観自在菩薩冥應集、連體。巻4/6・26/33
二十六尾道千光寺の観音御利生の事
大寶山千光寺権現院の千手観音は古老相傳へて曰く、聖徳太子の御作にして多田満仲の守本尊なりと。霊験掲焉の秘尊なれば三十三年に一回開帳する外は御戸を開く事なし。脇侍の不動毘沙門は運慶が作なり。又多聞天の像あり。鞍部の鳥(鞍作 止利・くらつくり の とり。飛鳥時代の渡来系の仏師)の作なりと云傳ふ。鎮守は熊野三所権現なり。昔は寺領も多かりけるやらん、権現の燈明料とて二十石(米3,000㌔、150万円に相当)ばかり田畑今にあれども福島左衛門大夫正則、備後安芸を領ぜられし時、寺領社領悉く没収して寺院堂塔の鋪地(敷地)までも地司を取られければ(支配した)西国寺浄土寺天寧寺(いずれも現存)も同じく衰微せり。千光寺も昔は三重の宝塔ありしが大石崩落して塔も破れ失たり。寺領もなければ再興する事あたはず、今に柱と宝鐸(銅鐸)と少し残りおり。寺の前の烏帽子岩とて大石あり、上に穴あり。古老相傳ふ。昔は此の石に如意宝珠ありし故に處を玉の浦と名け山を大寶山と号して大に繁昌の地なりけり。然るに唐人海上より遥かに宝珠の光を見ていつはり誑かして石を穿ち宝珠を盗み取りて遠く去りければ、いかで再び烏帽子岩かつ゛ぎのみする海女はあれど海底ならぬ唐は往くべき人もあら玉の年を経るに随って浦も山も衰へたり。珠を穿鑿取りし痕今にあり。(千光寺のホームページには「今でもこの大岩の頂に直径14cm、深さ17cmの穴がありますが、この穴が光を放つ宝玉があった跡だといわれています。この山を大宝山といい、寺を千光寺、港を玉の浦と言い古されたのも、そのゆかりはこの伝説にもとづくものであります。現在は岩の頂に宝玉の代わりに玉が置かれ、夜になると三色に輝きます。」とあります。千光寺は今も中国観音霊場第十番札所、備後西国観音霊場第七番札所)。其の後延喜元年(901年)六月廿四日菅丞相筑紫に赴き玉ふ時に此の山に登り玉ひ宝珠の失ひたる事を歎き思召して浦人に告げ玉はく、玉ありし時こそ玉の浦とは云ふべけれ今は玉もなきに玉の浦と号すれば處も衰へたり。已後は尾道と名くべしとありければ其れより尾道とは云ふなり。菅丞相此の浦に登り玉ふ時、金谷了本が先祖、畑にありしが小麦の餅を奉りければ悦び玉ひて狩衣の袖を解て自ら御姿を描きて此の者に賜りしを在家に安置するも恐れありとて今の大山寺に納めて本地堂を建て十一面観音を安置す。故に天神坊と云なり。金谷は天神に小麦餅を奉りし功徳にて七百餘年家富栄へて今に至るまで、毎年六月廿四日天神自画の影像を出し奉り小麦餅を供し奉る。千光寺は景色無双の山にて遥かに伊予讃岐の浦を見、海上往来の舩を見る事目前にあり。瀟湘洞庭(瀟湘八景。中国湖南省洞庭湖で合流するふたつの河川瀟川と湘川の名勝)も是には勝るまじと思ふ絶景なり。此の浦に舩を繫ぐ者は必ず参詣して順風を祈るに響の音に応ずるが如し。安芸大守も江戸参勤の時は必ずこの寺に代参を立て祈誓し玉へり。寺中に酒肉五辛を入れず、如法に勤むる寺なり。元禄九年三月二十一日寺の男伊兵衛と云者常に酒を好みしが日こそ多きに高祖御入定の日に丁って酒肉を用ひ大に酔てければ人の呵責せんことを恐れて観音堂の後ろの岩の上に臥して酔ひを醒ましける程に如何はしたりけんすべり落ちて岩稜にて頭を打破りて死せり。思ふに観音の散銭などを盗みて酒肉を買用ひたる罰ならんといへり。又元禄十七年二月八日同郡栗原村國長(栗原町は、広島県御調郡にあった町。現在の尾道市の一部)の善衛門と云者の家の長屋より火出て火勢盛んになり本宅に燃著んとせしを一心に千光寺の観音に祈誓するやう、此の度の火難を救ひ玉はば一夜籠りて念誦すべしと云ければ即ち風転じて火滅しけり。ありがたく思ひ急ぎ観音に詣して禮謝したりけり。栗原より千光寺までは三十餘町(3キロ餘)にて山の嶺はるかに見る處なれば祈念せるなり。又正月十七日六月十七日は法会にて近村の男女一夜籠りて普門品を読み奉り或いは寶号真言を念誦して現當二世の事を祈るに種々の霊応ありとかや。