらしい。

流行るものあらば、嫉むものあるは世の習い。

麓の37か寺の僧徒が揃って上ってきて、但唱の行う弾誓流念仏を邪道と非難した。

帰命山弘め給ふ処の念仏の意趣詰問し、其の有様甚だもって理不尽の至りなり」。

論戦を受けて立った但唱が、彼らを論破したことはいうまでもない。

檀家制度に安住し、信仰から遠ざかっていた既成寺院と弾誓流派との軋轢は、弾誓の弟子たちが行く先々で生じて、彼らを疲弊させてゆきます。

この奇妙山平の岩窟で但唱が彫った小さな石仏は、里人たちに「奇妙山さん」と呼ばれ、それぞれの家で大切に扱われたという。

但唱は、また、この岩窟で、木像千体仏の制作にも力を注ぎました。

 

◎万竜寺(須坂市亀山)

 その但唱作千体仏があるというので、奇妙山平から須坂市街に向かう途中の万竜寺へ。

万竜寺は、但唱開山の寺。

木食僧といえども真冬に奇妙山平の岩窟で暮らすことはできない。

冬期間は、里に下りて庵で過ごしていたはずです。

その庵が寺になって、万竜寺が開山したということになります。

山号は「帰命山」、但唱の法名そのまま。

万竜寺の山門付近の石仏は、但唱作とみなしていいでしょう。

境内には、但唱の負い仏なる石仏がおわします。

いつもこの石仏を背負って歩いていたのでしょうか。

万竜寺の但唱と村人には、深いかかわりがあったことを示す逸話がある。

ある旱魃の年、亀倉村は水不足に悩んだ。村人の困窮を聞いた但唱は雨乞い地蔵を造り、本堂に巨大な南無阿弥陀仏の掛け軸をかけた。集まった村人に雨乞い念仏を教え、雨乞い地蔵を米子川の河原に安置して、自らは流水に入ってみそぎを行った。女たちは、万竜寺本堂で百万遍の念珠を回しながら雨乞いの念仏を唱えた」

面白いのは、雨乞い念仏を唱えても験力がない場合は、雨乞い地蔵は川に投げ込まれる風習があるということ。

    雨乞い地蔵の儀式(上越市三和)

これは、新潟県上越市三和の雨乞い地蔵とまったく同じで、(NO69新潟県立歴史博物館企画展「石仏の力」に見る佐渡の石仏)もししかしたら三和地区の雨乞いも但唱が教えたのかもしれない。

石仏とはいえ、仏像を川に投げ込むという手荒な行為は忌避されるのが普通です。

それをあえてやるのが但唱流、拝んでいては生じない仏と人間との密接な関係が生まれることを重視したのでした。

 

肝心の千体仏は、本堂の中に安置されています。

本尊の傍らの、朱色の縦長ケースにびっしりと並べられています。

その数1056体。

千体より多い理由を須坂市教育委員会は次のように説明しています。

「千体仏は、信者が家に持ち帰り、願いをかけた。特に子供のない女性や子供を亡くした母親が小さい仏を抱いて寝て、子授かりや安産を願い、また亡き子の菩提を弔ったという。人々は願いが成就するともう一体作り寄進した。現在はそのほとんどが寄進されたもので、但唱作はわずか17体となっている」。

但唱作の17体だけが、ガラスケースに収められ、他と区別されている。

なぜか、千体仏を撮った全カットがピンボケだった。

但唱の怒りを買ったようだ。

私の所業が悪かったからか。

だが、悪しき所業は枚挙にいとまなく、特定できないのがなさけない。

この万竜寺の千体仏が、但唱の2万体造立の皮切りでした。

帰命山平と万竜寺をベースに、越後米山の安楽寺にも千体仏を造り、信州野辺、井上村、松代、森山、矢代、こんやい村、田口村、平村、むれい村、六ッ川村と次々と寺を建て、本尊を彫刻して納めるという超人的活動を展開します。

その後、帰命山平を出て、居を富士山山麓に移し、伊豆の三島に一寺を建て、千体仏を納め、須走村には堂を建て、千体仏を安置する。川口大宮の信誉上人の寺に千体仏を寄進して再び信州に戻り、上穂に山居して飯田の光明寺に千体仏を安置する。次に休む間もなく、房州に現れ、清澄寺に千体仏、上総のお滝観音に千体仏、越後と信州松本、佐渡でも千体仏を寄進、千体仏だけで1万3000体、千体とまとまらない、バラバラな木彫仏を加えるとついにその数2万体に達したのです。

