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■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ 早春を楽しむ・・・ 小沢不況から、憲法創造的・政党破壊へ 

2009年03月05日 21時42分40秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 早春の 日は楽しげに 梅の花 


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

  箱崎宮の一角に、早春が戯れているかのように、紅梅が咲

き栄えていた。

 早春とは、梅の花である。

 寒くとも咲き栄え、雪が降っても紅く咲いている。

 

 人生にも早春があり、国にも早春がある。

 その早春に、香りたって咲いてこそ、人生はたのしかろう。

 国家の早春に香りたって咲いた魂こそは、国の誇りである。

 

 未熟であればこそ、試練があるであろう。

 試練のときに香り立ってこそ、誇らしく生きることができるであ

ろう。

 試練のときにこそ、早春の花を咲かせたいものである。

 

 生涯早春、それもまた、楽しからずや。

 

 

 

 

 

小沢不況から憲法創造的政党破壊へ


 政治がマスコミや官僚の攻撃にさらされている。

 その攻撃に乗じて政府与党を叩いてきた民主党小沢が、政治

資金不正で側近逮捕というピンチに立たされた。

 これがもし、自民党幹部、あるいは麻生総理であったならばど

うだろうか。

 引き摺り下ろされるだけでは済まないことであろう。

 これに対して、社民党は問題ないと公言し、共産党も控えめで

ある。

 漢字を間違えただけで、給付金を受ける、受けないといっただ

けで引き摺り下ろされようとしている麻生総理への扱いとは、ず

いぶん違っていることよと、あきれてしまう。

 

 民主党というのが、社会主義政党であることを示していることを

見逃してはなるまい。

 小沢民主党の財源は、ロックフェラー財閥にも依存していること

が知られてもいる。

 政権をとるためなら、手段を選ばない小沢民主党の危険性がそ

こにある。

 

 

 禍転じて福となすためには、政党再編、憲法の法律化、憲法

改正、日本独立体制の確立、日露印三国同盟、日台通商等のア

ジア新体制確立を急がなければなるまい。

 

 自民党と、民主党の同時崩壊は、手筋というべきであろう。

 
              
                              梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 老いたる人も・・・ 義務教育の空洞化  兵役教育の必要  憲法改正条項無効宣言を!

2009年03月03日 16時15分16秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 


 

 老いたるも  早春といい  梅の花

    

    馬糞 Bafun

 

 

  

 

 

 今日は、新暦の桃の節句。

 しかし、新暦だから本物ではない。

 今は、梅の花を惜しむ、風の季節である。

 早春の梅が散ってゆく。

 

 メインPCがデフォルトした。

 原因は分からないが、HDを交換しても動かない。

 メモリーを換装してもだめなら、ゴミになる。

 なんとも、原始的な最先端であることか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【空洞化する義務教育・・・ 兵役教育制度を定めよ


 義務教育を中学とすることには、問題がある。

 義務教育を終えるということは、社会に出て、仕事をするこという

ことであるが、15,6歳の少年を社会人として受け入れられるのか。

 しかも、授業にほとんど出ていなくとも、あるいは、学校から登校拒

否されたままで、ほとんど中等教育を受けられないままに卒業させ

られている子供も少なくはない。

 

 少なくとも、そうしたことが放置されているということも問題である。

 いかに、公立中学校がいい加減な仕事をしているかということでも

ある。

 

 子供の教育を受ける権利ということが、現代ほど軽視されている時

代もないであろう。

 高等学校もまた、果たしてそれが、高等教育なのか、その実態

には、さまざまな空洞化と無秩序が推定される。

 それが、内部の「闘争」として語られることはあっても、およそ教育

現場にあるまじき反乱というべき事態に法のメスが入ることがなかっ

た、ということが不可解かつ許しがたいことである。

 

 ともかく、公務員教職制度の廃止は急がなければならない。

 教職腐敗、教育腐敗、国家腐敗の温床だからである。

 

 

 

 

 

 

 現代の日本人が、世界から尊敬されるとはとても思えない。

 わがままで、勉強もろくにせず、社会人としての考え方もマナーも

身につかず、就職しても、6割が3年と続かないというのであるから。

 

 現代の教育としては、やはり、20歳までは教育が必要である。

 受験勉強的な勉強に適しないなら、スポーツに重点を置いても

よい。

 愛国心を教育するためにも、高等学校で兵役教育を課すべきで

ある。

 それでこそ、義務教育を終えたというべきであろう。

 

 兵役教育の内容は、国家奉仕のための労働と教育である。

 そのための国民学校としての役割を、自衛隊が持つべきである。

 あるいは、自衛隊学校教育隊を編成して、義務教育学校を監守さ

せるべきである。

 

 

 

 

 

 

 

憲法改正条項無効宣言の革命を期待する

 

