根津神社には数多くの石造物があるが、今回は2基の石碑と若干の石造物を取り上げます。
◇つつじ苑の記
根津神社といえば、つつじ。
現在でも50種3000株のつつじが4月中旬から咲き始めるが、もともとは甲府宰相徳川綱重が自宅の庭に植えたのが始まりだった。
神橋を渡り、左折してつつじ苑入口を入ると、右に高い石碑が立っている。
つつじ苑の記
当根津神社の社地は江戸時代もと甲府宰相徳川綱重の下屋敷であり当時よりつつじの名庭
であった 没後五代将軍徳川綱吉は兄綱重の子綱豊を嗣子と定めた時その氏神たる当神社
の御神恩に感謝しこの邸地に当時の名工をすぐって世に天下普請と称せられる壮大な造営
を行い、今に残る華麗な社殿、神門などを奉建 宝永三年駒込の旧鎮座地より一品公辨親
王司祭の下に遷座祭を斎行 神苑には更につつじを増植し 以来この地は「つつじが岡」
と称せられ実に名勝であった 併し年処を経るに従い漸くその姿も衰え右の佛の亡び行く
事を思い慨き十数年前より氏子一同献木の挙を興し昭和45年「文京つつじ会」を結んで花
季には「つつじ祭」を催行 その充実と発展とに努め 今や樹数 数千 本 その種類
頗る多く 往時の「つつじが岡」に勝る盛観を見るに至った本年第十回つつじ祭開催に当
り有志一同相謀り 記念に本碑を建立 その由来を後昆に伝える所以である
昭和54年4月吉日
神橋方向へ戻り、楼門左の道を進むと疎水沿いに細長い丸みを帯びた石材が横たわっている。
境内案内図では、「文豪の石」とある。
明治時代、根津神社の近くに住んでいた森鴎外や夏目漱石が腰掛けた石というのだが、写真があるわけでもなく、眉唾伝説。
しかし、そのすぐそばの「噴水型水飲み場」が森鴎外の奉納品であるのは、間違いない。
「戦利砲弾奉納 陸軍軍医監 森林太郎」と側面に刻されている。
どうやら砲弾を展示する台石だったのを、「平和利用」したものらしい。
乙女稲荷神社の鳥居をくぐり、石段を上ると、
左右からの千本鳥居の切れ目に出る。
左からの千本鳥居の終点にあるのが「徳川家宣胞衣塚」。
「胞衣」と云って分かる人は少ないだろう。
説明板を転載しておきます。
徳川家宣胞衣塚
六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある.
この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)
で、綱重の長子家宣は寛文二年(1662)四月五日ここで生まれた。
胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大
切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えら
れる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋
めるという所もあった。
一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家
康の胞衣塚がある。
この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるな
ど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
塚正面には、明治14年に建てられた『胞衣塚碑』がある。また、家宣の産湯の井戸と伝え
られるものが、社務所の庭にある。
家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根
津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
─郷土愛をはぐくむ文化財─
文京区教育委員会 昭和58年3月
そのまま右の千本鳥居を西口方向に進むと出たところにあるのが、庚申塔群。
群と云っても、6基の庚申塔を6面に張り合わせた石塔です。
他に塞大神碑もあるが、今回は石碑がメインなので、パス。