第三章 さとりの心
第一節 清らかな心
二、悟りの道において、人はおのれの眼をもって仏を見、心をもって仏を信ずる。それと同じく、人をして生死の巷に今日まで流転させたのも、またこの、眼と心である。
国王が侵入した賊を討とうとする時も、何よりも先に、その賊のありかを知ることが必要であるように、いま迷いをなくそうとするのにも、まずその眼と心のありかを確かめなければならない。
人が室内にいて眼をひらけば、まず、室内のものを見、やがて窓を通して外の景色を見る。部屋の内の物をみないで外ばかり見る眼はない。
ところがもしこの身のうちにこころがあるならば、名によりも先に身の内のことを詳しくしらなければならないはずであるのに、人々は身の外のことばかりよく知っていて、身の内のことはほとんど何事も知ることがない。
また、もし心が身の外にあるとするならば、身と心が互いに離れて、心の知るところを身は知らないはずである。ところが、実際は心の知るところを身が感じ、身に感ずるところを心はよく知っているから、心は身の外にあるということもできない。いったいこころの本体はどこにあるのであろうか。
第一節 清らかな心
二、悟りの道において、人はおのれの眼をもって仏を見、心をもって仏を信ずる。それと同じく、人をして生死の巷に今日まで流転させたのも、またこの、眼と心である。
国王が侵入した賊を討とうとする時も、何よりも先に、その賊のありかを知ることが必要であるように、いま迷いをなくそうとするのにも、まずその眼と心のありかを確かめなければならない。
人が室内にいて眼をひらけば、まず、室内のものを見、やがて窓を通して外の景色を見る。部屋の内の物をみないで外ばかり見る眼はない。
ところがもしこの身のうちにこころがあるならば、名によりも先に身の内のことを詳しくしらなければならないはずであるのに、人々は身の外のことばかりよく知っていて、身の内のことはほとんど何事も知ることがない。
また、もし心が身の外にあるとするならば、身と心が互いに離れて、心の知るところを身は知らないはずである。ところが、実際は心の知るところを身が感じ、身に感ずるところを心はよく知っているから、心は身の外にあるということもできない。いったいこころの本体はどこにあるのであろうか。