mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ない袖は振れない

2024-09-29 08:54:01 | 日記
 離島への旅から帰ってきました。昨夜、日付が変わる前に家に着き、ホッとするというより、すっかり草臥れていました。そろそろこういう旅もリミットに近づいているのかもしれません。それについては、また後に書こうと思っています。
 忘れないうちに、今朝目が覚める前に見ていた夢のことを記しておきます。いや、起きてから2時間半というのに、もう、おぼろになっています。
 学生なのでしょうか。それとも何かのワークショップでしょうか。私はその中の一員。何か重大な「発見」をして定式化するのですが、それは「(ワタシは)ない」という「定理」のようなことです。ところが、それが周りの人たちからさまざまな非難・批判を受けます。でも私の確信は揺るぎません。
 精確には、「ワタシが」「ない」なのか、もう少し違う「セカイが」「ない」なのか、「実在が」「ない」なのか、その核心部分辺りの記憶がおぼろになってしまっているのです。しかし、夢を見ているときのそれは、間違いなく存在の根幹に関わる「何かが」「ない」という大定理なのでした。「それが」「ない」から存在するというアクロバティックな展開をしています。
 非難・批判を受け、しかし、自信たっぷりに遣り取りをします。デカルトも登場し、「我思う故に我あり」も「ない」のかと思案し、証拠実証主義批判をして、「ない袖は振れない」と返してもいます。
 ぼんやりと目覚めて思うのは、セカイはカンケイばかりで出来上がっていて、実体的には「なにもない」という観念論哲学のスタート地点のセンスのようにも思えますが、それとは違っている感触が、シカとあります。外の実在は「カンケイない」とみている風情ですかね。
「空」とか「無」というと、ちょっと違ってしまう。でもそれに近い、人の実在を核にした空無の感覚。「虚空」「虚数」があることによってカンケイが紡がれ実在が浮かび上がるというような、不思議な世界観がワタシの裡側に出来上がっていました。
 ヒトが存在することによってセカイが紡がれ、浮遊するヒトを軸の原点にして世界の座標軸が定まり、というと、ヒトの数だけ座標軸のあるセカイが錯綜乱立し、うん、そういえばそうだねえ、今のセカイは、と腑に落ちるような世界観の大定理。
 なんでしょうねえ。ワタシの願望なんでしょうか。予兆なんでしょうか。それとも、先月水晶岳を歩いて後に見た夢のように、身体の動きが巻き起こしたワタシの脳作業の一欠片が、垣間見えたのでしょうか。不思議と、オモシロサを感じて、忘れまいと記しおく次第。
 でもね、ない袖は振れないと、オチまでつけてあって、寝ているときに落語会でもやっているみたい。だれであったか、寝ているときの方がヒトの本体であって、起きているときは実在の根拠を支えるエネルギーの生成補填作業。実務作業。寝ているときの夢こそ、生きている証しという所論もあったなあ。それかもしれないと気に留めました。

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