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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

坂東観音霊場記(亮盛)・・・21/31

2023-08-21 | 先祖供養

 

第廿三番同國佐白(現在も第23番は佐白山正福寺(佐白観音))

常州茨城郡笠間城内佐白山正福寺は、人王丗七代孝徳帝の御宇、狩人粒浦氏艸創なり。本尊千手大士の像は毘沙門天王、工匠の形を現じて、狩人遁世者の為に彫刻する所也。俗に毘s首羯磨の作と云。

往昔、佐白の山下に粒浦氏の人あり。恒に山野を往来して飽くまで殺生の業を嗜む。此のもの狩りに出んと欲へば先鏡に向かって我相を見る。其の顔色勇る時は、必ず獲物ありと喜び、其の色憂へる時は不猟の相と占ふ。一朝、例の如く鏡に向へば、我の面容は見へずして、高き山影のみ移る。其の峯に偃たる古木あり。白馬白鹿白雉の三物其の古木の傍に在りて、恰も守護するの形勢なり。粒浦氏是を忻んで曰、昔周の文王、田に出るに史徧熊を卜筮(うらなふ)て、文王、太公望に逢玉ふ。即ち師として天下を治め、周八百年の基を起こす。我が今日の獲物は必ず値千金成らんと。急ぎ狩具を携出て此の峯彼の谷と終日山谷を駈盡せども、一鳥一獣の影をも見ず。常に鳥獣の多き山に、斯る倒(ためし)は如何ぞと、暫く忙然として、竚みける。然所へ白髪の老翁来たり、汝今日獲物無きや。遄く我に従ひ来るべし、と。老翁先に立玉へば、狩人同じく峯に登りて徧く四邊を顧れば、白き鹿雉馬の三物偃たる古木の傍に在り。尚又山の模様艸木の形まで鏡に移りたる影に似たれば、狩人甚是を怪みける。時に老翁告て云、汝は多くの鳥獣を殺し、大悪罪の者なれども、宿世婆羅門の種族にして浄行の微少善あり。今又汝此の山に於いて大悲の道場を発すべき、過去世の因縁時至れり。等閑の想看を為ざれども、彼の靈獣に乗て去玉ふ。時に狩人粒浦氏、宿善の感ずる所か、直に菩提の道に趣きける。悪に強き者は又善にも剛く、家財妻子を顧みず、誓て七年山を出ず、と。僅に膝を容の庵を締び、松の實・葛の根を食として、日夜大悲の名号を唱ける。宲に三界は唯心の所造、我が一心の発する所は、善悪天地に通ずる、と。昔天竺諏達長者、祇園精舎を造んとして、舎利弗尊者と共に、祇園に縄張し玉へば、倏異相の工匠来たり、狩人粒浦氏に対して曰、我は薄伎の佛工なれども、千手大悲の像に於いては唯其の妙工を得たり。先に鹿雉馬の守護たる。阿武の靈木を採り来れ。道人の所願を今遂と。狩人忻んで峯に登り其の靈木を見所に巨材にして一人の力に堪ず、試に藤の蔓を引き掛れば、其の軽きこと麻稭(あさがら)の如く、輙く我が艸庵に引来る。件の佛工是を見て宲に未曾有の靈木なりと、斧を操りて伐割ければ、香気芬馥と

して、山に盈。即ち一七箇日夜にして、千手千眼の像を造り畢る。尊容の霊妙、凢工に非ず。粒浦道人喜んで拝すれば、化人佛工、語て曰、我は帝釈天の使臣吠室羅麽那城(べいしたまなじょう)の主なり。帝釈天我をして汝が願を遂げしむ、と。忽ち毘沙門の形を現じ、光を放って歸天し玉ふ。乃ち道人、剃髪染衣して一宇の大悲閣を経営、件の靈像を安置して、三白山松吟堂と号す。

佐白と稱する事は、白馬白鹿白雉の三物此の阿武の峯に在て、大悲像の御衣木を衛る、此の故に始めは三白と云。貞享年中、三を佐の字に改む。愚按ずるに、丹渓心法に云く、三白は葱・蒜・蘿葡と也。此の三白は葷艸の故に彼に乱するを蕑て改る乎。又經軌の中に、乳・酪・酥飯を三白食と称す。此れは瑜伽行者の食の清浄の斎飯也。狩人遁世の菴を出家の後に宝勝坊と号す。大悲場繁栄に従ひ改て、勝福寺と号す。貞享三年に勝を改め正の字に改む。又五坊あり。櫻本坊・座禅坊・閼伽井坊・秀林坊・松本坊也。

巡礼詠歌「夢の世の 睡も覚る佐白山 妙なる法や 響く松風」昔此の山開基の比は、麓より峯に至って只一種の松樹茂り、他木一株も雑らず。是此の山の一奇なり。仍って僧房の名にも秀林坊・松本坊と云あり。松風を賞詠する此の由なり。夢の世とは、盧生が五十年栄花を盡せし夢の間も、只一飯を炊ぐ中なり。凢そ此の山に詣りて法の響の松風を聞けば、自ら無明の眠も除き、假の世に迷へる夢も覚るとぞ。

