問、若し先にお宣になったように自宗の教えにこだわるのは邪見というのであれば真言宗の本不生もそれに拘っているのでまたまた邪見というべきではありませんか?(若ししからば真言宗の本不生もまた是のみ真実と執せばまた邪見なるべしや。)
答、「本不生」の意味をあらく心得てこれを真実なりと執せば邪見なとなる。しかし能く「本不生」の意味をを明める時は是に全ての意味をそなえていることがわかる、唯だこれは「生まれてない」という意味や「因縁がすべて」という意味のみではないのである。声聞縁覚の空に偏した教えや外道の因果をひていする教などのの二見六十二見(断常二見を本として、過去現在未来に亘り、色受想行識によりて起こる所の六十二の邪見のこと)百八の邪見、世間の荘老孔子の教、揚朱墨翟(楊朱は前370頃? - 前319頃?。為我説、人間の欲望を肯定し、自己満足が自然に従うものであるとした。墨翟は前.450頃?~前390頃?。魯の人。兼愛交利を説き、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざした)が説くおしえなどすべては皆悉く法界の一つの姿であるからいずれも捨べきではないのである。
たとえば良医は砒霜班猫という毒薬をも病に効くことを知っていて用いる故にみな薬となる。しかし藪医者が砒霜班猫(砒霜(ひそう)・斑猫(はんみょう)いずれも猛毒の名)を偏に薬と思うて諸病に用ふるときは却って人を殺すことになる。このようにたとえ仏教であっても佛の方便を解せずして一方に執着するときは皆邪見となるので、煩悩の病を増ずる毒薬となる。
若し手段であると分って円満に用ゆるときは皆妙薬となりて無明の病を治するのである。しかしそういったからといって「本不生」の本来の意味に対しても執着すれば邪見となるのかというと、「本不生」の真理を能く解したるものは凡そ執着ということはないのである。
他宗でいうすべては因縁によりて生まれるということも、「本不生」の中にふくまれる一部なのである。本不生ということは「不生にして生」「生にして而も不生」ということである。このように入りいろな考えに自在を得てどの一つにも拘らない事。これを真実の佛知見とはいうなり。
(本不生をあらく心得てこれを真実なりと執せば邪見なり。能く本不生を明むる時は是に諸義を具したるが故に唯無生の義因縁生の義のみにあらず。二乗の偏空外道の断常の二見六十二見(断常二見を本として、過去現在未来に亘り、色受想行識によりて起こる
所の六十二の邪見のこと)百八の邪見、世間の荘老孔子の教、揚朱墨翟(楊朱は前370頃? - 前319頃?。為我説、人間の欲望を肯定し、自己満足が自然に従うものであるとした。墨翟は前.450頃?~前390頃?。魯の人。兼愛交利を説き、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざした)が説までも皆悉く法界の一門万徳なればいずれも捨べきにあらず。
たとえば良医は砒霜班猫をも病に応ずることを知りて用ふる故にみな薬なり。然云て庸医の心を以て砒霜班猫(砒霜(ひそう)・斑猫(はんみょう)いずれも猛毒の名)を偏に薬と思うて諸病に用ふるときは却って人を殺すが如く、たとえ仏教なれども佛の方便を解せずして偏に執するときは皆邪見となるがゆえに、煩悩の病を増ずる毒薬なり。
若し方便の意を解して円に用ゆるときは皆妙薬となりて無明の病を治するなり。但し本不生の実義も執せば邪見なるべきかということは本不生の真実を能く解したるものは一義をも執することあるべからず。
因縁生も本不生の中の一徳なれば不生にして生なり、生にして而も不生なり、かくのごとく諸見に自在を得て一見にも滞らず滞らるときは邪見にあらず、これを真実の佛知見とはいうなり。)
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