「高野春秋」「(承和二年835)夏五月三日、奥の院石室中に殯斂し奉る。秘蔵記に云、高祖此の室中に卜す。金剛定門に入り慈氏の下生を期す。注に曰く、件の石室とは、六尺間三間也。三六十八尺は金剛頂十八会を表示す。中心に蓮華座あり、花蔵世界を標顕す。扉三尺八寸は三十七尊を擬するなり。」 . . . 本文を読む
史料綜覧巻七 / 応永丗一年(1424)五月三日条「三日 幕府 室町第に六字法を修し 義量の病気平癒を祈る。」
六字法とは六観音を本尊として調伏・息災祈祷を行うもの。
此の時は足利義量自身が室町将軍であった。翌32年2月27日に義量は死去、享年十九。疱瘡や大酒で病弱であったとされる。 . . . 本文を読む
.日本紀略 / 正暦五年(994)五月三日甲寅条
「三日甲寅 (一条天皇は)山陵使を奉遣す。 疾病を救為也」
山陵使とは国家的大事件を告げる為歴代天皇陵に派遣される使いの事。正暦六年には天然痘の猖獗により改元。 . . . 本文を読む
平安時代の今日、新羅が肥後国に来て人家を焼いています。日本紀略 / 寛平五年(893)閏五月三日庚午条「三日庚午 大宰飛駅使来りて偁(いは)く 新羅の賊、肥後国飽田郡に於て人宅を焼亡す。 又肥後国松浦郡に逃去る 即ち勅符を賜ひ 之を追討せしむ。」此のころ、新羅国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々新羅の賊が日本各地を侵しています(新羅の入寇)。 . . . 本文を読む
日本書紀 ( 敏達二年(573))「二年夏五月丙寅朔戊辰(三日)、高麗使人越海之岸に泊す。破船溺死者衆(おお)し。朝庭は頻に迷路するを猜ひ、饗せずして放還す。 仍って吉備海部直難波に勅し、高麗使を送る」。 . . . 本文を読む
今日は大師が高野山で三鈷杵を得られた日
「高野春秋」
「弘仁七年816丙申五月三日。本朝真言根本高祖傳燈大阿闍梨位空海和尚、行年四十三、紀州伊都郡高野山に攀登され、大唐明州津より投るところの三鈷杵を感得さる。是れ神助に依る也。
三鈷記に云、帰朝纜を解くの浜、東方に紫雲起こるを見る。而して黙祈し我所学の密教流布相応の地有らば吾より先んじて早く日域に到い之を點 . . . 本文を読む
観音霊験記真鈔33/33
西國三十二番江州観音寺千手像御身長三尺
釈して云く、前には事の観音の義を談ず。次に理の観音とは明眼論に云く、九界の衆生他を慈(あはれみ)自を悲(あはれむ)。皆是観音大悲の相也。有情随分の慈悲菩薩の内薫の縁に非ずといふこと無し。眼に色を見、耳に其の聲を聞き、鼻に其の香を聞き、舌に其の味を嘗め、身に其の境を触れ、意に其の法を縁ず。六根各々慈を生ず。六識に互 . . . 本文を読む