足が痛む。
外は寒い。
出かけたいが、その元気がなく、今回も写真フアイルから。
石仏で好きなのは、馬頭観音。
人間の墓標より、想像をかき立てられる事が多い。
飼主の愛情が如実に分かる墓が少なくない。
愛馬を線彫りした馬頭観音碑(那須町)
自分の子よりも愛馬の死が悲しかったのではないか、そう思わせる墓もある。
記憶に残る馬頭観音をフアイルから取り出してみた。
我が家から最も至近距離にあるのは、遍照寺(板橋区仲宿40-7)の馬頭観音。
遍照寺は本堂新築工事がスタートして、境内がスッキリ。
参道脇に石仏が数基、庚申塔と馬頭観音です。
ここに馬頭観音があるのは、江戸時代、遍照寺が宿場の馬つなぎ場だったからです。
板橋宿では、人足50人と馬50頭が、常時、確保されていました。
注目すべきは左から2番目の黒っぽい石碑。
「鹿毛馬 瀬川」と刻されています。
大正年間の造立で、歴史的価値はありませんが、馬の名前が彫られた墓は珍しい。
競走馬として登録されるサラブレッド新馬は、毎年、数千頭になります。
その頂点に立つのが、ダービー馬。
その栄誉は計り知れないものがありますが、ダービー優勝馬でも墓があるのは、ごくわずか。
殆どは馬肉として消費されてしまいます。
こうしたことを考えれば「鹿毛馬 瀬川」の希少価値が分かろうというもの。
左に小さく「外斃馬」とあるから、仕事中どこかほかの場所で行き倒れたのかも知れません。
どんな馬だったのか、興味が湧きます。
長徳寺(板橋区大原町40-7)には、馬頭観音庚申塔があります。
宝永3年(1706)造立の一面八手の青面金剛。
刻文は「奉造立馬頭明王庚申講中」。
馬頭観音ではなく、明王であるのが面白い。
世話人として板橋権右衛門他23人の名前が彫られています。
この頃にはもう板橋家が権勢をふるっていたのですね。
長命寺(板橋区東山町48-5)石仏は、頭に「馬」の文字があるから馬頭観音とされていますが、像容からそれとは思えません。
好事家があれこれ論評するのですが、馬頭観音であるような、ないような・・・。
同じ長命寺でもこちらは練馬区の長命寺(練馬区高野台3-10-3)。
「東高野山」という山号でも分かるように、関東有数の霊場で、石仏の宝庫でもあります。
馬頭観音立像も逸品。
再び板橋区へ戻ろう。
区内には現在、53基の馬頭観音がある。
寺社に25基、路傍に28基。
寺社にあるのもその大半は路傍にあったものです。
排ガスを浴び、ほこりまみれで誰からも見向きもされない路傍の馬頭観音があるなかで、大事に保護されている石仏もあります。
板橋区蓮根2-28の馬頭観音堂は、コンクリート造りの立派なお堂。
本尊の顔正面、化仏と両目、鼻がつぶれているのは、東京大震災で頭から倒れたため。
この馬頭観音が開基した元禄11年(1698)当時、この辺りは一面の田んぼか水草生い茂る沼地でした。
堂はなく、雨ざらしの石仏は、道路標識であり、馬方と馬の格好の休憩場所だったはずです。
きちんと保存してあるということでは、西台2-4の馬頭観音は特筆もの。
寛政2年(1790)造立だから225年経っているのに、まるで昨日できたばかりのような感じ。
朱色に線が彩色されていることが、分かります。
台石正面に「南祢りま道」、右「戸田わたし道」、左「西 吹きあげ道 北方 はやせ道」と彫られ、道標でもあるから、野ざらし状態の期間があった筈なのに、そうしたことを微塵も感じさせない綺麗さ。
11月17日に、毎年、集落の11軒が集まり、祭を行うというので行って見た。
メーンイベントの坊主の読経の後は、お堂の周りで酒を立ち飲みして雑談するだけ。
それぞれの農家から馬がいなくなって、70年。
東京23区で今でも馬頭観音祭が行われていることは、驚きだった。
もう1点、この馬頭観音には特徴がある。
三面だということ。
板橋区内53基の馬頭観音で三面は、たった2基。
ここの他は、松月院の三面馬頭観音だけです。
馬頭観音は、松月院が経営する幼稚園の壁に組み込まれたお堂の中に坐しています。
幼稚園の建物中央の凹んだ所が馬頭観音堂。