(五来重『木食遊行聖の宗教活動と系譜』より)

 その2万体を供養して造立したのが、冒頭述べた如来寺の五智如来ということになります。

佐渡でも千体仏を寄進とありますが、現在確認されているのは、3か所。

そのうちの一か所、旧佐和田町の常念寺の千体仏は、本堂内陣の壁にきれいに並んでいます。

 

但唱の師・弾誓が佐渡にわたって最初に修行したのが常念寺でした。

だから、但唱が千体仏を常念寺に持ち込んだとしても不思議ではありません。

しかし、住職の話では、千体仏は金で装飾されたものも多く、明治時代に相川金山の関係者の寄進によるものではないか、とのこと。

『謎の石仏』の著者、宮嶋潤子さんは「信州と佐渡の千体仏は但唱の流れをくむ同じグループの作品」とみています。

但唱の作仏聖としての技術と千体仏にかける篤い信仰心は、弟子たちにも連綿と受け継がれてゆきました。

弾誓から数えて6世の法阿(通称木食山居上人)が、弾誓派の聖地、信州虫蔵山の高山寺に千体仏を寄進したのは、但唱の時代から約半世紀後のことでした。

          高山寺(長野県小川村)

面白いのは、金で装飾されたものもあること。

木を荒削りした但唱の時代の、素朴な木彫仏から大きく変化していることが分かります。

ということは、佐渡の常念寺の千体仏も明治よりずっと時代をさかのぼった作品とみてもいいことになります。

 

千体仏を十数か所に造仏寄進し、念願の2万体造仏を成し遂げた但唱は、所願達成供養のために巨大五智如来を造ることを決意します。

奇妙山平を離れて、造寺、造仏をしながら信州、甲州、遠州、伊豆、房州、越後、佐渡と回った但唱は、五智如来制作のため、駒ヶ岳の東側、伊那谷を一望する原始林に入ります。

「山吹村小横沢に入給うに国仲の人民貴賤群衆をなして助成す。殊に領主座光寺殿帰慶斎、仏法帰依の志浅からず。依りて帰命山来給ふ事を悦び、供養尊敬し領内の材木を惜しまず・・・」

木食念仏僧であり、作仏聖の但唱は、行く先々で「貴賤群衆を成す」状態を作り出しました。

カリスマ的宗教者だったことは間違いないでしょう。

加えて、人々を魅了したのは、作仏聖としての但唱だったのではないか、そう思います。

民衆救済を請願して刻む、粗削りで素朴な仏像は、人々が手で触り、仏を実感して、生きる支えとなるものでした。

しかも、その仏はわずかな喜捨で入手できたのです。

寺の本堂の奥深くに坐す本尊が近寄りがたく、遠い存在であればあるほど、この小さな木像仏はありがたい存在でした。

この時代、檀家制度が実施され、人々はどこかの寺の檀家として組み込まれ始めました。

寺を介して、支配、管理されているはずの者たちが、どこの馬の骨とも知れぬ、住所不定の遊行僧を崇め、参集する、これは支配者側にとって、由々しい問題であったはずです。

こうした時代の変化を敏感に感じながら、但唱は伊那の山中で弟子と共に巨大五智如来の制作に励んだのでした。

 

ところで、この巨大五智如来 については、二つの素朴な疑問があります。

一つは、江戸までの運搬は、何故、可能だったのか。

運ぶことができると踏んだから、作ろうとしたわけです。

但唱は、天竜川沿いに、また駿河湾から伊豆半島の港みなとに弾誓流念仏信者が大勢いることを知っていました。

それぞれの場でのプロの職人である信者たちが協力してくれれば、運ぶことができると考えたに違いありません。

その判断は正しく、巨大五智如来は江戸まで運ばれました。

背景にあるのは庶民パワーです。

もう一つの疑問は、五智如来の安置場所。

安置場所があるから造り、運んだわけです。

しかし、但唱が五智如来制作に取り掛かったとき、如来寺は影も形もありませんでした。

伊那で五智如来を造りながら、彼は、江戸で新しい寺を造る必要に迫られていました。

巨大な五智如来を安置するにふさわしい広大な土地が、まず、不可欠でした。

そのうえ、江戸市中に新しく寺を造立することを禁ずるお触れが、但唱の前に立ちふさがっていました。

これは庶民パワーではいかんともし難い事案です。

では、彼は、どうしたか。

どのような策を弄したかは不明ですが、権力の中枢に取り入ったのです。

権力中枢とは、天海大僧正。

 天海大僧正座像(如来寺所蔵)

