石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

82 佐渡に残る「足尾山」塔(1)

2014-07-01 05:38:52 | 民間信仰

77歳になった。

ただし、数えで。

喜寿を祝う中学校の同期会出席のため佐渡に渡った。

同期会のほか、目的が二つ。

一つは、6月最初の土日夜に行われる、相川の「宵乃舞」を観ること。

相川の、昔ながらの古い街並みを、いくつもの踊連が相川音頭を流し下る。

灯りといえば、提灯のみ。

全体像は闇に沈んで、音曲だけが通り過ぎる。(写真は最も明るい場所での撮影。実際はもっと暗い)

情緒たっぷりの、新しい佐渡の風物詩だった。

 

もう一つは、「足尾山」塔めぐり。

去年、新潟県立博物館の企画展「石仏の力」で足形石造物を初めて見た。

佐渡から出品されたものだった。

その時の驚きについては、このブログNo69でも書いたが、次回、佐渡へ行った時には、是非、現物をみたいものだと思った。

足形石は、「足尾神社」への奉納品。

足尾神社は茨城県石岡市の足尾山にあるが、足尾山信仰は地元ではすっかり途絶えている。

それなのに、なぜか、佐渡には「足尾山」塔が20-30基もあるというのです。

ならば、是非、見て回りたい。

その所在地を知りたいと思い、「石仏の力」展での、佐渡の石仏を担当した佐渡市教育委員会のH氏に連絡した。

H氏は今年3月、定年退職していなかったが、後任のT氏が応対してくれた。

T氏が郵送してくれた足尾山塔資料は、手書き資料のコピー。

これが、信じられないほどの個人的労作だったのです。

A3用紙一杯に手書きされた詳細な石仏地図が数十枚。

  バス路線「本線」沿いの中興あたりの石仏地図。下部横の二重線が本線。右、両津。

バス路線ごとに分類され、石造物所在地には番号がふってある。

島とはいえ、佐渡島は沖縄本島に次ぐ日本2番目の大きな島。

その島のどんな場所であろうとも踏破するということは、想像すらできない難事です。

調査したのは、故・祝(ほうり)勇吉さん。

県立両津高校の教師を退職後、昭和51年(1976)から12年間、バイクで島内を駆け巡り、石仏を記録し続けたという。

潰したバイクは7台というから、凄い。

凄いといえば、祝さんの記録は、地蔵なら地蔵、観音なら聖観音、如意輪観音と石仏の種類ごとに分類し、一基一基の像容、形体、刻文を手書きし、地図の番号順に整理してあること。

 南線沿い「足尾山」塔一覧の一部。

「足尾山」塔だけの分布地図もある。

信じられないほどのきめ細やかさ。

佐渡は「地蔵の島」といわれるほど、地蔵が多い。

祝さんの調査では、その数なんと33416基。

2位の光明真言塔の495基の67倍もある。

その全部を手書きしたかどうかは確認していないので何とも言えないが、 手書きが基本姿勢であったことは確か。

当然、祝さんは写真も撮っています。

    祝資料の足尾山塔の写真

しかし、写真では、刻文が読みづらい。

右、()内の数字は、バス路線ごとの地図上の番号。これは、南線地図の96番。
上の数字は寸法。高さ×横幅×厚さ。
下部の数字は台石の高さ。(トリミングの失敗で下部が切れている)

 

だから、手間暇かけて一体ずつ手書きしたのに違いありません。

T氏から送られてきた「足尾山塔」資料は、祝さんの手書きの石塔とその所在地を示す地図でした。

その資料を手にして、私は言葉を失いました。

「こんな凄い人がいるんだ!」

興奮のあまり、その夜はなかなか寝付けなかったことを覚えています。

 

佐渡の「足尾山塔」の写真は資料としても価値がある、だから「足尾山塔」めぐりをしたいと思っていた私ですが、祝さんの詳細な記録を見て、すっかりその意欲を失くしてしまいます。

12年もかけて調査したものをわずか2,3日で見て回ろうという魂胆が、我がことながら「いじましく」思えたからでした。

でも、見て回りたい気持ちは抑えきれず、6月8日、両津港着岸後、直ちにレンタカーで「足尾山塔」めぐりに出かけました。

助手席には、祝さんの資料を広げて・・・

これは、私の「佐渡に残る足尾山塔めぐり」の記録であり、同時に佐渡の山間僻地の紀行文でもあります。

 

両津から河崎線を水津方向へ。

野崎で右折、城ノ腰へ向かう。

 ①、②、③は、私が回った順番。

道路の両側は一面の水田。

ここらは、「羽茂太郎久知次郎」と称される佐渡の穀倉地帯。

久知というのは、この辺りを支配していた地頭の久知家のこと。

丘陵に入って、祝地図に示された「足尾山」塔を探すが見当たらない。

⑰が最初の目標の「足尾山」塔がある場所。

地図には道路の右側にあるが、結局、道路を左に入った所の墓地にあった。

祝さんが調査してから35年、道路そのものが消滅、新設されている可能性がある。

1、檀塔墓地(城ノ腰)

