mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「冬至―柚子湯」

2018-12-22 20:15:23 | 日記
 
 今日は冬至。冬至というと柚子湯を思い出す。というか、カミサンは柚子湯を沸かす。それを前日から計算していてか、今朝になると「洗濯をする」という。いつもなら二日に一回の洗濯を、昨日とつづけてやる。まあ、かき集めれば、一回の洗濯分ほどは洗いものがあるから、不思議ではない。それならと私も、いつもなら今日も着る長袖を洗濯に出す。
 
 夜になって分かる。柚子湯なのだ、今日は。それで私は、ああ、今日は冬至だったかと思う。冬至と言えば、ひびやあかぎれを思い出す。柚子湯はひびやあかぎれに効くと母親が口にしていたように思う。子どものころ、ひびやあかぎれが絶えなかった。清潔じゃなかったからなのだろうか、いま思うと、あの頃は寒かったのではないか。温暖化がどういうものかわからないが、あの頃と較べると間違いなく今の方が暖かい。そもそもひびやあかぎれに出くわさない。暖房しているとかしていないとかに関係ないと思う。我が家はそれほど暖房をしないからだ。それとも、年を取るとひびやあかぎれは出てこないのだろうか。
 
 温暖化がどういうものかわからないというのは、つい先日見たNHKTVのグレートネイチャーで、5500万年前の話を聞いたからだ。その頃、いまの中国あたりにいたサルがアメリカやベルギーへ散らばっていったという。なんでも化石の研究からそれが分かったという。つまりサルはアフリカ原産ではなく、中国原産だったってこと。後にアフリカに渡り、そのなかから現在の人類につながるホモ・エレクトスが誕生することになるというお話だ。でもなぜ、サルがアメリカ大陸へ渡るのかが、私の疑問であった。人類がベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に広がるには、北アメリカ大陸の何千メートル高さの氷河を越えなければならなかったから、彼らは1万2千年以降から1万年前までのあいだの、ベーリング海峡が氷に閉ざされ、かつ、北米の氷河が溶けて通過可能になるわずか2千年ほどの間のチャンスをみつけて、北米へ移動し、アメリカインディアンとかインディオになったと、昔何かの本で読んだからだ。人類が渡るのに苦労した「あそこ」をサルがどうやって渡ったのか、と。
 
 NHKの放送は、その当時アメリカ大陸のカナダとの国境辺りは亜熱帯であったという。そして大陸移動のある段階にあって、陸続きであったという。なるほどそうやって考えると、私の子ども時代という、わずか70年ほど前が寒冷であったとか、温暖であったとかいうのは、どうでもいいことになる。炭酸ガスが多すぎたかどうかということも、たぶん、別次元の論議になる。「温暖化」という概念をどういう次元でとらえるか。それによって、どうその影響を評価し、どう対処するか(どうか)を判断していくことも、左右されるとなると、そこまで考えをめぐらさなければならないのではないか、と私は考える。 
 
 ひびやあかぎれが、衛生水準や生活水準のもたらすものか、温暖化のもたらすものか、せめてそのくらいは明らかにしてみないと、答えは出せない。でもなあ、そんなことを研究している人もいるまいて。柚子湯にどっぷりとつかりながら、そんな埒もないことに思いめぐらしている。

のらぼうな

2018-12-20 14:19:16 | 日記
 
 ああ、とうとう私ものらぼうになった、と昨日思った。
 
 山の会の、私が企画した日帰り登山の日。行き先は奥久慈男体山。水戸と郡山を結ぶ水郡線のちょうど中ほどに位置する茨城県北部を流れる久慈川のほとりに点在する山の一つ。名の通り、岩山である。ところがここへ行くのにアクセスが悪い。調べると「前夜泊」と紹介している。だが車で行くと、2時間半余で登山口に着く。これに限ると、早朝6時20分の電車で来てもらってわが家の近くの駅に集合、9時ころに登り始め、2時ころに下山すると計画した。鶴ヶ島からのKさんたちは、圏央道を使うとアクセスにいいとわかり、結局、車二台で行くことにした。
 
