自力他力というが偏するといずれも間違う。外道の群れにいることを免れぬ。真言宗のお経に「以我功徳力、如来加持力、及以法界力、周遍衆生界」とあって我が功徳力と加持力と法界力と三つが妙合わせなければ仏法とはいわれぬ。感応利益もないことである。以我功徳力というのは我が信心の力のことである。仮令他力往生といっても我が信心よりする功徳力がなければ往生せぬ。禅宗は禅宗で専ら自力であるけれども如来がいまして幽冥から加持をしてくださることがなければ悟道することはできぬ。よってこれを如来加持力という。法界力とは・・自身と一切衆生と御仏との本生平等不二なる法界、すなわち法性法爾の功徳力がなければならぬ。若しこの真如の功徳がなかったら広大無辺の加持力を以ても凡夫を仏にすることは出来ぬ。・・人間が育つにも大地がなければならぬ、産むにも大地がなければばらぬ、死ぬにも大地がなければならぬ。じゃからいっさい地によらねばならぬ。・・・一心に願う信心力と弥陀が迎えとろうとの思し召しと相応しても、我らが真如の徳、即ち仏になる性質をそなえておらねば仏になることは出来ぬ。依って三力とこうおっしゃってある。・・この三力が仏教の秘訣でこれを離れては仏法はない。・・・この三力は三つ別々三つ一体、弥陀の他力はどこから生ずるかというと真如法界から出る。我らの信心はどこから発するかというと真如法界力による。そうすると同一真如の外にない。依って大乗小乗顕教密教違うても八宗九宗十三宗あっても真如の力、仏性の力ということは決して離れぬ。弥陀の本願も真如法性の力、釈迦の八相成道も真如法性の力、われわれが発心し修行して仏になるのも真如法性の力、真如法性を離れて仏法はない。
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