此の二義によって恒常に熏習し、有力を以ての故に能く衆生をして生死の苦を厭い、涅槃を樂求し、自ら己身に眞如の法ありと信じて法發心修行せしむるをいう。問曰。若し如是の義ならば、一切衆生悉有眞如にして等しく皆な熏習せんに、云何んが有信と無信と無量に前後に差別するや。皆な應に一時に自ら眞如法有と知って、勤修方便して等しく涅槃に入るべけんや。答曰。眞如本より一なり。而れども無量無邊の無明ありて、本より已來、 . . . 本文を読む
承和元年834八月二十三日は大師が「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」を書かれた日です。「それ諸仏の事業は大慈をもつて先とし、菩薩の行願は大悲をもつて本とす。慈よく楽を与え、悲よく苦を抜く。抜苦与楽の基、人に正路を示すこれなり。いわゆる正路に二種あり、一には定慧門、二には福徳門なり。定慧は正法を開き、禅定を修するをもって旨とす。福徳は仏塔を建て、仏像を造るをもつて要とす。三世の諸仏、十方の薩埵、みな . . . 本文を読む
憲淳は醍醐寺報恩院第四世。一に国師僧正といい、粟田口一品良教の子。報恩院覚雅の室に入り出家。正応五年八月具支灌頂を本師に受け、苦修精練して瀉瓶の印璽を付嘱せらる。乾元二年二月二十六日遍智院聖雲親王は師に印可を授ける。憲淳は後宇多天皇の幼少期に侍童としてお仕えする。徳治三年二月、憲淳病篤きに及ぶや法皇は勅書を下して法流伝授を求めたまふ。憲淳は三月二十五日、請文を奉って受法心得を進言。四月三日法皇重ね . . . 本文を読む
. 史料綜覧 巻五 / 文永六年(1269)八月廿三日条「廿三日・・・大神宮 及ビ宇佐大神宝使ヲ発遣シテ 異国降伏ヲ祈ル」天皇は後宇多天皇。鎌倉幕府は北条時宗。この年二月、蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国しています。 . . . 本文を読む
お大師様は、紀州高野山開創に当たり、有縁の人々の支援を求るべく「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」を今日8月23日書かれています。「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」 の全文です。「夫れ諸仏の事業は、 大慈を以て先と為し、 菩薩の行願は、 大悲を以て本と為す。 慈は能よく楽を与へ、 悲は能く苦を抜く。 抜苦与楽の基、 人に正路を示す、 是なり。 謂いう所の正路に、 二種有り。 一には定慧門、 二には福 . . . 本文を読む
今日は国宝神護寺梵鐘が作られた日国宝神護寺梵鐘は貞観17年(875年)の銘が入る梵鐘で、日本三名鐘の1つ(「銘の神護寺」「姿の平等院」「音の三井寺」)。この梵鐘は、橘広相が詞書を書き、菅原是善(道真の父)が銘を選び、藤原敏行が揮毫と、当時一流の3名の合作で「三絶の鐘」とも呼ばれます。卜書に「貞観十七年八月二十三日、治工志我部海維以銅千五百斤令鋳成。橘広相之詞、菅原是善銘、藤原敏行書」とあり。 . . . 本文を読む
第廿五番筑波大御堂(現在も第25番は筑波山大御堂)
常州筑波郡筑波山、中禅寺知足院は、又護持院と号す。夫れ此の山は、天地開闢の古振り(より)、天神地祇降霊の地也。録して而も神書歌書等の如し。中興佛閣僧寺は、桓武帝の延暦元年(782年)徳一上人の開基。弘仁年中弘法大師の結界也。大御堂千手大悲の像は、両大権現の託宣に依って、弘法大師之彫刻也。
風土記に曰、此の國の邊、常に塩満ちて民 . . . 本文を読む