天祖神社を出て、日本医大つつじ通りを西へ進む。
日本医大病院の角を右折すると左に「橘桜会館」の文字が見えてくる。
そこが「夏目漱石旧居跡」。
道路に面して、石碑が1基と文京区教委による説明板がある。
まずは、碑文から。
原文は縦書きです。
「夏目漱石は明治卅六年一月から帰り、三月三日
ここ千駄木町五十七番地に居を構えた。
前年二箇年は一高と東大の授業に没頭したが、卅八年
一月「吾輩は猫である」「倫敦島」等を発表して忽ち
天下の注目を浴び、更に「猫」の続稿と竝行、卅九年初
から「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して
作家漱石の名を不動にした。歳末廿七日西片町に移り、
翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。
千駄木町は漱石文学発祥の地である。
森鴎外も前にその家に住んでいた。家は近年保存のため
移築され、現在犬山市明治村にある。
昭和四十六年三月三日
碑の右側面には「題字 川端康成書 碑文 鎌倉漱石会」とあり、
左側面には「日本医科大学及同大学同窓会/鎌倉漱石乃会他有志二百余名」と刻されている。
隣のビルとの境の塀上にネコがいる。
もちろんネコの置物だが、いかにも生きていて、ゆっくりと歩いているかのようで、目を奪われる。
「吾輩は猫である」のネコもこの家に迷い込んだものだった。
洒落た趣向がすばらしい。
漱石文学と家との関係は、碑文に過不足なく綴られているが、もう一枚、説明板が碑と隣り合わせに立っている。
文面は、碑文とほぼ同じで、新しい情報はなさそうだが、なぜ、わざわざ作られたのだろうか。
文化財に指定すると必ず説明板を設置する決まりがあるからだろうか。
夏目漱石旧居跡(区指定史跡)
日本医科大学同窓会館 文京区向ヶ丘2-20-7
夏目漱石 本名・金之助。慶応3年ー大正5年(1867-1916)。小説家。この地に、漱石がイギリ
ス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住
んだ家があった。(家主は東大同期の斎藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の
筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、「猫の家」と呼ばれ親しまれた。
この地で『倫敦島』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍分団に名を表し
た。漱石文学発祥の地である。
明治村の夏目漱石邸
漱石が住む13年程前の明示23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は
ここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。
二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は、
愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。
文京区教育委員会 平成7年3月