𦾔記云、宇都宮頼綱の猶子、同苗掃部助時朝、元久二年(1205)三月下旬諸卒を従へ、鎌倉を出陣して當國徳蔵に馳向ひ、同九月引布山を屠り、又佐白の伽藍を破却して南の麓に軍営を構ふ。佐白の僧徒是を諍ひ禦ぎ、多く刃傷に死する者あり。尒後、實朝、将軍の命を𣴎て、時朝、佐白山に居城を築、即ち笠間長門守時朝と号す。尒に彼の僧徒等が亡魂、毎夜に怨叫喚て城中騒動して怖畏をなす。仍って寺封の免地を先規に任せ、堂舎を𦾔跡に復すれば、亡僧の意恨忽ち宥みて、城中永く静謐なり。今城に巡礼堂在って道俗男女を許入る事、原として此の所以なり。愚按るに、此の山の影鏡に移り、狩人遁世の縁と成る、此れ大悲救世の方便なり。誓願千臂の中にも即ち寶鏡の御手あり。又鎌倉建長寺開山大覚禅師所持の鑑に没後観音の像を留む。大覚禅師は観音の化身なると。最明寺時頼公、試に此を磨せ玉へば初の幽かなる影弥よ鮮明にして大悲の尊形歴然たりと。元亨釈書、鎌倉誌、諸國里人談等に見えたり。

摩掲陀國孤山正中の精舎に観自在の像有り。躯量小なりと雖も威神盛粛、手に蓮花を執り、頂に佛像を載き玉ふ。常に数人有って断食す。要心に菩薩を見んと求れば、七月二十七日乃至一月にして感有る者は、菩薩の妙相荘厳威光赫奕として

、像中より出て其の人を慰喩するを見る。昔南海の僧伽羅國王清旦、鏡を以て面を照らすに、其の身を見ず。乃し山上に観世音菩薩有るを見る。王深く感慶して圖して以て営み求む。既に摩掲陀國多羅林中の孤山上に至に、此の菩薩有す。圖の如く寔に唯肖似(にたり)。因って精舎を建立して諸の供養を與す。其の後の諸王の供養絶へず。観音感通傳に見たり。此れ當山の事縁に相近し。故に茲に出す。

河州中野村の鴈卒塔婆の故事は、昔猟師有り、雌雄の鴈を見て之を射て一を得るに、頭無し。又周回(あくるとし)の日、一鴈を射るに一鴈の首を抱いて地に落つ。猟師謂へらく、去歳の鴈頭ならんと。倏ち悲愛情を感じて為に卒塔婆を建つ。即ち業を捨て出家すと。和三才會。

安藝國中村の城主、阿曽沼中務大輔弘郷元来近江國阿曽沼素姓、俵藤太秀郷の末裔也。近邊の池に鴛鴦雌雄羽を並べ遊ぶ。阿曽沼一羽射殺して食す。残る一羽の鴦、池邊を去らず明暮浮萍(うきくさ)蒲の陰に隠れて恨悲みて、鳴声悼哀なり。翌年是又射殺て見ば、其の翼に文字鮮に現ず。左の羽に、朝に水に遊んで獨り終日を送り、夕には草に臥して空く夜長を思ふ。右の羽は、日暮れてはさそひしものを阿曽沼の まこも隠れの 獨寝ぞうき。 評して曰く、鳥獣の喜怒哀楽も、人間に相同じ。人能く無益の殺生を慎むべし。阿曽沼代々不縁にして夫婦老を重ず。因果盡ず永く子孫に愁を残也。天正十年午(1582)の六月丹波國亀山の住猟師新兵衛と云者、射藝の達人にして、養由(春秋時代の弓の名人。楚の人。百歩の距離から柳葉を射て百発百中し、また、弓矢の調子を整えただけで猿が鳴き叫んだという。「淮南子‐説山訓」「呂氏春秋‐不苟論・博志」)をも欺くべき射手なり。山に入て谷川を見るに鼠出て蟹を喰殺す。鼬きて其鼠を喰殺し、又狸出て其の鼬を喰ひ、

又狼来て狸を喰殺す。新兵衛此の狼を射殺さんと弓を取直し矢を番しか否や、爰は思案あるべき所なり、互に殺し殺さるる獣を、吾亦是を射殺す時は、亦吾を殺す者来んと。番たる矢を取り直せば虚空より大音に呼はって、汝能き思案なるぞ、此事國主明智光秀に告よと。猟師家に皈て案じ見れば、武田四郎勝頼、信濃上野駿河に於て、數多の敵を殺しければ織田信長亦勝頼を殺し、明智光秀又信長を殺し、羽柴秀吉又明智を殺す。是因果歴然の理なり。吾數多の獣を殺して、又吾を殺す敵を待つこと愚痴迷昧の致所と。忽ち剃髪染衣して、稱名の行者と成りぬ。評して曰く、凢そ殺生は五戒の第一なり。人罪有るは則其の罪を殺す。所謂匹夫の紂を殺すと云ふ是なり。鳥獣に何の罪か有ん。無益の殺生は人倫の外なり。己が欲せざる所は人に施す勿れと云。又罪業の因果は争か遁るべき。春種を蒔て秋實るが如し。又春時に東風吹けば秋来西風にて返す。是天地報應の理なり。已上故事因縁集。(七之終)

 

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