家康、秀忠、家光三代にわたる幕府の宗教顧問として有名でした。

 天海が但唱に与えた「融通念仏弘通朱印状」(如来寺所蔵)

如来寺に遺る一枚の朱印状「融通念仏弘通朱印状」は、天海が但唱に与えた書状ですが、これには如来寺を東叡山末寺と認めることと、天台宗の融通念仏道場とすることが書いてあります。

両者の歩み寄りは、双方を利する要素を孕んでいました。

幕府にすれば、在野のカリスマ宗教家である但唱を野放しにするのは、秩序を乱すものとして認めがたい。

かといって、弾圧すれば、大衆的蜂起が起こりかねない。

彼らの宗教活動を認める形で体制内に取り込み、管理しようと天海は考えた。

一方、但唱は広大な境内地の寺を江戸に新造するための土地と資金がほしい。

その寺を、弾誓流派の拠点と但唱はしたかったのです。

檀家制度が導入され、寺の本末関係が確立する時代の流れのなか、弾誓流派だけは、どの宗派にも属さず、岩窟に籠って修行に明け暮れしていました。

このままでは、尻すぼみに消滅してしまう、こう但唱は考えたはずです。

寛永寺の末裔になり、天台宗の一員として融通念仏道場となる、その代償として如来寺は誕生した、のでした。

東叡山に至って天海大僧正にまみへ、弾誓仏より伝授する所の念仏の大事を密に語り給へば、大僧正嘆いて曰く、汝の伝えるところの念仏の心地、天台宗に立てる処の融通念仏の秘法なりと称嘆したまう。依りて天台宗に帰服して寺号、山号を望みて東叡山の末寺と成給う」。(『但唱伝記』)

土地も資金も天海が提供したのではないか、そういう推測も十分可能です。

因みに、如来寺が発行するパンフレットの「帰命山仏性院如来寺歴代」には、「開基・慈眼大師天海、第一世・木食第一世仏性院満領但唱」とあります。

ここで、冒頭の但唱座像に戻ります。

木食修行僧に肥満は似合わない、だから違和感がある、と私は感じた。

だが、この如来寺建設に邁進する但唱には、宗教家というよりも清濁併せのむ政治家のイメージがぴったりします。

政治家但唱が肥満体型であることに違和感はない。

制作者の林貞は師の変身ぶりを見事に表現したといえます。

 

高輪にお目見えした帰命山如来寺は、「大仏の寺」として、たちまち江戸の名所となります。

                 江戸名所図会(如来寺)

「江戸名所図会」の如来寺は、芝下高輪にあったが、明治41年、現在地の西大井に移転してきました。

  帰命山如来寺(品川区西大井)

緩い坂道の参道を上ると正面に「五智如来 帰命山」の石碑。

石碑の後方の瑞応殿に五智如来がおわします。

宝永年間、火災に遭ったが、薬師如来だけは災禍を免れ、作仏師・但唱の技法を今に伝えています。

       焼失を免れた薬師如来

堂内の左端に但唱座像。

五智如来が大きいので、小さく見えるが、「如来寺秘宝展」に出品されていたものと同じです。

 

五仏殿に向かって左が墓地への入口。

通常ならば六地蔵がおわす場所に3体のお地蔵さんが立っていらっしゃる。

左と真ん中の2体は、但唱作。

背面に「作者但唱」と彫ってあるから、間違いない。

「石仏散歩」と銘打ちながら、石仏不在の記事で忸怩たるものがあったが、ほっと肩をなでおろす。

造立年は、左が寛永15年(1638)、中央が寛永14年。

如来寺が完成して1年後の造立ということになります。

念願の大事業を政治家的手腕で成し遂げ、充実感に満たされながら、政治家から作仏聖の顔に戻って、彫りこんだ逸品。

        寛永15年造立

丸い顔、肉付きのいい頬、分厚い唇は、奇妙平の浮島に立つお地蔵さんにそっくり。

    寛永14年造立

但唱作と知って見るからか、プロの石工の作品にはない精神性の高さがあるように見えます。

「五智如来を石仏として作ってほしい」、但唱に、そう依頼してきた人物が出ます。

日本橋の材木問屋、樋口平太夫は豪商でありながら、100観音霊場を回るなど信仰心の篤い人でした。

樋口平太夫は、商売柄、天竜川から江戸までの舟運について熟知していました。

もしかしたら、彼は五智如来輸送のアドバイザーであり、スポンサーだったのかもしれません。

平太夫の申し入れを但唱は引き受けます。

制作場所は、真鶴。

海岸近くに帰命山如来寺と芝高輪の寺と同じ名前の寺を建て、その境内で弟子たちとともに石仏五智如来の制作に励みました。

真鶴を選んだのは、良質な石材の産地だったからであり、完成した石仏を運び出すのに便利な港がすぐ近くにあるからでした。

『謎の石仏』の著者、宮嶋潤子さんは、真鶴は弾誓信者が多く、箱根の阿弥陀寺、伊勢原の浄発願寺の膨大な石造物の石材や石工は真鶴からのものであったとし、但唱はこの地で石仏彫刻の技術を覚えたのではないかと推測します。

