・正力松太郎は昭和34年10月号「大法輪」に「私がはじめて座禅を組んだのは24歳帝大2年に進学したばかりのときであった。・・・その後戦争犯罪人として巣鴨に収容されることになった。・・ともあれ私は(学生時代指導された南禅寺管長・勝峰大徹)師のことを思い出して在監1年9ヶ月の間座禅を続けた。」とあります。松太郎は後に「利行は一法」(利他行と自利行は同じ、修証義「利行は一法なり、遍く自他を利するなり」より)に目覚めたと言われています。のち36年に松太郎は興禪護国会(注1)会長もつとめています。
注1)興禪護国会は南禅寺管長・勝峰大徹の設立で河野広中、中江兆民、細川潤次郎、床次竹次郎、大石正巳等がここで大徹に指導を受けています。中江兆民が喉頭がんで「一年有半」の時、勝峰大徹師は兆民のために兜率三関を提唱、兆民は涙を流して「最早これで葬式も要らない。」と感謝したと言われています。
兜率三関(「無門関第47則」)とは 、兜率和尚がいつも修行者に問うた、「一. おまえの本性はなにか。二. 死ぬときはどうするのか。三. 死んだらどこへいくつもりか。」という問です。
注1)興禪護国会は南禅寺管長・勝峰大徹の設立で河野広中、中江兆民、細川潤次郎、床次竹次郎、大石正巳等がここで大徹に指導を受けています。中江兆民が喉頭がんで「一年有半」の時、勝峰大徹師は兆民のために兜率三関を提唱、兆民は涙を流して「最早これで葬式も要らない。」と感謝したと言われています。
兜率三関(「無門関第47則」)とは 、兜率和尚がいつも修行者に問うた、「一. おまえの本性はなにか。二. 死ぬときはどうするのか。三. 死んだらどこへいくつもりか。」という問です。