 朝4時半に目覚ましをかけ、前夜9時には床に就いた。2時ころ目が覚め、、まだ2時間半もあると再び寝入る。私のスマホがひゅららひゅららと鳴っている。誰かから電話がきたか。それにしても早い時間の電話だなと思い、目を明ける。ずいぶん明るい。この時期、間もなく冬至だからこんなに明るいのはどうしてと考えたかどうか、いまとなってはわからない。目覚ましをみる。なんと6時20分。集合時刻である。慌ててスマホを開け、返信電話を掛ける。
 
「駅のどこでしたって、待ち合わせるのは」と、Sさんの声。
「いや、申し訳ない、いま起きた。20分ほど待ってください、すぐいきますから」と返事をして、まず、湯を沸かす。沸く間に着替える。お昼とお茶を詰め込み、沸いた湯をテルモスに入れて、ザックに放り込み、家を出る。
 
 どうしたことだ、これは、と自分の異変が気にかかる。平謝りに謝ってKさんとの合流地点へ向かう。Sさんは鷹揚に笑って応対してくれたが、いやはや言葉もない。
 
 いつだったか、山の会の皆さんに、「もし私が集合時間に現れなかったら、この山の会は終わったと思ってください」と話したことがあった。そのときは、寝過ごすということは考えていなかった。予定を忘れてしまうようになったらと、自分も思っていた。だが何だ今日は。9時間も寝て、呼び出しで起きだすとは。私も「終わった人になったか」。
 
 ところが車は遅々として進まない。もともと早朝集合にしたのは、通勤時間帯と重なると、渋滞で予定通りには知れないと計算したからであった。はじめは6時だった。だが伊奈町に住む方が始発に乗っても間に合わないというので、6時20分にした。それがさらに私の寝坊で遅れて、6時45分発ほどになったろうか。まさに通勤ラッシュのただなかへ突っ込んでいく。集合時刻10分前というのに、まだのろのろと外環を走っていて、常磐道にも乗っていない。Kさんに「そちらの到着が8時ころになります」と電話をしてもらう。もう着いているという。参ったなあ。
 
 常磐道に入ると流れはスムーズになり、8時ちょっと過ぎに集合地点のPAに到着した。そこから約2時間ほどかかる行程は、順調に流れた。当初の予定と違うのは、車が二台、故障者が続出して参加が4人ということ。まず下山口に一台をおいて全員もう一台に乗り、登山口に向かう。当初の一台で行くときには、登山口に一番近い駅に車を置き、登山口まで1時間20分を歩く。そうして下山口の駅から電車に乗り、車を置いた駅まで戻るという行程であった。その登山口まで歩く1時間20分が、1時間ほど短縮される。まるで私の寝坊が、それを無意識に計算して、測ったようであった。
 
 登山口の広場にはすでに7台の車が止まっている。片隅に私の車を止め、トイレを済ませる。Sさんが「何も食べないでいいんですか?」と気遣ってくれる。「大丈夫です。蓄えがありますから」と応えながら、血圧が高いのもこういうときの初発の行動にはいいんだねと、妙なことに関心が向かう。
 
 駐車場からは、これから登る奥久慈男体山が陽ざしを受けて岩肌を晒している。「いや、これはすごい。写真撮っといて」とkwrさんが嘆声をあげる。「名前だけは聞いていて、なかなかアプローチできなかったのよね」とSさんがつづける。大円地蕎麦屋の前を通って登山路へ踏み込む。陽ざしを背に受けてぽかぽかと暖かい。私は羽毛服を脱いで夏山の服装。「←健脚・一般→」と表示のある分岐に来る。kwrさんは「一般」の方へ踏み出そうとする。「今日のメンバーなら健脚だよ」というと、えっ、という顔をして「健脚」へ向きを変える。10時17分。
 
 すぐにぐいぐいと上りがはじまる。途中でストックを仕舞う。小石が何かの巨大な圧力に押し付けられるようにしてまとめられ巌になったような風情。地層の下の方にあってそうなったのか、溶岩が小石をまとめてそうなったのか。「さざれ石だね」と誰かが言う。「巌(いわお)って、すごい響きだね」と、別の誰かが言う。私は君が代の「さざれ石が巌となりて」は岩石の自然崩壊からするとヘンだと考えてきたが、そうか、長い歳月の堆積に押しつぶされるようにして小石の人民が巌のような民族にまとまって来たことを謳っていたのか、と埒もないことを考える。その小石が足場になって、鎖をつかんで身体を持ち上げる。
 
