金山穆韶猊下は生涯肉食妻帯せず、清僧として行學兼備の生活を送られた終戦時の高野山管長です。哲学者の柳田謙十郎や「無手の法悦」の大石順教尼等が私淑しています。
「国難と弘法大師・・仏教は聖徳太子様によって日本に受け入れられ、太子の十七条憲法の第二条にはあきらかに仏教をもって日本の指導精神とすべきことを宣言せられてある。(「二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かれるを直さん。」)そして聖徳太子は法華経、勝鬘経、維摩経の三経の疏までかかれて仏教の宣布につとめられたが特に法華経を中心として仏教を観んとせられたようであった。法華経には会三帰一とて差別せるものを一の真理に帰一することを説かれてある。・・もとより法華の帰一の一は仏教の根本観念たる法身如来である。・・博多湾頭よりはるかに鹿島が見られるが元寇のときはこの敵の襲撃の先端である鹿島に弘法大師様のお守り本尊様である高野山波切不動尊を高野山上より多数の僧侶が捧持して行って、これを安置し、敵の一撃の下に全滅せられるか或いは明王の威神力によって敵を討ち滅ぼすか、という重大なる岐路に立ち、明王の威神力を確信し、身命を賭して真剣の祈祷をしたのであったが、不思議や神風突如として怒り、敵は一挙に覆滅したのであった。ここにも仏の威神力の広大なることが知られるのである。
また大師様が高野山へ入定されてから百年ほど経たとき、関東に平将門の乱が起こった。この将門の乱の鎮定には当時の朝廷も困り抜き、事態まことに容易ならざるものがあった。
それより百三十年前、弘法大師は支那よりおかえりになり、まだ高野山を開かれない前は、京都の高尾山に10年ほどおられたのであるが、そこでも不動明王を刻まれ、守り本尊として念持されてあった。将門の乱鎮定の朝廷よりの内命が真言宗の高僧、広沢の寛朝僧正につたえられた。寛朝はその不動尊を捧持して関東に下り、熱烈なる祈祷により将門の乱を平定し、なおも明王の威神力により永く国家を守護したいとの念願から成田山へ安置したのである。・・このように元寇も将門の乱も大師御作の不動明王の大威神力により平定せられたと信ぜられている。そして大師は諸仏の徳を成就せられ殊に大師即不動明王と見奉る秘事からいえば大師の威神力によって国家が護られたといわれるのである。高野山奥の院にましまされる大師の尊前には不動明王と愛染明王の二明王が安置せられ、大師のご尊像が右の御手に金剛の五鈷杵、左の御手に念珠をもたされてあるのは、その念珠は不動明王を、五鈷は愛染明王の霊徳をあらわすものである。大師は御一代の間に、神泉苑における雨請いとか、薬子の乱の平定とか国家のために五十一度も祈願せられたがいずれも霊験をしめされたのであった。・・・
大戦中の祈願・・・終戦の年の3月10日、参謀本部の某大官より重大なる祈願の申し出があった。当時国家興亡の岐路にたっていたので3月21日からその祈願に入ったが、30日ほどへてその祈願のことが達成された。ところが6月さらに同様のことの祈願のもうしでがあった。40日ほどへてそのことが成就せられた。・・・
終戦の当時、鈴木貫太郎大将が内閣総理大臣になるや毎月28日に代理の方を高野山へ参らせられ、奥の院の大師廟前と南院の波切不動前で大護摩を供養し祈願せられた。8月15日、終戦になったが、超えて18日にまた代理の方が祈願に登られた。世界平和と国家独立完遂の祈願であった。そして世間では無条件降伏というも、そうでない絶対の条件を申し入れた。聴きいれられないであろうと思ったことが認められたのは全く神仏の加持力によるおかげだと信ずるとて感謝の祈願でもあった。
・・・私は今でも根本大塔で一日も欠かすことなく護摩を奉修し、世界平和、独立国家達成、一切衆生大菩薩成就のために祈願を続けている。
