森鴎外「独身」に鷗外は佛教を現代的以上に現代的にとらえている表現があります。誰もが何かを信奉しているがそれは「仏」であり、科学は「法」であり、権威を信奉している本人は「僧」であると言っているのです。誠に痛快です。(鷗外は廃仏毀釈の総本家ともいえる津和野藩で教育を受けていますがやはり相当柔軟な精神の持ち主であったことがうかがえます。)
「一体御主人の博聞強記は好いいが、科学を遣っているくせに仏法の本なんかを読むのは分からないて。仏法の本は坊様が読めば好いではないか。」
寧国寺さんは饂飩をゆっくり食べながら、顔には相変らず微笑を湛えている。
主人がこう云った。「君がそう思うのも無理はない。医書なんぞは、医者でないものが読むと、役には立たないで害になることもある。しかし仏法の本は違うよ。」
「どうか知らん。独身でいるのさえ変なのに、お負まけに三宝に帰依していると来るから、溜まらない。」
「また独身攻撃を遣り出すね。僕なんぞの考では、そう云う君だってやっぱり三宝に帰依しているよ。」
「こう見えても、僕なんかは三宝とは何と何だか知らないのだ。」
「知らないでも帰依している。」
「そんな堅白異同の弁を試みたっていけない。」
主人は笑談のような、真面目のような、不得要領な顔をしてこんな事を言った。
「そうでないよ。君は科学科学と云っているだろう。あれも法なのだ。君達の仲間で崇拝している大先生があるだろう。Authoritaetenアウトリテエテン(権威) だね。あれは皆仏なのだ。そして君達は皆僧なのだ。それからどうかすると先生を退治しようとするねえ。Authoritaetenアウトリテエテン-Stuermereiスチュルメライ というのだね。あれは仏を呵し祖を罵しるのだね。」
寧国寺さんは羊羹を食べて茶を喫のみながら、相変わらず微笑している。・・」