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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観自在菩薩冥應集、連體。巻2/6・24/24

2025-04-08 | 先祖供養

観自在菩薩冥應集、連體。巻2/6・24/24

二十四諾楽(なら)の寡女観音の御利生を得る事。

昔奈良の古き都殖規寺の側に貧女あり。父母家貧しからざる時に観音の銅像を御長二尺五寸に鋳奉り厨子を造りて安置し朝夕に礼拝供養せり。父母死して後娘一人ありて貧しき事甚だし。常に観音の像の前に於て涙を流して如何なる宿業にやかかる貧女と生まれて供佛施僧の善もなく父母の弔をすべきやうもなし。現世をも後世をも助け玉へと祈りけり。近き處に鰥夫あり。潜かに通じて時々通ひけり。或る時彼の男来たりしに大雨降りて帰る事を得ずして宿りぬ。然れども其の晩に食すべきものもなく又明日の食もなし。如何せんと歎けどもすべきやうなし。雨は頻りに降りて次の日の日中になれども猶やまざりければ、彼女大に歎きて恥ずかしくも悲しくも思ひ観音の御前に於て涙を流して祈りければ、日中に門を扣く者あり。誰ぞと云て戸を開くに隣の家より膳を送りて日々御客のあるよし承り候まま粗相なる料理ながら進じ候と云ふ。彼女大に嬉しく思ひ唯一つの韎(あかねぞめのかわ)のありつるを彼の使に施しけり。さて男も悦びて食し其の日の晩に帰りければ彼寡女本尊の前に至って拝するに韎は本尊の肩に掛かりてありけり。さては我が悲しみ歎くを不憫におぼしめして観音の送り下されたる膳なめりと音も惜しまず啼けり。其れより弥よ信心怠らず常に念じけるとぞ(元亨釈書二十九)。是も敦賀の女とおなじやうなる御利生なり。是皆信心深き故なり。昔の人は子孫の為にとて形像を作りて祈り子も又父母の教なりとて常に信心怠らざればかかる不思議の利益を蒙れり。唖悲哉今の世に利益を蒙る事のなきは信心のなき故なり。父母死して貧になれば仏像までを沽却衣食とす。像法決疑経に曰く、未来世の中に道俗諸の悪人あって佛菩薩の形像を造立して売ん一切の道俗罪福を知らず。売者買人二人共に罪を得て五百世の中に常に他に売るべしと。(像法決疑経・造像非如罪「其の時世尊常施菩薩に告げたまはく、善男子、未来世道俗の中に諸の悪人あって我が形相或いは菩薩の形像を造立して販売して財を取り以て自活に用す、一切の道俗罪福を知らず。買取供養せん二人共に罪を得て五百世の中に常に他に売らるべし。」)唖悲哉今の世の人は仏像を売買して罪なりと云事を知らず。昔の人は其の罪を恐れ父母の遺言を守る故に何ほど貧しくなれども仏像を売る事なく益々信心を発して旦暮に礼拝供養するが故に不思議の御利生にも預かるものなり。我が願いの叶はぬは信心の足りぬ故なりと知るべし。必ず佛菩薩を恨むべからず。又かくのごとき奇特の霊験を聞きて少しも疑を生ずべからず。列子に曰く、五情の好悪、古猶今の如し。四體の安危古猶今の如し。世事の苦楽古猶今の如し。変易治乱古猶今の如しといへり。(列子 卷第七 楊朱篇第十章「孟孫陽の楊子に問いて曰く、此に人有り、生を貴とび身を愛し、以つて不死を蘄(き)すは、可なるか。曰く、不死に理は無し。以つて久生を蘄すは、可なるか。曰く、久生に理は無し。生は之の存を能くする所を貴しとするに非ず、身は之の厚く能くする所を愛するに非ず。且た久生は奚(なに)を為さむ。五情好悪にして、古は猶ほ今なり、四體安危にして、古は猶ほ今なり、世事苦楽にして、古は猶ほ今なり、変易治乱にして、古は猶ほ今なり。既に之を聞き、既に之を見、既に之を更め、百年猶ほ其の多を厭ひ、況や久生は之を苦しまむ。)。

 

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