mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

AIのふるさとって、何だろうね

2024-05-16 09:15:45 | 日記
 昨日(5/15)、36会の集まりがあった。seminarを昨年5月を最後に閉じたので、それ以降は、岡山の高校の同期生、関東組の会になった。しかも、seminarの後を引き受けた「同期生の十字路」のマンちゃんが、再生第一回を開く前に亡くなったために、世話役も開催間隔も変更になり、持ち回りで3ヶ月ごとに行われていた。私は、本の出版やペースメーカー手術などがぶつかり、一度も顔を出していなかった。今回は、seminarでは一度もレポートを担当したことのないツナシマさんが「岡山から東京へ」と題して、人生を振り返ってみるお話をすると「予告」があったので、出席の返事をして開催当日を迎えた。9ヶ月ぶりだ。
 定刻少し前に顔を出してみると、2/3くらいが来ていて、受付をして会費を集め、座席を決めている。世話役をしていた方がやってきて、この間のことを聞かせてくれる。ツナシマさんも、モニターの準備を済ませている。ちょっと、緊張しているようだ。
 やがて予定の全員が揃いはじまった。冒頭で、還暦になってから習い始めたフミノさんがバイオリンの演奏を披露した。いまも老人ホームなどの慰問を続けているようだ。美空ひばりの演歌や笠木しずこのブギウギを演奏して、女性陣は声を上げて歌っている。こういう声が出るのも、八十路としては上出来ではないか。
 ツナシマさんの話は「岡山から東京へ」とあったから、私は大学へ進学して後に受けた、田舎と東京の文化的落差とそのカルチャーショックが、彼の場合どうであったかに関心をもっていた。
 話は「ふるさと」とは何かを探る入口から入った。唱歌「ふるさと」の詩句を引用する。だが、そこに彼自身の心情は入り込まない。「なつかしさ」でも込められていれば、それは共有できるか、またそれはなぜかと展開したであろう。だが、その心情部分をきっぱりと振り捨てているのか、「ふるさと」の概念をいじくり回しても、なんで「ふるさと」を取り上げるのかがハッキリしない。あれこれと言葉を重ねても、話が何処へ向かっているのかわからなくなる。
 後でわかるが、彼自身の無意識は自身の心情を算入することを良くないとするセンスに満たされていたのかも知れない。というのも、最後の方で彼は、「ふるさと」というのをAIに尋ねてみたら、ものの見事に彼の「まとめた」ものと一致したとうれしそうに話していたからだ。そうか、彼にとって「真理」というか、的を射たことというのは、人の感性を通過させない客観的なコトなのだ。そう思った。
 彼が岡山から出て東京へ来たことのカルチャーショックについては、ついに言葉にならなかった。それもそうだと、私は得心した。彼の育った家庭は、父親が私の父より5年ほど早い明治40年頃の生まれ。それでいて東京の大学を出て英語の教師を務めていたというから、商業学校出の私の父親とは違う。母親も京都の女学校を出ているとあって、これも小学校卒の私の母親とも異なる。そもそも初めから文化的には最先端を歩んでいたようであった。
 ただ、大正デモクラシーというか、あの時代の新しいものに挑む空気を吸って大人になった父や母。同時に、大正昭和を通じて農村の解体が進んでいたから、産業社会の変容に適応できるようにと、子どもの教育に関しては熱心であったというのが共通点になろうか。
 彼自身も、子どもの頃からアコーディオンに親しみ、ラジオの組み立てや無線通信に好奇心を示し、小学生のときに未来のテレビをイメージする作文を書いて、メディアの中国ブロック2名に選ばれて2週間の東京合宿に招待されたという。カルチャーショックというよりも、田舎の学校においては際だった文化少年であったわけだ。
 その初心を貫いて理系の大学に学び、電気関係の大手企業に就職して、謂わば日本の高度経済成長とその後の世界最先端の高度消費社会へと突き進んだ、担い手になった。順風満帆の人生と言って良いであろう。いまも、科学研究論文の「要約」を請け負ってやっている。
 そのことについて、いつであったか、「主観をそぎ取って客観的事柄だけを拾う作業をしていて、人ってそれでいいのだろうかと思う」と、ぽつりとこぼしていたのを私は良く覚えている。ちょうど私たち世代が共通して抱いている客観的真理を疑う言葉に共感を覚えたことがある。そうだ、そうだよ、そこから「我思う、故にわれあり」に到達するのが、私の人生であったと思ったのだが、「ふるさとは遠くにありて想うもの」という常套句に「まとめ」上げられては、「われ」の心情に入る入口も開けられないままになる。そんなことを慨嘆した。

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