真鶴の帰命山如来寺は、今はありません。

明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。

しかし、寺の背後の崖下の洞窟に但唱らが彫った石仏群が並んでいます。

*ここでお断り。この如来寺跡の写真フアイルが消去されていることが今、判明。ショック。改めて撮影に行く時間がないので、仕方なく「鎌倉を歩くー真鶴の岩浦周辺 瀧門寺と如来寺跡」http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/manazuru-shiseki.html

から写真を借用することに。無断借用です。すみません。)

まず、洞窟入口前に石造物の列。

寺は崖に接して建てられていて、洞窟は本堂最奥に位置していたと思われます。

洞窟に入る。

照明がないので、入口付近の明るさと奥の暗さのコントラスとが激しく、一瞬何も見えない。

目が慣れると、入口付近には、閻魔や奪衣婆などの十王がおわすのが分かる。

洞窟内は二部屋に分かれていて、手前が地獄、奥が極楽をイメージしているようだ。

地獄の裁きの道具である人頭杖や業の秤も但唱作と宮嶋さんはいう。

奥の極楽部屋の最奥には、大日如来と聖観音が並んでいらっしゃる。

石仏の横の立札に「聖観音菩薩」と表示されているが、宮嶋さんが意見を聞いた西村公朝(東京芸大教授)氏は、通常の聖観音とは違い、神像的なので、単に菩薩型座像とするのが妥当と答えたという。

真鶴の如来寺跡の石仏群についての記述が長くなった。

本題は、この地で但唱らが制作した石造五智如来です。

但唱とともに鑿を振るったのは、信州伊那の山中で木像五智如来を造仏した弟子、感悦、林貞、教念たちでした。

完成した石造五智如来は、寛永18年(1642)、海路、京都まで運ばれた。

設置場所は、京都鳴滝音土山上の蓮華寺。

五智如来安置の理想郷として施主樋口平太夫が選んだ場所でした。

現在、石造五智如来は、京都市右京区御室の蓮華寺に在します。

生垣に浮かぶように蓮台が並び、その上に大振りの仏さまがゆったりと坐していらっしゃいます。

表情は穏やかで柔らか、石でできていることを忘れてしまいそうです。

左から、、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、宝生如来、薬師如来。

  

      釈迦如来             阿弥陀如来                  

      大日如来

  

     宝生如来               薬師如来    

背中には、作但唱とあります。

江戸の如来寺の五智如来と同じ並びです。

五智如来の後ろには、11体もの石仏が並んでいます。 

これらも、また、真鶴から運ばれてきました。

僧形のうちの2体が面白い。

一体は、但唱上人。

           但唱上人像

もう一体は、施主の樋口平太夫。

       樋口平太夫像

施主と、作者が並ぶのは前代未聞。

但唱上人が、木像の但唱像と酷似しているのは、作者が弟子の林貞だからでしょう。

双方とも微笑みを湛える笑顔がなんとも素晴らしい。

微笑みでその人物のスケールの大きさが分かるというのは、すごい。

モデルのスケールも大きいが、それを刻した作仏聖の技量も称賛に価する、双方相まっての、これは優品です。

 

石造五智如来の制作、輸送という大事業を終え、但唱は高輪の如来寺に戻る。

疲れた体を横たえて、彼は、再び起き上がることはなかった。

寛永18年6月15日、61歳でした。

 

彼の墓は、如来寺墓地にある。

訪れた2月のはじめ、咲き始めた白梅の中、無縫塔はすっきりと屹立していました。

法名「仏性院満嶺但唱上人」。

合掌。

 ー未完ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
如来寺跡 (青空)
2020-01-19 14:43:04
大学のレポートで如来寺跡を訪れました。洞窟での石仏群と独特な世界観に圧倒されましたが、あまり資料がなく検索していて、こちらのブログを拝見しました。とても写真とともに詳細に記事を書かれているので読んで大変興味深かったです。ぜひこれからも続けてください。ありがとうございました。
返信する

コメントを投稿