 9月に私がこちらに来たときには、前日の雨で、この岩がすっかり濡れていて、つるつるとすべりやすかった。だが今日は乾いていて、きっちりフリクションが利く。先頭のkwrさんは、岩登りにすっかり集中していて、いいペースで上がる。二番手のkwmさんはすぐ後について何ほどの疲れも見せない。三番手のSさんは足場をどこにするか一つひとつ吟味するように登っている。上に上がってからの話だが、kwrさんは「こんな長い鎖のルートは、はじめてだよ」という。息が切れたそうだ。大円地から男体山山頂までの標高差は470mほど。その半分以上が鎖場だ。
 
 稜線に上がる少し手前で、先頭を行くkwrさんの「いやあ、すごいね」という声が聞こえる。眺望のいい大岩の上に出たのだろう。「あれ、筑波山だよ」と南西を指さす。手前の難台山や吾国山の黒々とした5、600mの山並みの向こうに陽ざしを白っぽくなりかけた双耳峰がひと際目につく。北西の方を見ると、葉の落ちた木々の間から日光男体山が独特の姿を据え、その脇に女峰山が並ぶ。少し離れてまだ黒い山肌をみせているのは高原山・鶏頂山だろうか。
 
 稜線の方から女の人の声が響く。還暦世代の夫婦連れのようだが、私たちの登って来たルートを下るようだ。後から単独行者が、やはり同じルートを追っていた。駐車場に車を止めていた人たちなのだろう。鎖がなければ、ここを降るのはたいへんだ。だが鎖を使うと、案外楽勝かもしれないと思う。
 
 稜線に出る。11時27分。1時間10分で上っている。ほぼコースタイム。見事なものだ。お昼をここでとることにし、東屋に荷物を置いて山頂まで往復してくることにした。最近パリから帰って来たばかりのSさんは荷物を置いて行かない。「そんなことしたら、持ってかれてしまうよ」という。彼女の身の警報装置は欧米風になってきたようだ。
 
 5分ほどで山頂。そちらには二組、5人ほどの人がすでに場を占めている。一段高くなっている手前の祠に上がって、kwrさんが手を合わせる。見晴らしがいいというので私たちも上がる。先ほどの木々に邪魔されたのと違って、北の方も見える。高原山の右に那須連峰が雪をかぶっている。「じゃあ、その向こうに雪をかぶってるのは何だ?」とkwrさん。「たぶん、安達太良じゃないか」と応じ、ならば磐梯山も見えるかと思ったが、それらしい白い山頂は見定められない。手前の黒々と連なる山並みは、八溝山ではないか。一応山頂の表示まで上がり、先ほどの東屋に引き返してお昼にした。
 
 Sさんが庭に生った蜜柑をもってきてくれている。kwmさんが育てたレモンのはちみつ漬けをつくり、紙コップをもってきてkwrさんが入れてくれる。甘く、身体が温まる。彼女たちの間で、柚子は実をつけるのに何年かかるとか、ジャムにしたりはちみつ漬けにする方法など食事をしながらおしゃべりが止まらない。山のお昼と日差しと野菜や果実を育てるという話がマッチして、私の関心を持たなかった世界が展開している。そのなかに「のらぼう菜」という野菜の話しがでた。なんでも飯能あたりの野菜よ……と言葉がつづく。私の胸中には「のらぼう」という、どこかで聞いた言葉が印象に残る。帰宅して辞書を引くと「川魚をとって生活する漂泊民」を指す言葉から転じて、「礼儀作法を弁えないもの」「怠け者」「無宿者、浮浪者、乞食」を指す、茨城、栃木、群馬の方言ともある。ははあ、「のらぼう」は、今日寝過ごした私のことだと腑に落ちた。私は「のらぼう」になった。どうして? と医者にでも訊けば、即座に「高齢化です」といわれそうだ。
 