恐らく元々参道に面したこの場所にお堂があり、お堂の位置を変えずに、取り込んだ形で、幼稚園が建設されたのでしょう。
大寺ならではの配慮が感じ取れます。
川越街道の東側は板橋区と思いがちですが、東武練馬駅と川越街道に挟まれた一帯は練馬区。
旧川越街道が走る北町1に珍しい馬頭観音堂があります。
なんと三叉路の道路のど真ん中に観音堂。
馬頭観世音の朱色の幟が、車が通るたびにはためいています。
堂の中を覗くと、馬頭観音の前に馬の模型が2体。
馬型のある馬頭観音堂は他に知らない。
ちなみに「練馬」という地名は、馬を「訓練」する場所だったからとする説があるとか。
東上線に乗って埼玉県へ。
富士見市渡戸2-5の観音堂にある馬頭観音が素晴らしい。
元禄3年の造立。
像容も異彩を放つが、建立時期も極めて初期、掘り出し物でます。
伝統的しきたりと横並び思想の只中にあって、どうしてこのような自由な発想ができるのだろうか。
ほのぼのと心温かくなる作品。
施主の馬に対する愛情がにじみ出ています。
私の、思い出に残る馬頭観音、ダントツのNO1です。
正統派優品としては、香林寺と誠徳寺の馬頭観音が該当します。
いずれも三面八手の像容です。
香林寺(東松山市宮鼻144) 聖徳寺(越谷市北川崎18)
変わり種は、杉戸町宝性院の道標馬頭観音と観音堂の石祠馬頭観音。
宝性院(埼玉県杉戸町杉戸1-5-6)
宝性院は日光街道に面しています。
今は境内にありますが、昔は門前に立って、旅人の案内役を果たしていました。
石祠庚申塔があるのだから、馬頭観音石祠があってもおかしくない。
観音堂(埼玉県杉戸町126)
それにしても珍品です。
川越市の本応寺墓地には、馬頭観音石仏ばかりがひな壇状に並んだ一角があります。
本応寺(川越市石原町玉42)
中に1基、彩色の朱色が残った石仏がある。
元は、みんなこんな色をしていたのでしょうか。
境内ならともかく墓地に馬頭観音が、しかも集団であるのは珍しい。
最初からここにあったのではなく、廃棄される運命の石仏を市内各所から集めたものでしょう。
もともとは、下の写真の様に路傍に在していたはずです。
鴻巣市宮地の路傍
それが道路の拡張、農地の宅地化など都市t化の進行とともに居場所が失われてゆきます。
路傍の馬頭観音、そして行き場を失った石仏の集積場としての墓地は、当然、群馬県にもあります。
路傍の馬頭観音(群馬県甘楽町)
大興寺(前橋市)の墓地。この一角は全部無縁馬頭観音碑。
群馬県の馬頭観音といえば、桐生市黒保根にある十二山神社の一対の石碑を思い出す。
両方とも下に馬を描き、その上に文字が刻んである。
左「汝是畜生発菩提心」 右「鬼畜人天皆是大日」
車で走行中、路傍に石仏群があるのに出会います。
群馬県川場村の路傍の石仏群
そうした石仏群に出会ったら、小さいのが馬頭観音だと思って間違いありません。
大きい石仏は費用がかかる。
だから小型の石仏にしたのですが、それでも施主のお百姓さんは頑張っているのです。
よく見ると文字碑はほとんどない。
文字碑の方が安上がりで済むのに、そうしなかったのは、馬に対する愛情が深かったむからでしょう。
沼田市の三光院境内の馬頭観音のような巨大丸彫り石仏は、施主は個人ではなく、講や馬持中など集団であるのが、普通です。
講中で造ったこうした大型馬頭観音は、時代的には初期(江戸時代半ば)のものが多く、建立目的も持ち馬の無病息災を祈願するものでした。
江戸時代後半から明治、大正にかけての個人造立馬頭観音碑が、馬の墓標であったのと、意味が違います。
続いて長野県。
大きな自然石に「庚申」や「大黒」、「二十三夜」などと彫りこんだ石塔群が集落の辻ごとにおわします。
しかし、「馬頭観音」や「馬頭尊」の巨大文字石碑はありません。
庚申塔が巨大な文字碑であるのに対し、馬頭観音は小さい像塔ばかりです。
下は、松本から東へ、扉温泉までの入山辺に双体道祖神探しに行った時、通りかかった峠の石仏群。
ずらっと並んだ馬頭観音に混じって牛頭観音があります。
ガイド本には、耳の上に角があるから牛だと書いてあるのですが・・・