 久知地頭家の墓がある中世からの墓地の一角に小屋があり、中に「足尾山」塔があった。 

荒れ果てた墓地に似合わない立派な宝篋印塔。

久知家の墓のようだ。

墓地の一角に小屋があり、中に「足尾山」塔。

「足尾山」の「山」がつる草で見えない。

祝資料には、「わらじあり」とあるが、見当たらなかった。

「足尾山」は足が悪い人が祈願するとよくなると信じられた。

治ったらわらじなどの履物を奉納するのが習わしだった。

わらじがない、ということは、35年前には、生きていた信仰が、今では消滅したということになる。

2、一重堂(下久知)

一重(いちえ)堂は、河崎から赤玉へ行く道と長安寺からの道の交差する三叉路にある。

堂と石仏の佇まいは、佐渡でも三指に入るのではないか。

いいムードを醸し出している。

私は2度訪れて、そのたびに、石仏写真を撮ったが、ついぞ、「足尾山」塔には気付かなかった。

この一重堂に、現物を見たいと念じていた足形石があることになっている。

期待は膨らむ。

お堂の左端の石段を上がり、お堂の前を横切って石仏群に向かう。

お堂に寝そべって井戸端会議をしていた高齢の女性たちの視線が一斉に注がれる。

会話が途切れるから、こっちを見ていることが分かるのだ。

「だれらっちゃ?」

「たびのもんらねえかさ」

お堂を過ぎると4つの小堂が並び、その先に七観音の石仏が在す。

手前から3番目が「足尾山」塔の小堂。

石塔と、その石塔に懸けられた半纏が埃にまみれて全体が白っぽく、文字が読めない。

半纏らしき衣類の布を動かしてみる。

「足尾山」の文字が見える。

その右わきに、自然石の「足尾山」もある。

「足尾山」塔の下を見る。

いくつか足形石があった。

定型はないようだ。

みんな違った形。

 

おそらくプロの石工の作品だろう。

石工集落・椿尾か小泊の石工だろうが、足形の注文に面喰ったのではなかろうか。

お手本や前例のないものを彫るのだから、緊張したに違いない。

石工を緊張させた足形が3つもある。

足が悪いので、「足尾山」に祈願したら治った。

そのお礼に、わらじや草履を奉納するのだが、石の足形は珍しい。

おそらく全国でもここだけではないか。

帰り際、暇を持て余して、好奇心一杯の婆さんたちの餌食になった。

「Youは何しにニッポンへ」というテレビ番組があるが、「Youは何しに一重堂へ?」。

餌食になったついでに訊いてみた。

「わらじじゃなくて、どうして石の足形なの?」

80歳代とおぼしき面々は、しかし、「足尾山」そのものがお堂の脇にあることを、誰一人として知らなかった。

「へえ、そんなもん、あるのんか」。

彼女たちが子供の頃、昭和10年代から20年代、すでに「足尾山」信仰はここ下久知ではなくなっていたように思われる。

3、天満宮(河崎)

再び河崎線に戻って、河崎へ。

JAがある。

ということは、河崎の中心地だろうが、そこだけすっぽりと時代が江戸か明治の空間がある。

天満宮だ。

無住の寺社や堂は、どこも時代から取り残された感じがあるが、ここは特に時代遅れの感が強い。

本殿の脇にお地蔵さんと並んで、「足尾山」塔がある。

石塔右側に「明治八年十二月吉日」の文字。

「足尾山」塔の周りには、小さな地蔵がずらり。

この小地蔵は、佐渡特有のもので、いたるところにあるが、ここのは何故か、全部、首がない。

神仏に願いをかけて、成就したら新しい地蔵を奉納し、古い地蔵の首を切る、そうした風習が佐渡にはあったと聞いたことがある。

本当だろうか、でもそうでもないと理解できないほど首なし地蔵は多いのだ。

祝資料には、「(備)わらじ・草履・下駄あり 縁日十一月三日」とある。

注意深く探してみたが、わらじなどは見当たらなかった。

今でも縁日はやっているのだろうか、天満宮の隣の家で声をかけてみた。

返事がない。

玄関は施錠されていないので、中に入って呼んでみるが誰もいないようだ。

今回佐渡のあちこちで同じ経験をした。

鍵をかけずに外出している家が多い。

空き巣や泥棒の心配がないからだろう。

佐渡だからなのか、田舎は日本中どこでも同じなのか、それにしても不用心極まりない。

       河崎海岸から大佐渡を望む

 いったん、両津まで戻って、今度は南線を西へ。

潟上のバス停を左折して、正明寺から田野沢に向かう。

4、地蔵堂(新穂・田野沢)

