福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・16

2018-10-16 | 四国八十八所の霊験


19番立江寺から10数キロ歩いて第20番鶴林寺につきます。第20番は正式には霊鷲山宝珠院鶴林寺といいます。ご詠歌が「しげりつる鶴の林をしるべにて大師ぞいます地蔵大釈」というようにご本尊は地蔵菩薩(おん かかかび さんまえい そわか)です。八十八ヶ所で二番目に難所と言われるだけに、急勺配坂が続いたあと鬱蒼とした木立ちの中にあらわれる仁王門は、実に堂々としています。境内には樹齢千年の老杉がそびえています。延暦17年(798)に垣武天皇の勅願により、開基されたのですが、お大師様がこの地で修行をされていると、雌雄一対の白鶴が金色の地蔵菩薩を守護してきたので大師が模刻され、その胸の部分に御降臨された一寸八分の地蔵菩薩を納めて御本尊とされたといいます。この地蔵菩薩は今は国宝に指定されています。この白鶴の伝説から、寺号が鶴林寺と命名されたとのことです。
また、この山がインドの霊山に似ていたことから、山号を霊鷲山と名付けられました。そして、本堂の両脇と仁王門にはそれぞれ一対の白鶴の像が立っており、仁王門の仁王像は、運慶の作であると伝えられています。澄禅「四国遍路日記」には「山号霊鷲山、本堂南向き、本尊は大師一刀三礼の御作の地蔵の像なり、高さ一尺八・九寸、後光板版失せたり、像の胸に瑕あり、堂の東の方に御影堂あり、鎮守の森あり、鐘楼もあり、寺は鶴林寺といふ、寺主は上人なり、寺領百石、寺家六万あり」としています。昔から大きな寺だったことがわかります。

次の21番太龍寺と向かい合う位置にあり、太龍寺は金剛界道場、そしてこの鶴林寺は胎蔵界道場といわれます。太龍寺のロープウエイからは老杉のなかに鶴林寺の三重塔が屹立しているのがみえるのです。この三重塔は文政6年(1823)、江戸末期に建てられたもので、各層は和様、唐様と、それぞれに異なった建築方法になっているとのことです。

ここは納経所と大師堂が一緒になっており、いつもこの大師堂の縁で座って理趣経を上げさせていただくことにしています。22年の春の逆打ちの時はこの大師堂前のさつきの植え込みからでてきた数センチもある太った熊蜂がブンブンと読経中の私の周りを飛び回り肝を冷やしました。ここはごみ箱を置いていません、ごみは持ち帰るようにということです、しかし22年のときは道中の遍路道のゴミ拾いで一杯になったゴミ袋を納経所の人が庫裏に納めてくれました。大きなゴミ袋をもって山道を歩くのは大変なので助かりました。
 25年のときは大師堂の縁にはあげていただけませんでした。しかたないので大師堂の前の三和土の上で4人で坐して心経をあげました。すぐ後ろを多くのお遍路さんが通り過ぎていきました。

 20番から20キロ以上離れて奥の院「穴禅定 慈眼寺」というところがあります。歩いていくと往復数日はかかると思れます。私は21年に21番太龍寺で求聞持のあと、車で行って穴禅定を修行してきましたが、遍路はぜひ一度は行ってみるべきところです。お大師様が御修行されたという2億5千万年前の鍾乳洞を、白衣・藁草履・ローソクの明かりだけで先達に案内され、大師宝号をとなえつつ狭い穴を通り抜けていく修行です。岩壁には弥陀三尊・不動明王・普賢菩薩などが彫られています。一番奥には大広間が広がっていてここで心願成就の祈願をします。しかしここまで来るには先達の言うとおりに素直に身体をひねり手足を順番に穴からだしたり入れたりしないと直ぐに体がつかえてまさに「進退窮まる」ことになります。寺務所前には身体の幅の計測装置があり、ここを通れない太った人は穴の中でつかえて動けなくなるのであらかじめ断られます。また天候の不順なときも穴禅定までの道が通れなくなるため断られます。それほど厳しいところです。出てくると着ていた白衣は泥だらけになっています。しかし不思議な充足感に満たされます。
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