文亀元年九月二十三日(1501)
「先帝・後土御門天皇の奉為に阿弥陀経を書写あらせられ、是日、三条西実隆をして校合せしめらる」(実隆公記)
天皇は後柏原天皇。室町幕府は足利義澄。
先帝後土御門天皇は、この前年の明応九年1500九月二十八日薨去されています。
応仁の乱により、公卿は地方に離散し、朝廷の財政は窮乏し、天皇の権威も地に落ちた時代だった。後柏原天皇は応仁の乱や疾病に苦しむ民を思い続けた。
仏教に帰依し、大永五年(1525年)の疱瘡大流行時には自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納。詩歌管弦、書道に長けていたといわれている。
後柏原天皇御宸翰般若心経奥書は国重要文化財です。
「宸翰英華」によるとこの奥書の内容は以下のようになっています。
「宸筆般若心経奥書(案)
頃年、小瘡流行、都鄙愁苦久円矣。之に依りて蒼生を利する為に聊か丹精を凝らし般若の真文を写し仁和の霊寺に祷る。仰ぎ願はくは三寶知見し萬民安楽乃法界平等利益。 大永五年・・月」
(後柏原天皇の時代、大永五年に疱瘡流行し都鄙大いに苦しんだ。天皇は心経を書写して仁和寺及び延暦寺に納め給ひ、悪疫の終焉を御祈請あらせられた。三條西實隆の日記によれば、同年十一月十七日天皇は實隆に宸翰の紺紙金泥の心経を拝見せしめられその後、奥書のことに関して諮らせられた。・・)
後柏原天皇は父の後土御門天皇と同様に敬虔な仏教徒。貧窮は自分の罪障が原因と考えて、阿弥陀仏の慈悲に希望を託し以下の和歌を詠じられた。
「心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ」
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