もう1基、「牛頭」の文字のある石碑を松本市の西の郊外で見つけました。
浄雲寺(松本市取出934)
白いコケに覆われて判読しにくいのですが、右に「牛頭大日如来」、左に「念仏供養塔」と書かれています。
大日如来は、牛の守護神ですから、これは馬ではなく、牛の供養塔でしょう。
周りは馬頭観音ばかり、なんとなく肩身が狭く居心地が悪そうです。
次は、辰野町から諏訪市へ抜ける国道で出会った馬乗り馬頭観音。
馬乗り馬頭観音については、このブログでも後で取り上げますが、千葉県に固有な像容。
長野県にあるのは極めて珍しいので、載せておきます。
しかし、像容にどこか違和感がある。
持ち物が違うような気がしてならない。
馬に乗る像容としては、勝軍地蔵がある。
右手に錫杖、左手に宝珠と『日本石仏図典』にはあるが、これは逆。
お分かりの方教えてください。
馬頭観音が並ぶ景色として私が最も好きなのは、塩原市洗馬(せま)の馬頭さんの列。
水田の地崩れ防止の石垣の上、人の視線の高さで馬頭観音が並んでいます。
この道は、それぞれの馬が、生前、荷駄を載せ、馬車を引いて行き交った道。
村のあちこちばらばらにあった石仏をここに集め、馬の気持ちになって配置した、集落の人たちの暖かい気持ちがたまりません。
この形式は洗馬だけのものと思っていたが、去年、駒ケ根市でも同じような展示配列を見かけた。
もしかしたら、どこにでもあるありふれた保存・展示形式なのかもしれない。
長野県で馬といえば、木曽馬。
木曽福島から開田高原へ。
かつて一大馬産地であった痕跡は各所にあるが、その典型は馬頭観音群。
どこの集落にも石仏の塊を見ることができます。
木曽馬は、どの農家でも飼っていたが、その馬は彼らの所有馬ではなかった。
馬の所有者は木曽福島の商人たちで「馬地主」と呼ばれ、飼主は「馬小作」と呼ばれた。
仔馬の売却代金は折半。
馬は農家の一大財産で、大切に育てられ、死ねば馬頭観音碑となって、懇ろに供養されました。
開田高原から北の日和田高原は、現在の行政区域は岐阜県高山市だが、木曽馬の商圏や文化圏は木曽福島に属していた。
集落で建立した馬頭観音像は、大型の優品が多い。
下村の祭場には、一対の立像石仏がある。
台石に「大慈」と刻された石仏は観世音菩薩だが、「大悲」は馬頭観音。
観世音菩薩 馬頭観音
憤怒相ではなく慈悲相。
おとなしい木曽馬に憤怒相は似合わないからか。
馬産地ではどこにも「血取場」があった。
文字通り馬の血を取り出すことで、馬が健康体になるといわれ、春先の恒例行事でした。
村の馬全部が集まる場所で、死ねば馬頭観音碑となって石仏群に加わった。
驚きは背後の山にも膨大な馬頭観音石仏がおわすこと。
開田高原から日和田高原にかけては、庚申塔や如意輪観音、道祖神などはほぼ皆無。
圧倒的に馬頭観音オンリーの世界なのです。
圧巻は裏山中腹の馬頭観音三尊像。
中央に馬頭観音、左は高王白衣観音、右は釈迦如来。
安政6年(1859)、馬頭観音が建立され、60年後に白衣観音と釈迦如来が両脇に添えられたが、こうした三尊形式は儀軌にはないそうで、その意味する所は不明です。
日和田集落は、限界集落。
人がいなくなり、家がなくなっても、石の墓は残る。
そうした墓に見なれない一石三尊の石仏があった。
中央の神像の両脇に地蔵と馬頭観音という見たことがない組み合わせ。
五穀豊穣を神に祈り、地蔵に家族の、馬頭観音に馬の、二世安楽を託す馬農家が離農しなければならない背景に何があったのだろうか。
日和田に電燈が点いたのは、戦後8年の昭和28年だった。
明るくなった夜に馬農家が歓声を上げていたこの頃、危機が静かに迫っていた。
牛の数が、馬よりも多くなりつつあった。
モータライゼーションと牛肉の消費拡大が、牛馬の飼育数逆転をもたらす要因だった。
その記念碑ともいうべき石碑が立っている。
馬頭観音と牛頭天王を併記した石碑の造立年は、昭和59年(1984)。
かくして木曽馬の産地から馬がいなくなり、馬頭観音ばかりが残った。
中でも馬頭の頭上に小馬頭を戴いた馬頭観音は、木曽地方独特の像容として愛されています。