 もっとも、そうしたことを提言しても、まともに扱われはしないほど

に、日本の独立性は失われている。

 表現の自由だといいながら、チャイナ関連の報道は北京政府の許

可、ないし、顔色を伺ってやっている。

 にもかかわらず、表現の自由の問題ではないらしいのだ。

 日本が、独立国家でも、民主国家でもないということである。

 

 そうであるならば、やはり、革命しかないであろう。

 憲法無効宣言、ないしは、憲法改正条項無効宣言、それが、革

命の目的である。

 

 改正条項こそが、憲法の中枢であるなどというのが、憲法学者

の定説なのであろうか。

 自縄自縛の憲法がなぜ、憲法の本質だとうのか。

 憲法を、法律と同様の手続きで改正することに、何の問題もない

であろう。

 

 そのようにして、国家イノベーション体制を早急に構築しなけれ

ば、日本は、15年ともたず、敗戦のままに滅亡することになるであ

ろう。

 

 憲法改正手続き無効宣言、これを実現したいものである。

 
                          梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ せせらぎの梅・・・ 人事を尽くして天命を待つ  限界とは何か 神頼みとは何か

2009年03月01日 08時01分01秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 


 

 白梅の 花の雫は せせらぎて   

 
   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 どこかにありそうな一句であるが、今日から、春三月。

 白梅が、雪解け水のせせらぎのように散り始めた。

 早春の凛とした冷たさが融けてゆく。

 

 台湾の風に吹かれている間に、祖国の白梅は、早、早

春の花を解いていたとは・・・。

 

 そのように、凍り付いていたものたちが純粋のままに融

けて、せせらぎ水のようにさらさらと流れてゆけばよいの

だが。

 

 

 

 

 

 

 

鬱の時代に問われていること】  

 激動の時代は、危機の時代である。

 人も、国家も、ストレスと鬱の危険に直面している。

 

 危機の時代に問われている最大のことは、独立の気概

ではないだろうか。

 独立という言葉に込められているものは、リスクと覚悟

というべきものかもしれない。

 人には人生観が問われ、国にはその理想が問われる。

 

 人間の未熟を考えると、存在の意義は、志とその努力

に問われるべきであろう。

 結果は、人事を尽くすことで正対することができる。

 潔く、天命を受けることができる。

 

 かつてないほどの競争社会となり、ストレス社会となっ

ている。

 その結果として、子供から年寄りまで、鬱というっとうし

い気分が影を落としてもいる。

 

 鬱というのが、抜け出しがたい気分なのか、病気なのか、

未経験の自分には分からないが、重たい石を抱えている

状態なのであろう。

 つかんでいるものを手放せば楽になるのだろうが、理

屈ではないのかもしれない。

 

 鬱の水面下には、過大な結果責任というべきものが沈

んでいるのであろう。

 しかし、天命であると思えば、結果がいかにあれ、潔く

受けることができるのではないか。

 

 結果とは、恩のある他人の立場がかかっている。

 それが、責任の重さであろう。

 しかし、それを含めて、人事を尽くすところに天命は公

平に下されるという信仰があれば、潔い責任があるので

はないか。

 

 責任とは、謝罪とその後の回復責任である。

 これに対して、許しというものがある。

 それが、人間関係として生きているということである。

 

 

 

 

 

人事を尽くしたといえる限界の所在について

 では、どこに、人事を尽くしたといえる限界があるのだろ

うか。

 

 どこが限界か、どこが人事の尽きるところか、そこに試

練の苦しさがある。

 もう限界だと思っても、それは思いである。

 そこに、自分との戦いがある。

 しかし、どこかで決着をつけなければ参ってしまう。

 

 スポーツに試合時間があるように、限界は、期限として

定めておくべきではないか。

 だらだらとした限界が鬱に変異するのではないだろうか。

 だから、時間を決めなければならない。

 

 自ら決めた時間もあるであろう。

 ルールとして決められた時間もあるであろう。

 その決められた時間の中で人事を尽くす潔さが必要な

のだ。

 

 

 

 

 

神頼みという最後の努力について

 その最後の誠意と情熱として、本当の「神頼み」がある。

 

 「祈る」という手段について語ったところ、ある学生から

反発があった。

 「祈ってどうにかなるんですか。」

 

 祈りとは、ご利益宗教のような商品効果ないし取引き

ではない。

 「主よ、御心にかなうならば、どうか、私の願いをお聞き

届けください。しかし、どのような結果であろうとも、御心

お受けいたします。」

 

 これが、キリスト教的な祈りである。

 仏への祈りも同様であろう。

 

 「天意にかなうならば、わが願いがかないますように。」

という謙虚と潔さをもって、祈るのである。

 

 結果は、その願いの正しさと、努力に応じてもたらされる

ということを信じられるということが、信仰でもある。

 

 鬱ではなく、限界を追いかける努力を尽くして祈り、天命

を待つ、そうした、潔い信仰心を広げたいものである。

 

                          梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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