終戦後平和条約が批准されたのが26年11月28日、外務省での調印式が27年2月28日、その発効が27年4月28日と、いずれも不動明王のご縁日であったのも不思議な霊力を感ぜずにはいられない。・・・・
敗戦により領土は縮小され且つ領土を拡大して大国民として生きる道は杜絶されている。けれども精神を世界に拡充し、世界人類を真理の大道に導き、ともに大国民として生きることは自由である。
小さくても王の冠は尊いようにわが国は小国でも世界に対して王の宝冠の地位を持ちたいものである。そして冠としての第一の条件は清らかでなければならぬように、真理の光を仰ぎ霊化せられ正義に生き、世界人類より親しみ尊ばれ犯すことのできない国として交わりを得ることによってのみ、王冠としての地位を保ちえるであろう。・・そして日本精神に世界性を付与した弘法大師の教旨に自らも生き、人類をして生かさしめる一途あるのみであると思うのである。・・・
参考、金山穆韶師高野山管長猊下ご就任の挨拶(昭和28年2月22日78歳)
「今回老納、座主管長として推薦を辱うしましたけれども、なにぶん老境に入ったことでもあるし、本来ならば真別処に居て観佛三昧に住し余生を送りたいであります。
しかし幸いにして我が日本も独立国家となったけれど、経済力からいうも防衛力よりいうも外国の援助にたよらなければならぬ状態でありますし、その上、国民がキリスト教にでも皈向し、幾千年の間に養われきたった伝統の尊い精神までも失うようなことになりはせぬかを憂うるものであります。
聖徳太子が仏教に皈向せられ、法華経・勝鬘経・維摩経の三経の疏まで製せられました。このうちでも殊に法華経に重きを置かれたようであります。それは会三帰一、一切を一に皈向せしま、天壊無窮の国体をば、久遠実成の如来の精神に基礎つ゛けようとの叡慮によるものと深察せられるのであります。日蓮上人は法華経の諸法実相の理を以て国家を護ろうとして立正安国論を著された。弘法大師の入定留身は令法久住のためなるも、三世常位の法身・大日世来の金剛力をもって国家を護らんとの誓願の存すると、小野の成尊僧正は示されました。
伊勢神宮は日本民族を守らんとして鎮座ましまされ、日本精神を代表されておりますが、弘法大師の入定留身は令法久住のためなるも三世常位の法身大日如来の金剛力をもって国家を護らんとの誓願の存することを小野の成尊僧正は示されました。
伊勢大神は日本民族を守らんとして鎮座ましまされ、日本精神を代表されておりますが、弘法大師は日本精神に世界性を附与し、日本を護るとともに一切人類を等しく救い給いつつましまされるのであります。高祖大師によって開顕せられた仏法の最極究竟の法身如来の光明を闡楊し一切人類を包みつくし、大国民として他国民と共に真実平和の大道をあゆみたいと念願する者であります。
仏教は印度に滅び、共産化せる中国の仏教の将来また期するべからず、大乗仏教はただ我が国に存するのみの観があります。
この仏教をして永く世界を照らす精神界の太陽として伝んには、これを広く欧米に伝えるほかに道がないと思うのであります。しかし欧米人の内には早くより仏教を研究しているものがあるようなれど、仏教は空の教えなり、死の宗教なり、万有神教なり、万有神教は無神論なり等と観て、仏教を信じようとしないようであります。
斯かる人類に対しては一神教をも超え、万有神教をも超え、無我の中の真我たる法身大日如来と共に霊法大自力を一切世界に示現せられつつある弘法大師の真言密教が最も相応の教えだと確信するものであります。多年の研究と実修によりました、大師の教えの精神にいかされてはおりますが、更に世界的学者や宗教家や哲学者等と商量して、仏教をば世界精神界の王座に立たせ、絶対的宗教として永く光を放たしめたい希望の一分でも実現することが出来得ますればと思うて、不徳その任でないことを自ら知りつつも推挙下されるままに座主管長の職につくことを御請けしたわけであります。