 12時5分に下山を開始する。ちょうど下山した男体神社の入口にあたる処にある舗装路のヘアピンカーブがすぐ下に見える。標高差は370mほどだが、直線距離だと500mくらい。直下にみえる。先へ目をやると、長福山をぐるりと巻いて、上小川の平地がみえ、町立中学校の赤い体育館の屋根が見てとれる。ストックを出す。稜線を10分ほど辿り、長福と月居山との分岐から、下降がはじまる。落ち葉が散り敷いてふかふかしているジグザグの道。「歩きやすいねえ。こりゃあ、良い道だ」と先頭のkwrさんの口も軽い。さかさかと降る。10月初めに来たときには、風台風24号の名残で大きな枝葉がたくさんついた倒木があって道を塞いでいたのが、取り払われている。小さな小枝なども除けられて、いかにも里山の気配が濃くなる。
 
 40分ほどで男体神社のある標高280m地点に降りる。上から見た舗装路のヘアピンカーブのところから振り返ると、男体山が威容を誇るようにそそりたつ。kwrさんはストックを仕舞っている。
「もう仕舞うの?」という。
「えっ、これを行くんじゃないの?」
「まだまだ、これからまたこの山の中腹を巻くんだからね」
 といって、歩きだす。すぐに「長福寺→」への踏路を上がる。民家の裏庭のような草地を踏んで、緩やかな斜面がつづく。その先に長福寺への石段がある。
 
 そこからの道はぐるりとトラバースするように山を巻く。車のわだちもあり、広い。ヤブツバキの花が地面に落ちている。見上げると西からの陽ざしを受けて、赤い色が輝く。20分ほどしたところから、町立中学校に向けて下る。これがまた、結構な山道。舗装路を辿るのと違って、ハイキング気分がいや増す。ここは大きな倒木が道を遮る。いくつもくぐって、快適に下る。25分ほどで民家や田圃の並ぶ中学校の東端にぶつかる。そこを左へ向かうと支援学校(養護学校)がある。若い教師と生徒が広い校庭の芝地に寝転んで話をしている。ちょうど私たちはその上から見下ろすようなところを通る。kwrさんが声をかける。返事が返ってくる。「いいところだ」とkwrさんが応答に感心している。道は暗い裏通りの抜け道のようなところに踏み込む。たまたま民家の方がいたから「駅へ行けますか」と問う。「ああ、道なりに行けば」と応えがもどってくる。ちょっと放棄地の藪のようなところを通過し国道に出た。
 
 「道なり」がわからず少し右往左往したが、駅にたどり着き、kwmさんの車に乗って登山口に向かう。相変わらず男体山は、陽気に屹立していた。「いい山だった」と皆さんが言ってくれて、「のらぼう」がホッとしていた。

できることしかできない

2018-12-18 08:44:55 | 日記
 
 今もまだ、団地管理組合の「高齢化問題」の出口を探っている。今朝方、夢うつつで思い浮かんだことがあった。団地住人の高齢化というのは、団地そのものの高齢化と同じではないか、と。

  自分たちの暮らしは自分たちでどうにかするしかない。団地の理事会というのは、われらが身の神経系統のようなもの。状態に応じて勝手に動く自律神経もあれば、自分の意思で動かせる体性神経もある。

 28年も経ってみると、理事会の運営もある程度ルーティンワークになって、これこれこうするものというのが「慣習」になっている。月一回の理事会とかその都度発行される「理事会ニュース」とか「議事録」をとることやクリーンデイや防災訓練のような年中行事など、「定番メニュー」。わが身の「心の習慣」というのと同じだ。これが安定していると、運動すれば心悸亢進したり血圧が上がったり、ものを食べたら消化器系が活発になるのと同じで、自律神経に属する。

 他方、大規模修繕とか、給水管・給湯管の更新工事のように、建物が高齢化すれば意思的に取り組まねばならないことがらもある。これが、専門的な知識を動員する必要もあり、そのときどきの市場ともかかわって、なかなか面倒になる。だがそれをわが団地は、修繕専門委員会とか環境小委員会を設け(住民の中の専門知識を持つ人の貢献を得て)、よく手入れを行ってきている。いわば、日ごろ身体に気遣い、食べ物にも運動にもそこそこ手当を施して、健康体を保ってきたと言っていい。
 
