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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観自在菩薩冥應集、連體。巻5/6・18/39

2025-06-27 | 先祖供養

観自在菩薩冥應集、連體。巻5/6・18/39

十八勝尾寺観音幷善仲善算開基開成王子の事

摂津國勝尾寺は善仲善算(奈良時代の双子の僧。ともに摂津天王寺(大阪府)の栄湛につき出家。のちふたりで俗世をのがれ摂津勝尾山にはいり草庵をむすんで修行。弟子に弥勒寺(現箕面市勝尾寺)をひらいた開成がいる。)の開基にして観音は開成王子の造立なり。善仲善算は摂津國守藤原致房の双子なり。母は源氏、紀州の刺史懐位の第八の女なり。慶雲二年正月十五日の夜夢みらく、蓮華二本空より飛で口中に入ると。覚めて後胸の物を呑むが如し。やがて懐妊しければ母五辛酒肉を食せず常に佛像に対して端座す。元明天皇の和銅元年(708年)正月十五日の平旦(あけぼの)に誕生る。母苦痛なし、しかも室に異香あり。一の胞に中に二児相対してあり。啼泣することなく常に笑みを唅む。幼少より利根聡明にて深く塵累を厭ひ九歳にして四天王寺の栄湛に師として事へ十七にして出家して菩薩戒を受く。学内外に通達せり。人皆曰く、天性の聖智宿習力なりと。二人常に頭を並べて相語りて涙を流す。諸人其の故を測り知る事なし。天王寺も尚塵寰(じんかん、塵界)に隣を以て師に白して山谷に遁れんことを乞へども師許し玉はざれば神亀四年(727年)春潜かに逃げて山に入。遥かに一の峯を見るに紫雲靄(たなび)く。是霊地ならんと知りて草庵を結んで宴居精修す。即ち今の勝尾山これなり。居る所には鳥獣までも馴従ふ。常に共に誓って曰く、願はくは此の身を捨てずして必ず浄土に往かんと。神護景雲三年(769年)二月十五日に善仲草座に坐しながら忽ちに飛び去る。年六十一なり。其の後善算無言にして禅座し三年の七月十五日に空に昇り西方に飛び去る。年六十二なり。開成王子は光仁天皇の王子にして桓武帝の兄なり。幼にして敏穎にて佛乗を志し玉へば帝の甚だ鐘愛し玉へり。天平神護元年(765年)正月一日潜かに宮を出て勝尾山に入て石を畳んで塔として其の傍に禅座し玉ふ。二月十五日に善仲善算の二師山中に経行して見て問て曰く、神彩凡ならず、而もはなはだ稚し。深山孤閴なり。いかんぞ此処に居し玉へる。皇子出家修道の志を告ぐ。二師大に驚きて曰く、已ニ四十日餘何をか食し玉へると。対へて曰く、二烏物を銜で石塔の上に置く。我嘗めて何の味といふことを知らず、又甘味なり。日日是の如し。又雨露にも霑されず。二人相顧みて嘆嗟して伴ひて庵に帰る。即ち二師に就きて剃髪受戒あり。一日、二師開成皇子と鼎座して大に涙に咽び玉ふ。傍の人何の故といふことを知らず。二師席を避って王子を揖して曰く、本有の五智(大日如来の法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を証し法雷を五趣に震ふと、ただ此の二句のみ衆人聞き知って餘語は少し暁る事を得ず。二師経の紙を授け幷庵を譲りて他に往て生身に浄土に往生せられたり。初め二師願を発して大般若経を写す。啓白の日、黒雲俄かに起こって雷落つ。二師其の地を霊地として大般若経を置かんと規る。今の最勝峯(大阪府箕面市にある山で、西国三十三所三十三番札所の勝尾寺の背後にある)是なり。人又夢みらく、黄牛其の地に行道すと。二師即ち楮を其所に植へ其の上に網を張って鳥を下らしめず、傍には欄楥(おばしま)を設けて獣に踏ましめず。已にして紙成る。書写の事は王子に託て去る。王子は山の第二世なり。又般若を書写するに浄金水を得んと欲して勝相を祈求して七日を限る。満ずる夜夢みらく、一人の衣冠端しき人、手に青き錦の苞を持して房の傍の石上に立て曰く、我此の金を以て師に與へて泥墨とせんと。王子受て公は誰ぞと問玉へば、彼の人偈を以て答て曰く、「得道以来、法性を動かさず。八正道を示し、権跡を垂る。皆苦の衆生を解脱するを得、故に八幡大菩薩と号く」と(八幡大菩薩託宣集・神護景雲三年)覚めて見れば机の上に金の墨あり。径三寸長さ七寸なり。王子歓喜交々集まる。八幡の立ち玉へる石今に有り。又水を祈る事一日、夜夢みらく一人北方より飛び来る。形夜叉の如し。曰く、八幡大神我をして天竺の白露池(竹林精舎にある池で大般若経の第十六会の場)の水を取り来たりて師の経を書玉ふ硯水に用ひしむと。王子問ふ、汝は誰ぞと。答て曰く、信濃の諏訪の南宮なりと、覚めて見れば清水閼伽の器に満てり。開成王子金泥と浄水とを得て乃ち桂窟に棲みて般若経を写す。大なる桂樹腹朽ちて自然に洞窟に似たるなり。