 かつて堂は地域の拠点だった。

村人の集会場でもあった。

今でも集会場として機能している堂もあるが、久しく人が寄り付かない空き家状態の堂が少なくない。

地蔵講や庚申講が途絶えたからでもある。

地元の人でも、若い人だと堂の場所を尋ねられて返答に窮したりする。

田野沢の地蔵堂もその一つ。

手入れはされているようだが、どことなく侘しさが漂っている。

石段を登ると左に3基の石塔。

その左端が「足尾山」塔だった。

 

右に「明治四十三年」、左に「戌八月立之」と刻されている。

明治から大正にかけて、足尾山信仰がこの地に根付いていたことが分かる。

田野沢から見た大佐渡の山脈。

田植えをした田より、減反で放置され原野に戻りつつある面積の方が広い。

憂うべき日本の農業の姿だが、田んぼが少なくなって面喰っているのは朱鷺かもしれない。

隣の集落、正明寺は、朱鷺放鳥の拠点。

このあたりは、朱鷺の生息地として知られてきた。

無農薬の水田が朱鷺の生息には不可欠とされている。

困ったもんだと朱鷺はつぶやいているのではないか。

 

佐渡といえば、金山と朱鷺だろう。

しかし、私は小学校から高校まで佐渡にいたが、野生の朱鷺を見たことがない。

私の家は大佐渡の金北山の麓、今、佐渡市役所がある旧金井町にあった。

新穂から金井までほんのひと飛びではないか、なぜ、飛んでこないのか、翼が大きいのにやけに行動範囲の狭い鳥だな、とずーっと思っていた。

http://sasaduka.com/art/story/toki01.htmより無断転用

だが、私が間違っていた。

そのニュースを聞いて「えっ、ほんとかよ」と耳を疑った。

それは、最初に放鳥されたグループの何羽かが、越後や信州にいることが確認された、というニュースだった。

その朱鷺が佐渡に戻った、という続報もあった。

朱鷺は飛んで海を越えたのだった、何度も。

それなら金井にも飛んで来ればいいだろう、今でも、そう思っている。

5、路傍(畑野・野田)

 佐渡には二つの山脈がある。

大佐渡山脈と小佐渡山地。

大佐渡の方が山が高く、険しい。

で、あるからか集落は山の麓にあるだけで、山の中にはない。

小佐渡の山は低い。

それだけにかなりの山奥まで人家がある。

その典型は、猿八集落だろう。

「えっ、こんなところに家が」と初めての人は驚くこと請け合い。

次の「足尾山」塔は、その猿八集落への道の途中にあることになっている。

畑野町の信号を左折、松ヶ崎への道の途中、上小倉バス停の先を右に曲がる。

分岐地点に2,3軒の家があるだけで、すぐに山道となって、どこにも人家は見られなくなってしまう。

対向車が来たら訊いてみようと思うが、車は走ってこない。

困ったな、と思っていたら、見通しのいい場所に出た。

農地の向こうに家が1軒、山の麓にたっている。

訊きに行きたいけど遠いな、と躊躇していたら、ご婦人がひとり家から出て、こちらに向かってきた。

農作業に出かけるための様だった。

私と同年輩か。

大声で呼び止めた。

「足尾山」塔については、答えがすぐ返ってきた。

石塔についてこんなにレスポンスが早いのは稀有なことだ。

「もう少し行くとカーブにさしかかり、そこから坂道になる、そのカーブ地点の左にあります。」という。

古代文字ともいわれる異体文字がすぐそばにあるとも教えてくれた。

教えられたとおり、「足尾山」塔は、カーブ地点にあった。

崖のスロープ、人の目の高さくらいにあるので、分かりにくい。

写真上部、光の当たっている葉の下の暗がりに石塔が見える。

彼女に教えて貰わなかったら、決して見つけられなかったことだろう。

「足尾山」ではなく「足尾神」と彫られている。

祝資料では「ここで会った婦人の話では、徳和の足尾山堂より受けたものという」と書かれてある。

徳和の足尾山堂については、次回、触れるが、佐渡で最初に足尾山信仰を持ち込んだお堂で、そこから分祠したものらしい。

それにしても、なぜ、こんな人気のない場所にあるのか。

先ほどの御婦人が嫁いできた約50年前には、このあたりには何軒も家があったというから、人馬の往来も激しかったに違いない。

人通りのないところに石碑、石塔は建てないのが普通だから。

異体文字は、「足尾山」塔の道を挟んで反対側にあった。

 

  小祠の左、黒っぽいのが異体文字の石

近寄って覗き込まなければ、文字があるとは思えない。

 