 ところが、住民の高齢化によって、理事が務まらない方が出来するようになった。おおむね10~9戸につき一人の理事を階段毎に出すようにしてやってきたが、居住しなくなる所有者がいたり、一時的な転勤や海外勤務などで理事を務められない人や、文字通り身体の自由が利かず、お役が務められない方が増えてきた。8年に1回とか7年に1回となって、「不公平だ」と思う方も出てくるようになった。どうしようかという問題を抱えているのである。
 
 だが1年任期を2年任期にしたら解決するかというと、そうではない。結局、業務の軽量化を考える以外にない。近頃は住宅管理に関するサービスが増えて、「業務サポート」を行う仕組みがある。それが月々6万円ほどとなると、すぐに1戸当たりを計算して、月500円ならまあ、高くないかとそちらの方へ気分は傾いている。これは高齢者が介護サービスを受けるようなものだ。

 中には、すっかり第三者機関に委託するということもできる。最近の超高層マンションは、ほぼそうなってきているようだ。何とかコンシェルジュというのが玄関口に陣取って、セキュリティチェックもしている。だが当然こうしたマンションの管理費は高くなる。その管理会社の従業員が管理費を使い込んだという事件も起こる。これは高齢者が養護老人ホームに入るようなことだと、私は思っている。
 
 では、わが身のこととして考えるとどうなのか。
 
 わが団地は、まだ若い。今年4月段階の世帯主は、80歳代…5人、70歳代…26人、60歳代…44人、50歳代…29人、49歳以下13人、不明・不在…10人となる。平均をとっても中央値をとっても、おおむね60歳代の半ばである。まだ、養護老人ホームに入る歳ではない。この28年の間に世代交代も進んでいるとみてよさそうだ。高齢化というよりもむしろ、現役の働き盛りの方が理事を務めるのが苦しいと感じているのかもしれない。そう、後期高齢者の私は推測している。
 
 これまでの管理組合のコンセプトは「自前管理」であった。もちろん修繕などの専門的なことは業者に委託するが、その発端の「提起」は、理事会とか修繕専門委員会が行ってきた。それがそれなりに適切であったこと(と建築段階の幸運)から、いまも専門家が「70年間は大丈夫」と建物の寿命を見る、健康体でいるわけである。だがそろそろ、補修などに手がかかる時期になる。だがそれらについては、修繕専門委員会という専門機関が機能していて、信頼の高い企画立案をしている。植栽の剪定なども、専門事業者を交えて、環境理事の補佐機関として環境小委員会を設置して、年に二度の剪定なども細かく決めてきている。つまり、高齢化に伴って難しくなっているのは、それほど多くない。
 
 自前管理をつづけることが重要なのは、委託先の都合で振り回されないことだ。国土交通省も介在して、業者が面倒を引き起こさないように(コンプライアンスだとかサ―ビス内容を、毎年、全組合員に説明せよとか)しているが、それは経費に跳ね返ってきている。いまの担当者は、優れていていいが、いつそれがひっくり返るかわからないという不確定性もある。28年間かけてルーティン化してきた「定型業務」を大切にする趣旨もある。そうしたとき、「高齢化に対処」するとしたら、「できることしかできない」と肚を括ることではないか。
 
  いまのご時世、高齢化は致し方のないこと。緩やかな世代交代をしながら持ち堪えていくことを考えたい。そのときの基本的な視点は、次の二点である。
 
 (1)できることしかできない。
 (2)できることをできるだけ(知恵と力を集めて)、精一杯やりましょう。
 
 「できることしかできない」というのは、今の輪番制の理事・役員体制をとっている限り、年によってはとても「消極的な」理事会が管理業務を担当することがあり、それはそれでしょうがないと認めることだ。いや単に「消極的」というのではなく、近ごろのパソコンを使った文書処理などができないということもあろう。身体の自由が利かずルーティンワークをするのに手助けが必要ということもあろう。こうした輪番によって生じる理事の個人的な事情がもたらす結果を、団地全体として承認することが必要だ。団地をよく知る住宅管理会社のある担当者は「1年任期ならばリスクが少ない」と表現した。リスクを1年という最小限にとどめる。
 