算中にあり。宝亀三年(726年)二月夢みらく、八面八臂の鬼、長一丈あまり、百千の眷属を率て来たり、各経の紙を山谷に投げ散らすと。覚めて魔障なりと知りて此れを祭らん軌則を知らず。忽ちに二烏飛び来たりて二の札を落とす。見れば祭文儀軌なり。王子軌に依って供養し玉へば又事の障りなし。世に其の軌を傳ふ。所謂今の荒神供(修験聖典に依れば加持供物の次に施甘露、乳海、開口、施食、飽満、一粒万倍等の印明あり。本尊加持の根本秘印の次に麁乱神一印、障碍神一印等。)なり。凡そ六年を経て大般若経成就すれば又金泥も浄水も剰りなし。即ち彼の雷の落ちたる地に就て道場を建て経を安じて永く龍華の春を期す。故に弥勒寺と号す。王子経を納め玉ふ時誓て曰く、願はくは此の功徳を以て六道四生に施さん。更に冀はくは一人万民福寿康寧ならんと。誓已って五体を地に投げて禮する時に四方の山木皆同く一度に偃(ふ)し禮して頃くあって元の如く直になるに只西方の松独り伏して永く起きず。三百年の後寛治年中(11世紀後半)に自ら朽ち倒れぬ。初め宝亀年中(8世紀後半)に光仁帝金泥硯水の事を聞しめし、感じさせ玉ひて寺領を寄付して如法堂を建て桂窟の居を移し玉ふ。弥勒寺成るに及んで田数百畝(数万㎡)を納めて寺領とし玉ふ。天応元年(781年)十月四日手に香炉を執って西に向かって低頭して寂し玉ふ。年五十八なり。王子平生薬師の傳を刻んで奉事し玉ふに遷化の時其の尊像涙出て華座まで流る。後門弟子像を以て経堂に置く。其の像今に在り(今も勝尾寺鎮守堂の右側にある開山堂には善仲、善算と開成皇子の木像が安置)。涙の痕新たに潤ふが如しと云へり。又講堂の千手観音の像は宝亀八年に講堂建つに九年の九月に日向國の沙門興日といふ人王子に語りて曰く、聞くならく講堂已に成るとも未だ本尊あらずと。我八尺の白檀香木を持せり。願はくは喜捨して樸(みそぎ)とせんと。王子悦んで比丘豊南を西海に遣はして迎へしむるに十年の夏、勝尾に持ち帰るといへどもしかるべき佛師の無きことを歎き玉ふに十一年(宝亀十一年780年)七月十五日に比丘妙観と云者あり来たりて曰く、我能く観音の形像を刻むべし、許し玉はんや、と。王子許諾し玉へば三日の後僧俗童輩すべて十八人妙観と俱に来たりて観音の像を造るに千手千眼の尊容端厳殊特なり。又四天王の像を加へ造る。凡そ五尊三十日にして成就せり。八月十八日妙観合掌して像に対して遷化せられければ伴ひ来る十八人も忽然として失せぬ。時の人の曰く、像を刻み始めるは七月十八日、成就の日は八月十八日、像を造る仏師も十八人なり、皆観音有縁の数なること不思議なり。実に十六羅漢等の化して来りて造り玉ひたるならんか。此の尊像霊験日々に新なり。一條院の正暦元年(990年)に大宋の商人二人来る。一人は台州(唐の時代622年にできた。浙江省の東部、東シナ海に面する)の人、周文徳(往生要集が撰述された直後に、北宋台州の居士で周文徳という人物が、本書を持って天台山国清寺に至り、中国の僧俗多数の尊信を受け、会昌の廃仏以来、唐末五代の混乱によって散佚した教法を、中国の地で復活させる機縁となった)という人、一人は婺州(ぶしゅう。中国にかつて存在した州。隋代から元初にかけて、現在の浙江省金華市一帯に設置された。)の人、楊仁紹と云ふ。二人の曰く百済國の王の后、比びなき美人にて國王殊に愛し玉ふに早く髪白くなりければ后大に歎き悲しみ玉ひ、妙薬を服し種々の祈祷をなし玉へども一も効しなし。王も又大に憂ひ玉ふ。一夕后夢見玉はく、日本國勝尾寺の千手観音霊験無双なり、汝それ誠を致して祈るべしと。覚めて後悦び玉ふやう、日本國の一の山より光明を放って遥かに百済國の王の后宮を照らし玉ふと。覚めて後、后の髪紺碧なること始めよりも麗し。天子百官悦び言はんかたなし。是の故に我等二人に頼みて閼伽器・金鼓・金鐘等の什物を持って遥かに観音の像に献ず。勝尾寺は何れの處なりや教玉へと云ふ。大宰府の奉行所より使者を以て彼の器物等を勝尾寺に送らる。今に在りて寺宝とすといへり。是實に善仲善算は観音勢至、開成王子は文殊の化身にあらずや。これ等は三十三所の第二十三番の寶窟なり。(「元亨釈書巻二十八・勝尾寺」「正暦元年庚寅〈大宋淳化元〉、宋商二人来。一台州人周文徳、一婺州人揚仁紹。二商曰、百済国后妃、有美姿、国主愛重。未邁壮齢、其髮早白。后愁之。服霊薬、求法験。二事無効。王又憂之。一夕、后夢日本国勝尾寺千手大悲霊感無比、汝其祈之。覚後、后悦甚。便向日本国作礼祈求。又夢、日本国一山、出光照掖庭。夢覚、后髮紺碧過始。以是寄我等二人以閼伽器・金鼓・金鐘等什物。遙献彼像。不知勝尾寺為何処。大宰府使使者送到寺云。」

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