この道路は、中部北陸自然歩道の一部なので、環境庁による解説版がある。

それによれば「ある古代文字研究家は『ソウルから海を渡ってやってきた』と解読し、島内の書家は「大日霊貴命(おおひるめのむちのかみ)」の異体字で、文盲者がこれを模写したもの、など諸説ある」らしい。

解読に諸説あることも面白いが、こんな山中に人為的な刻字がなぜあるのかも興味深い。

通りかかる人に見てもらいたい、という意思は、石の置かれた場所からは感じられないのです。

6、阿弥陀堂(三宮)

阿弥陀堂を探すのに30分も時間を費やした。

三宮バス停の手前を右折すべきなのに、2-300m手前の、佐渡博物館の横に出る195号線に入り、峡田集落を探し回っていたらしい。

何人かに訊くが、阿弥陀堂を誰も知らない。

「三宮バス停近くの天満宮の隣のお堂」に反応してくれたのは、80歳くらいの女性だった。

「ついてこいっちゃ」。

農作業を止めて、軽い身のこなしで軽トラに乗る。

走り出した軽トラの後を追いかける。

止まった場所は、墓地。

確かに神社とお堂が隣り合っている。

親切な彼女に礼を言って別れ、「足尾山」塔を探す。

塔は、墓地とは切り離された形で、道路を挟んで反対側にあった。

 右端が「足尾山」塔。その左は庚申塔、左端は光明真言百万遍塔。

 

墓標ではない石碑、石塔が並んでいる。

「足尾山」塔の上部には、種字अ(ア)が彫られている。

अは、大日如来の種字のはずだが、と種字一覧を見たら「諸尊通種字」と書いてある。

どの神仏でも通用する種字という意味らしい。

だから「足尾山」にअ。

分かりいいが、適当でいい加減な気がしないでもない。

7、十王堂(真野・合沢)

十王堂は分かりよかった。

南線を左折、合沢集落に入るとすぐ左側にあった。

私は初めて来たが、一目で気に入った。 

掃除が行き届いて、使い込まれてはいるが、清潔なお堂。

お堂の横の広い庭の向こうには、大振りの石碑、石塔が並んでいる。

下久知の一重堂と石塔もいいが、この十王堂と石造物のバランスもすばらしい。

この二つに吉岡の下の堂を加えて、佐渡のお堂ベスト3としたい。

石碑、石塔の前には、生花。

しおれていないから、今日、供えられたのだろう。

お堂の掃除といい、供花といい、信仰が今なお、生き続けていることが分かる。

「足尾山」塔は石塔群の一番右端にあった。

建立は、明治39年11月。

縁日は4月18日と祝資料には付記されている。

今でも行われているとは思われないが、縁日はいつ頃から止めたのか知りたくて、お堂の前の家の呼び鈴を押したが、返事がなく諦めた。

帰ろうとしてお堂を見たら、貼り紙がある。

馬頭観音堂の祭礼予告だった。

明後日の午後3時からとある。

都合がついたら是非見たいもんだと予定表に記入する。

 

時計は、17時半。

今夜は、相川の宵乃舞を観るつもり。

相川にある「足尾山」塔の撮影をしてから踊りを観に行くことにして、一路、相川へ。

8、旅館「山喜」前(相川・鹿伏)

相川の鹿伏にある観光旅館「山喜」に着いたのは、18時ちょっと過ぎ。

 左が「山喜旅館」、石仏群は電柱の前、暗がりの中にある。

まだ、写真を撮るには十分の明るさがある。

「山喜」旅館の前の道を挟んだ海側に、石仏群がある。

地蔵は覆い屋の中におわすが、石碑、石塔はみな露天。

2列に並んだ前列左端が「足尾山」塔だった。

中央に「足尾神」、その右に「天下」、左に「泰平」と刻されている。

嬉しかったのは、わらじが石塔の横に懸けられていること。

祝資料には「大わらじあり」と付記されている。

35年の長い時を経て、こうした風習が今も生きていることに感動すら覚える。

そもそも、わらじを編める人がいることがすばらしい。

85歳以上でないと難しいだろう。

わらじを編める人がいなくなれば、こうした風習も廃れてしまう。

最後にいいものを見た。

収穫大きい一日だった。

さあ、宵乃舞を観に行こう。

 

とりあえず、今回はこれで終わり。

次回は、真野、羽茂、赤泊を回る予定。

茨城県石岡市の「足尾山神社」にも行って来ます。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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かんそう (大久保誠)
2017-02-17 08:59:36
面白く読ませていただきました。 家の実家は畑野町小倉で度々足尾神社前を通っておりました。(特に春、ワラビ採りに) 足の治癒と旅の安全を願う神社というか祠でした。
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