 「できることしかできない」のなら、これまでやってきたことをダウンサイジングする手もある。28年間の間に、理事会の業務が(ある部分では)たいへん綿密になってきていることに気づいた。「議事録」だ。理事会の議事録と修繕専門委員会の議事録の二通りあるが、いずれもが、会議におけるやりとりを記録している。しかもそれを次の理事会(修繕専門委員会)で綿密に用語検討をして、修正し、記録ファイルに綴じている。昔もそうだったという記憶がない。もっと簡単に、なにが決まったかを記録するだけではなかったか。

 つまり、業務を軽減する。具体的には最小限にとどめる。たとえば「議事録」。議題と決議されたことと、保留された事柄、今後に持ち越されたことに限定して、結論的にまとめるだけにする。いまのように取り交わされたやりとり、どのような異議が出たかにまで踏み込まない。ニュアンスを伝えるには至らないが、それはそれで肝にして要を得ているので良しとする。
 
 もちろん、「理事の個人的な事情」を団地全体で受け止める代替案もある。それが(2)だ。

 ひとつは、各階段から選出される理事を務められない方の分を、輪番年数は短くなるが、該当階段全員で引き受ける。それには、「個人の事情」を団地全体に広げず、階段内にとどめるという利点もある。階段の事情を「相見互い」と承知することは、コミュニティの基本だ。
 
 もう一つが自助システムをつくることだ。いわば団地全体の知恵と力を集めて、できることはやりましょうとする体制をつくる。28年経って、私も理事を務めるのは4回目。理事長は今回だけだが、理事長を務めることではじめて、団地の管理がどのように動いているかを意識するようになった。どなたかのことばではないが、「人は切羽詰まらないと考えない」代表のような(お恥ずかしい)感覚だ。それは裏を返すと、理事長を務めた方々は、何がしかの意味で、団地の全体を受け止める感覚を味わっている。その人たちが高齢になっていることは認めるが、28年間の理事長のうち元気で動ける人たちだけでも、自助システムとしての「ワン・ポイント・リリーフ」ならばできなくはないだろうと、考えている。
 
 今朝方の思案は、わが身への見切り、わが団地への見切りである。できないことはできないと(関係する皆さんに)表明することでもある。これは、これまでの人生をどう過ごしてきたかによる。ひとによっては、とても難しいことかもしれない。でもそれを包み込むくらいの「かんけい」を築かなくては、共同的な暮らしを営む団地とは言えまいと思う。

正義の産業スパイ?

2018-12-17 20:18:23 | 日記
 
 吉田修一『ウォーターゲーム』(幻冬舎、2018年)を読む。吉田の連作ともいえる作品のひとつ。つい最近国会で成立した水道事業の民間参入を許容する法の成立と裏側の事情を、利権に絡む政界の動きを交えて描いている。だが今回の作品は、前作に比べて分かりやすい。産業スパイの動きも、右往左往しているだけで、それで何か事態が大きく変わったりするから、世相を切りとるような迫力が、蒸発してしまっている。ただ単に、利害入り組む産業スパイのまさに「ゲーム」を描いているような、つまらなさ。冒頭の出来事が引き起こす緊張感がどこかへ消えて、いつしか観衆になっている読み飛ばしている自分を感じた。
 
 吉田修一は、ちょっと気軽に手掛けてしまったっていう感じか。でもまあ、これが売れるんでしょうね。
 
 読後感とは別に、しかし、水道事業の民営化って、本当に大丈夫なのか。そちらの方が、気にかかる。吉田修一もそれを気にかけてこの作品の素材をそこに絞ったと思うのだが、切り込んでいないのは、残念。でも南米などの水道事業御影化をめぐる暴動は耳にしたことがあるし、そう言えば、雫石町でも、人口が減って水道事業者が成り立たなくなり、大幅な値上げを住民に突き付けて多いな騒ぎになっていると、最近のニュースで知った。
 