三地両所の御冥護と広く道俗各位のご同情とご援護によりこの重責を全うさせていただきたいと念願する次第であります。」
「国難と弘法大師・・仏教は聖徳太子様によって日本に受け入れられ、太子の十七条憲法の第二条にはあきらかに仏教をもって日本の指導精神とすべきことを宣言せられてある。(「二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かれるを直さん。」)そして聖徳太子は法華経、勝鬘経、維摩経の三経の疏までかかれて仏教の宣布につとめられたが特に法華経を中心として仏教を観んとせられたようであった。法華経には会三帰一とて差別せるものを一の真理に帰一することを説かれてある。・・もとより法華の帰一の一は仏教の根本観念たる法身如来である。・・博多湾頭よりはるかに鹿島が見られるが元寇のときはこの敵の襲撃の先端である鹿島に弘法大師様のお守り本尊様である高野山波切不動尊を高野山上より多数の僧侶が捧持して行って、これを安置し、敵の一撃の下に全滅せられるか或いは明王の威神力によって敵を討ち滅ぼすか、という重大なる岐路に立ち、明王の威神力を確信し、身命を賭して真剣の祈祷をしたのであったが、不思議や神風突如として怒り、敵は一挙に覆滅したのであった。ここにも仏の威神力の広大なることが知られるのである。
また大師様が高野山へ入定されてから百年ほど経たとき、関東に平将門の乱が起こった。この将門の乱の鎮定には当時の朝廷も困り抜き、事態まことに容易ならざるものがあった。
それより百三十年前、弘法大師は支那よりおかえりになり、まだ高野山を開かれない前は、京都の高尾山に10年ほどおられたのであるが、そこでも不動明王を刻まれ、守り本尊として念持されてあった。将門の乱鎮定の朝廷よりの内命が真言宗の高僧、広沢の寛朝僧正につたえられた。寛朝はその不動尊を捧持して関東に下り、熱烈なる祈祷により将門の乱を平定し、なおも明王の威神力により永く国家を守護したいとの念願から成田山へ安置したのである。・・このように元寇も将門の乱も大師御作の不動明王の大威神力により平定せられたと信ぜられている。そして大師は諸仏の徳を成就せられ殊に大師即不動明王と見奉る秘事からいえば大師の威神力によって国家が護られたといわれるのである。高野山奥の院にましまされる大師の尊前には不動明王と愛染明王の二明王が安置せられ、大師のご尊像が右の御手に金剛の五鈷杵、左の御手に念珠をもたされてあるのは、その念珠は不動明王を、五鈷は愛染明王の霊徳をあらわすものである。大師は御一代の間に、神泉苑における雨請いとか、薬子の乱の平定とか国家のために五十一度も祈願せられたがいずれも霊験をしめされたのであった。・・・
大戦中の祈願・・・終戦の年の3月10日、参謀本部の某大官より重大なる祈願の申し出があった。当時国家興亡の岐路にたっていたので3月21日からその祈願に入ったが、30日ほどへてその祈願のことが達成された。ところが6月さらに同様のことの祈願のもうしでがあった。40日ほどへてそのことが成就せられた。・・・
終戦の当時、鈴木貫太郎大将が内閣総理大臣になるや毎月28日に代理の方を高野山へ参らせられ、奥の院の大師廟前と南院の波切不動前で大護摩を供養し祈願せられた。8月15日、終戦になったが、超えて18日にまた代理の方が祈願に登られた。世界平和と国家独立完遂の祈願であった。そして世間では無条件降伏というも、そうでない絶対の条件を申し入れた。聴きいれられないであろうと思ったことが認められたのは全く神仏の加持力によるおかげだと信ずるとて感謝の祈願でもあった。
・・・私は今でも根本大塔で一日も欠かすことなく護摩を奉修し、世界平和、独立国家達成、一切衆生大菩薩成就のために祈願を続けている。
終戦後平和条約が批准されたのが26年11月28日、外務省での調印式が27年2月28日、その発効が27年4月28日と、いずれも不動明王のご縁日であったのも不思議な霊力を感ぜずにはいられない。・・・・
