石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-25-駒込土物店縁起(本駒込1-6-16 天栄寺)

2019-06-23 08:41:49 | 石碑

 東京はどこも変わった。

昔の面影のある場所はほとんどなくなってしまった。

そのほとんどは、人が増え、ビルが立ち並び、賑わいを増した場所ばかりだが、ここ本駒込駅界隈は、かつての賑わいがうそのように静まり返っている。

その賑わいは、やっちゃば(青物市場)があったからのもので、中山道と岩槻街道を結ぶ間道の辻にあったから「辻のやっちゃば」と呼ばれていた。

もともとは、江戸時代、近郷の村人たちが野菜を江戸の町へ運んできた時、この辻にあった大きなさいかちの木の下で、一休みしたのが、やっちゃばの発端だった。

明治になり、東京市の中央青物市場の一つとなり、1昭和12年(1937)、巣鴨に移転するまでこの場所で営業していた。

昭和なら写真があるかと探したが、見つからない。

上は「文京区ふるさと歴史館」の再現模型。

中央の木がさいかち。

その何代目かの子孫が天栄寺境内にある。

余りにも寒々しいので、別の場所の、かって人々に日陰を与えた巨木を想起させる写真を付けておきます。

 

◇駒込土物店縁起(本駒込1-6-16 天栄寺)

「辻のやっちゃば」は「駒込土物店」とも言われ、その縁起は、天栄寺境内の石碑に詳しく書かれている。

ちょっと長いが、転載しておきます。

 

駒込土産店縁起碑

この所は凡そ350年前の元和の頃から、駒込辻のやっちゃば、或いは駒込の土物店(だな)と呼ばれて神田、千住と共に江戸三大市場の一つとして昭和12年(1923)まで栄え続けた、旧駒込青果市場の跡である。その昔この辺一帯は百姓地で、この碑の近くに5つ抱え程のサイカチの木があって斉藤伊織という人がこの木の下に稲荷神を勧請して、千栽稲荷と唱えて仕え祀った。近隣のお百姓が毎朝下町へ青物を売りにゆく途すがら、この木の下で休憩するのを常とした。その時たまたま買人があるとその斉藤氏が売り買いの仲立ちをした。そのことが市場の始りであると天栄寺草創期に明らかにされている。その頃この所は仲仙道白山上から間道をもって岩槻街道に通じる辻で、御高札場や番屋それに火の見櫓などがあり、辻の要路であったので漸時西側の天栄寺門前、東側の高林寺門前から浅嘉町一帯にかけて青物を商う店が軒を並べ、他の商家と共にすこぶる繁昌したのである。とりわけこの市場は幕府の御用市場でもあった。明治10年(1877)府令にyって駒込青果市場組合という名称で組合が出来たが誰も市場などと呼ぶ者はなく、辻のやっちゃばとか、土物店と呼び親しんだものである。 土物店とは青物の多くが土の付いたままなのでそれに相応しくつけられた名称である。その後明治34年(1901)警視庁令によって青物取扱者だけ高林寺境内に移され営業を続けてきたが、大正12年(1923)の関東大震災の時には類焼を免れたので組合員と小売商とが相計り、数日にわたって義捐、慰問、焚出しなどして罹災者の救済に尽力した。このように、城北最大の市場として繁栄していたが、中央卸売市場法により、昭和12年(1923)3月25日現在の豊島区巣鴨にある豊島市場に収容されたのである。 遇ぐる太平洋戦争によって、旧駒込青果市場のあった界隈も戦火に遇って全く昔の面影さえとどめず、世人の記憶からも今や忘れられようとしているのを惜しむの余り、浅嘉町の方々と市場関係者ともども相図って、ゆかりのこの地におよその由来を碑に刻み、後世に残すものである。  昭和38年(1963)3月25日 題字 地又天栄寺     第22世 住職 道誉正真  出口鎌吉 撰文  寺門隆夫 書

 

やっちゃばは岩槻街道沿いに延びていたが、西端を天栄寺とすると東は高林寺前までだったと碑には書いてある。

 

 

その高林寺には、緒方洪庵の顕彰碑がある。

◇緒方洪庵顕彰碑(向丘2-37-5 高林寺)

 墓地中央に3基の石塔。

中央が、緒方洪庵の墓。

左は、八重夫人の墓。

そして右は、緒方洪庵顕彰碑。

蘭学者であり、蘭医てせあった緒方洪庵は、大阪に「適塾」を開き、多くの有能な人材を育てた。

大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉、佐野常民etc、逸材は枚挙にいとまがない。

適塾の入門希望者は来るもの拒まず、蘭医としては、貧富によって患者を差別することがなかったという。

顕彰碑は全文漢文で私には読めないが、資料には「いやしくも西書を読まんと欲する者あらば、即ち包容して拒むことなく、また、其所業何の為めなるかを問わざるなり。王政維新に至り、百事競って興り皆人材を待つ。当時、職司局を率いる者、則ち多く先生の門より出づるなり・・・」とある。

緒方洪庵の墓の左には、八重夫人の墓もあるが、この夫人の人間的魅力については、福沢諭吉が「私がお母さんのようにしている大恩人」と『福翁自伝』に述べるほどであった。

八重の葬儀には、2000人が列をなしたと言われている。