本を読んでいたら、源実朝の一首が引かれていた。
世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも
ああ、知ってると、わが身の裡が反応はしているが、百人一首のなかにあるのを知っているだけ。それが実朝の詠んだ歌とも知らないし、その意味もまったくわからないまま。知らないこともわからないことも、気にもしていなかった。
正月に兄弟で百人一首を取り合ったことは良く覚えている。上二人の兄には、いつもとうてい敵わない。一つか二つ覚えているうちの、上の句に「世の中」とあるのに、これがあった。でも「世の中に・・・」とはじめると「春のこころは・・・」になる「世の中よ・・・」とくると「山の奥にも・・・」とつづく。これをときどき間違えてお手つきした。悔しかったが、私が小学生を終わる頃には兄たちは、もう遊んではくれなかったから、それっきりとなり、そういうことがあったことも忘れていた。
読んでいた本とは、永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社、2021年)。小説かと思って図書館に予約して借り出したら、哲学者のエッセイだった。でも、小説のように読める。そのなかの「信じる」という項に、この歌があった。
この歌を実朝のモノローグとみて、心中に思いを致し「こんな詳しい訳が載っていた」と紹介する。
世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも
ああ、知ってると、わが身の裡が反応はしているが、百人一首のなかにあるのを知っているだけ。それが実朝の詠んだ歌とも知らないし、その意味もまったくわからないまま。知らないこともわからないことも、気にもしていなかった。
正月に兄弟で百人一首を取り合ったことは良く覚えている。上二人の兄には、いつもとうてい敵わない。一つか二つ覚えているうちの、上の句に「世の中」とあるのに、これがあった。でも「世の中に・・・」とはじめると「春のこころは・・・」になる「世の中よ・・・」とくると「山の奥にも・・・」とつづく。これをときどき間違えてお手つきした。悔しかったが、私が小学生を終わる頃には兄たちは、もう遊んではくれなかったから、それっきりとなり、そういうことがあったことも忘れていた。
読んでいた本とは、永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社、2021年)。小説かと思って図書館に予約して借り出したら、哲学者のエッセイだった。でも、小説のように読める。そのなかの「信じる」という項に、この歌があった。
この歌を実朝のモノローグとみて、心中に思いを致し「こんな詳しい訳が載っていた」と紹介する。
《この世の中が、永遠で変わらないものであればいいなあ。波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟のへさきにつけた引き綱を引いている様子は、しみじみと心引かれることだなあ》
へえ、そういう歌だったんだと、八十爺がはじめて出遭ったかのように感心する。
「がもな」と思っていたのが、「もがもな」だとわかったのもはじめてなら、「綱手」をながく「綱で」と思い、あまの(海に浮かぶ)小舟の綱をもって「かなしんでいる」くらいに感じていた。ははは、いやはや、お粗末。
永井玲衣は《だから小学生のときは、あまりこの和歌の良さがわからなかった。何で永遠と綱手が関係あるの? と思っていた》と記すから、ずいぶん聡い子どもだったんだ。彼女はこうつづける。
「がもな」と思っていたのが、「もがもな」だとわかったのもはじめてなら、「綱手」をながく「綱で」と思い、あまの(海に浮かぶ)小舟の綱をもって「かなしんでいる」くらいに感じていた。ははは、いやはや、お粗末。
永井玲衣は《だから小学生のときは、あまりこの和歌の良さがわからなかった。何で永遠と綱手が関係あるの? と思っていた》と記すから、ずいぶん聡い子どもだったんだ。彼女はこうつづける。
《この歌が好きになったのは、ある雑誌で小池昌代が詩の中でこんな風に訳していたからだ。「おれが信じられるのは/あの綱手だけだ」/ああさみしいなあ》
実朝の生きていた姿を綱手に重ねて「信じる」ことの他愛なさと受けとり、「さみしいなあ」と感懐を、一度は記す。
そこにさらに伊藤桂一の「微風」という詩を介在させる。
掌に受ける
早春の
陽ざしほどの生きがいでも
人は生きられる
素朴な
微風のように
私は生きたいと願う
あなたを失う日がきたとしても
誰をうらみもすまい
微風となって渡ってゆける樹木の岸を
さよなら
さよなら
と こっそり泣いて行くだけ
そして、こう反転する。
《むしろ実朝は「綱手」ほどの生きがいでも自分はいきられるんだ、って素朴に思ったんじゃないか》
この方は、やはりエッセイストだ。それでいてテツガク者。それでいて、やはりこれはちょっとした短編小説だ。そういう思いが、ワタシの胸中にめぐる。テツガクするって文学なんだ。胸中を書きつけること、それがテツガクすることなんだ。哲学学は専門家に任せて、門前の小僧でよかったなあ、オレ。