 水は、暮らしに不可欠のインフラ。民間に移行して後に、値上げを突き付けられると、他の水道に切り替えるってわけにいかないから、たちまち行き詰ってしまう。インフラは公共事業として行うという原則が貫けなくなっている。民間への移行がすなわち自由競争になるという構図は、机上の空論。水道事業でそれをやると、たちまち地域独占企業の誕生につながる。資本の論理が公共圏をも食い尽くそうとしていることを、政治家たちはどこまで真剣に考えてくれているのだろうか。
 
 まるで他人事のように「ゲーム」として読んでいるが、吉田修一にすれば、警世の一作と思っているのかもしれない。それが「正義の産業スパイ」という印象を強めたのかもしれない。そう思った。

信頼感の源

2018-12-16 16:47:55 | 日記
 
 団地の管理組合が施設設備の保守管理を取り仕切る義務を負っていることは、良く知られている。理事長は、法的な責任を一身に背負わされているわけだが、建築などの素人である私に務まるとは思えない。いや、例の桜田大臣の話をしようというのではない。この責任を背負う役が務まるのは、理事会の諮問機関として修繕等に関する専門委員会が設置されて機能しているからにほかならない。むろん理事会に建築理事というのが2名置かれて、専門委員会をコントロールしている。この理事・役員が選出階段毎の輪番で毎年交代するから、ときにはずぶの素人が建築理事になって、青息吐息の一年を過ごさねばならないこともある。今年はふたりとも、ずいぶんしっかりした理事が就任したから、安心して見ていられる。むろん正副理事長は、毎回の専門委員会に出席する。
 
 今日の議題の一つに、ある号棟の3階に移転してきた方からの「要望」が検討された。この団地にかかわるケーブルテレビのインターネットサービスを受けたいという。「……?」、ところが、リビングではインターネットの信号を受信できないというのだ。いやじつは、もうふた月以上前に「問い合わせ」があり、そのケーブルテレビに知らせたところ、該当顧客の部屋の受信状況をチェックに入った。すると、和室や洋室は十分受信可能なのだが、リビングの信号受信が大きく減衰していることが分かった。そのケーブル局は、5階から一1階へ向けて流している同軸ケーブルに問題がある、この同軸ケーブルは団地の管理組合の所有物であるから、それを修理してほしいと結論的な要請が出された。5階から1階へ向けて流れ各階で分岐して部屋へとつながれているらしい。
 
 専門委員会は、もしそうなら(築後28年経っていることもあるから)同軸ケーブルの交換もやむをえまいと、意見がまとまっていた。だが結論を出す前に、当の一つ階下の部屋の方にお願いして「受信状況調査」をしてもらおうとケーブル局に調査を依頼し、ケーブル局も快くそれを受けて実施した。その結果が今日、発表されたのだが、当初の予想に反し、階下の部屋の方はまったく問題なく減衰しておらず、受信可能であることが分かった。調査したケーブル局は、同軸ケーブルに問題があるとした最初の見立てを修正し、3階の居宅がリフォームをしたときに、リビングに引き込まれたケーブルを傷つけたのではないかと「推察する」と結論的な報告を送ってきた。
 
 その旨を3階の方に伝えると、傷つけたかどうかはわからないがリフォームしたと言っていたこと、リビングの受信状況が良くないと先住の売り主にいわれていたと分かり、同軸ケーブルの修繕はしなくてもよくなった。
 
 この経緯をみていて、こういうところがきちんと組合員に伝えられていると、専門委員会への信頼度は、ぐ~んと上がると、私は思った。
 
 専門的なことはわからないから、私はもちろん口を挟まない。だが、委員たちの間のこれに関するやりとりは、技術的なこと、法的なこと、ケーブルテレビとの「契約」時における「情況認識」を示す「調査数値」のことなど、一つひとつ丹念にたどって、それを検証する「調査」を依頼して結論を出すという手順は、聞いているだけで、はっきりわかる。きっちりと「検証」しているのだ。ただそういう活動をしていると、広報しない。組合員は、昨年までの私同様、知らないから信じるも信じないもない。ただお任せしているというだけに過ぎない。
 
 今日は、そうであったことを申し訳なく思い、この専門委員会のありようを、もう少し広報する手立てはないものかと思いながら、聞いていたのでした。