頭上に二つの首があれば、その農家では、その年、3頭の馬が死ぬという悲劇があったことを物語っています。
その容がほのぼのとしていればいるほど、その裏に潜む深刻な事態を見逃してしまいそうです。
人の思考や行動は、場所が変わっても似たり寄ったり。
多頭馬頭観音は、那須地方にも見られます。
長野県から一気に栃木県へ移りますが、その前にちょっと寄り道。
山梨県北杜市の海岸寺。
ここには、高遠の名工・守屋貞治の馬頭観音があります。
同じ北杜市の旧須玉町には、一石二馬頭尊があります。
ちょっと見、双体道祖神のようですが、頭上の化仏で馬頭観音と分かります。
山梨県だけにある珍しい形式です。
次に東京都。
板橋区から埼玉県に移動してしまったので、他の23区と多摩地区から。
まずは、佳品2作。
慈願寺(中野区) 大円寺(杉並区)
馬を彫ったものも何基かあるが、そのうち2基を載せておく。
猿江神社(江東区)(撮影してきたが、条件が悪くてきちんと撮れない。これは、栗田直次郎
『石造馬のり馬頭観音』より借用)
深大寺 (調布市)
東京から一気に栃木県へ。
那須の手前、矢板市あたりから路傍に馬頭観音群が目につくようになる。
矢板市郷土博物館には、市内各所から集められた石仏群があり、その中に「寒念仏供養塔」と刻まれた馬頭観音がある。
寒念仏は、僧侶の専修念仏として始まった。
寒の入りから30日間、山野で行う厳しい修行で、後に一般庶民にも広がった。
文字碑が多く、このような刻像は少ない。
とりわけ馬頭尊寒念仏搭は、希少です。
下は、午年の年賀状に使用した写真。
箒根神社前(那須塩原市)の馬頭観音群
かつて自分たちが行き来した道に面して馬頭観音が立っている。
運搬の主役を車に譲り渡して久しい。
その車の往来をじっと見続ける「馬」たち。
車が通り過ぎた後、静寂が一瞬深まる、そんな気配のする光景です。
長野県から栃木県に一足飛びで来たのは、多頭馬頭観音が那須にもあるからでした。
詳しいことは、NO54「那須の多頭馬頭観音」を見てもらうことにして、ここでは1頭から13頭までを順番に並べます。
双頭馬頭観音。 右は、双体馬頭尊。
3頭 4頭 5頭
7頭 7馬
8頭
栗田直次郎『石造馬のり馬頭観音』には、長久寺の9頭馬頭観音が最多頭馬頭観音として載っているが、探しても見当たらない。
代わりに10頭と12頭馬頭観音を見つけた。
10頭 12頭
場所は、すべて那須市。
那須の馬は荷役ではなく、軍馬用として飼われていた。
それにしても一度に10頭とか12頭が死んだら、その打撃は計り知れない。
倒産に追い込まれるケースもあったに違いない。
どんなに経済的に苦しくても、彼らは馬の墓を建て、供養した。
人として立派だ、と素直に思う。
最後に、千葉県。
千葉県の馬頭観音といえば、もちろん馬のり馬頭観音でしょう。
馬頭観音が、なぜか、馬にまたがっている、その特異な像容に魅せられてフアンも多いようです。
全国262基の馬のり馬頭観音のうち242基は千葉県にあるそうで、千葉県固有の石仏といっていいでしょう。
面白いのは、千葉県でも東西で像容が違うこと。
銚子市などの東総の馬のり馬頭観音は、一面二臂の慈悲相。
路傍(銚子市)
木更津市などの県西部の上総地方では、三面多碑の憤怒相なのです。
路傍(木更津市)
では、中央部はこの両者が混在しているのか、というとNO。
中央は七里法華といって、地蔵や観音、庚申塔などの石仏が皆無の真空地帯。
もちろん馬のり馬頭観音もありません。
詳しくは、NO72「千葉県の馬乗り馬頭観音」をご覧ください。
他に、馬頭観音に関係する分類としては、文字碑のいろいろもあります。
「馬力神」、「生馬大神」、「馬大神」、「牛馬頭観音」、「勝善社」、「白馬大士」、「畜馬大神」、「生駒大神」、「駒形霊王」など多種多様。
「軍馬慰霊塔」と併せて、詳しくは、当ブログNO54「那須の多頭馬頭観音」を御覧下さい。
長野県で発見された馬乗り馬頭観音のような石仏ですが、私も実際にこの接物を目にしましたが、桑の葉を持っていることから馬鳴菩薩と推察します。馬鳴菩薩は馬に乗るお姿で仏画に描かれる例も多数あります。