敗戦により領土は縮小され且つ領土を拡大して大国民として生きる道は杜絶されている。けれども精神を世界に拡充し、世界人類を真理の大道に導き、ともに大国民として生きることは自由である。
小さくても王の冠は尊いようにわが国は小国でも世界に対して王の宝冠の地位を持ちたいものである。そして冠としての第一の条件は清らかでなければならぬように、真理の光を仰ぎ霊化せられ正義に生き、世界人類より親しみ尊ばれ犯すことのできない国として交わりを得ることによってのみ、王冠としての地位を保ちえるであろう。・・そして日本精神に世界性を付与した弘法大師の教旨に自らも生き、人類をして生かさしめる一途あるのみであると思うのである。・・・
参考、金山穆韶師高野山管長猊下ご就任の挨拶(昭和28年2月22日78歳)
「今回老納、座主管長として推薦を辱うしましたけれども、なにぶん老境に入ったことでもあるし、本来ならば真別処に居て観佛三昧に住し余生を送りたいであります。
しかし幸いにして我が日本も独立国家となったけれど、経済力からいうも防衛力よりいうも外国の援助にたよらなければならぬ状態でありますし、その上、国民がキリスト教にでも皈向し、幾千年の間に養われきたった伝統の尊い精神までも失うようなことになりはせぬかを憂うるものであります。
聖徳太子が仏教に皈向せられ、法華経・勝鬘経・維摩経の三経の疏まで製せられました。このうちでも殊に法華経に重きを置かれたようであります。それは会三帰一、一切を一に皈向せしま、天壊無窮の国体をば、久遠実成の如来の精神に基礎つ゛けようとの叡慮によるものと深察せられるのであります。日蓮上人は法華経の諸法実相の理を以て国家を護ろうとして立正安国論を著された。弘法大師の入定留身は令法久住のためなるも、三世常位の法身・大日世来の金剛力をもって国家を護らんとの誓願の存すると、小野の成尊僧正は示されました。
伊勢神宮は日本民族を守らんとして鎮座ましまされ、日本精神を代表されておりますが、弘法大師の入定留身は令法久住のためなるも三世常位の法身大日如来の金剛力をもって国家を護らんとの誓願の存することを小野の成尊僧正は示されました。
伊勢大神は日本民族を守らんとして鎮座ましまされ、日本精神を代表されておりますが、弘法大師は日本精神に世界性を附与し、日本を護るとともに一切人類を等しく救い給いつつましまされるのであります。高祖大師によって開顕せられた仏法の最極究竟の法身如来の光明を闡楊し一切人類を包みつくし、大国民として他国民と共に真実平和の大道をあゆみたいと念願する者であります。
仏教は印度に滅び、共産化せる中国の仏教の将来また期するべからず、大乗仏教はただ我が国に存するのみの観があります。
この仏教をして永く世界を照らす精神界の太陽として伝んには、これを広く欧米に伝えるほかに道がないと思うのであります。しかし欧米人の内には早くより仏教を研究しているものがあるようなれど、仏教は空の教えなり、死の宗教なり、万有神教なり、万有神教は無神論なり等と観て、仏教を信じようとしないようであります。
斯かる人類に対しては一神教をも超え、万有神教をも超え、無我の中の真我たる法身大日如来と共に霊法大自力を一切世界に示現せられつつある弘法大師の真言密教が最も相応の教えだと確信するものであります。多年の研究と実修によりました、大師の教えの精神にいかされてはおりますが、更に世界的学者や宗教家や哲学者等と商量して、仏教をば世界精神界の王座に立たせ、絶対的宗教として永く光を放たしめたい希望の一分でも実現することが出来得ますればと思うて、不徳その任でないことを自ら知りつつも推挙下されるままに座主管長の職につくことを御請けしたわけであります。
三地両所の御冥護と広く道俗各位のご同情とご援護によりこの重責を全うさせていただきたいと念願する次第であります。」