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+ 旅立ちの花の下・・・ 失われた日本史  親ばか社会主義を反省せよ  

2009年03月22日 15時02分12秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 


  旅立ちし 後の桜の 花の下

 

     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 桜の花が咲くころには、進学、就職の門出と別れの季節でもある。

 ちゃんと親離れ、子離れして、へその緒を切らなければならない。

 

 それにしても、今年の春は暖かい。

 田植えの季節でもあるかのような雨が、芽をふきだしたばかりの

葡萄の若芽に雫している。

 

 以前は、花の季節に雪が降ることもめずらしくはなかった。

 京都の雪、狭山湖の雪・・・ 花と雪との光景がよみがえる。

 

 願わくは 花の下にて 春死なむ 

 その如月の 望月のころ

 

 今月11日が、如月の望月であった。 

 西行法師の歌は、花が咲くたびに思い出す名句である。

  このような歌は、ひな祭りにお雛様を取り出して祝うように、毎年

引き出して祝う歌であることよ。

 

 そのように、夏といえば、持統天皇の歌である。

 

 春過ぎて 夏来るらし白妙の 

 衣干したり 天の香具山

 

 

 ちなみに梅のころといえば、王仁博士wanihakase 大鷦鷯

oosazakinomikoto 、奈良大和朝廷の第五代の天皇、後の仁徳天皇

の皇位継承を予言したとされる歌が思い出される。

 

 ちなみに、奈良大和朝廷の初代は、日本武尊の弟、成務天皇であ

り、二代目は、日本武尊の子、仲哀天皇、三代目は、三韓征伐で知

られる神功皇后、四代目は神功皇后が宇美八幡で産んだとされる、

宇美町生まれの応神天皇、そして、五代目が、名君と誉れ高い、仁

徳天皇である。

 

 http://www5e.biglobe.ne.jp/~tennou/ten-7.html

 

 

 

 ところが、こうした日本史の根っこにあたる英雄たちが、「日本史」

からは抹殺されている。

 韓国政府に遠慮してのことらしい。

 

 そのいきさつは、渡部昇一著『日本史の真髄・古代・貴族社会篇』

に詳しい。

 

 

 難波津に 咲くやこの花 冬こもり 

 今を春べと 咲くやこの花

 

 さて、このような花が、今の日本に咲いているのであろうか・・・。

 

 

 

  

 

 

 

親ばか社会主義を反省せよ


 精神的未熟児ないし、障害児というべき子供が増えているように

思う。

 その背景には、学校のいじめ犯罪か、家庭障害がある。

 ヒステリックな親、過保護な親、いいなりに金だけを出す親、家庭

崩壊の親・・・。

 国が戦争をしなければ、学校の中や家庭で戦争をするのだろうか。

 

 親は、自分たち以上に子供に期待すべきではない。

 子供は、親の身代わりではない。

 子供は子供の人生を生きてゆく。

 親は、子供に新しい未来を託して死ねるのだ。

 それだけでも幸せなことである。

 

 親の援助が、努力に関わりない社会主義的支給になってはなら

ない。

 親子平等主義で、「子供のやりたいように」というのでは、親として

のアドバイスにはならない。

 子供は迷ってしまうだろう。

 

 また、投資条件として、努力を求めなければ、成長は望めない。

 神と人との間にも契約があるように、親子の契約は大切である。

 経済が成り立たなければ、長続きはしないものである。

 

 親は、所定の年限、子供の教育のために出資をする。

 しかし、子供はその出資に対して卒業責任を負わなければなら

ない。

 親は、投資の収支が壊れないように、投資年限を切って、一定の

成果もまた求めるべきである。

 

 しかし、出資者が、うるさく指示をだしてもならない。

 自由がなければ、修行は進まないからである。

 

 

 

 

 

 

 

 子供にやる気がなくて、学校にも行かないというなら、放り出して

自立させるべきである。

 家を出てもらい、自活させるべきである。

 

 その結果、フリーター生活でも仕方がないではないか。

 その代わりに、子供に老後を見てもらうという期待も失われる。

 親は、その覚悟を持てばよいだけの話である。

 

 チャレンジしないことによる失敗からも学ぶ必要がある。

 チャレンジしないことが失敗かどうかは、節目節目に問わなければ

わからない。

 就職か進学かを問わなければならない。

 進学には、学ぼうという意欲と責任が必要である。

 それがなければ、義務として就労しなければならない。

 これがルールである。

 

 家庭に問題があって、子供の精神的健康が失われている場合は、

その原因から隔離することが療養となるであろう。

 そのためには、親がそのことを自覚しなければならない。

 家を出て、学校に行くなり、就職するなりできるよう、自立独立の

環境を整えるべきであろう。

 

 親とろくに話さず、暗く引きこもって、学校もサボるようであるなら

ば、やはり、そうした家庭環境から自立させるべきなのである。

 そうした事実を受け止めて、家庭から出すべきなのだ。

 

 ところが、それもできない「やさしい」親が共倒れの選択をし続けて

いる。

 20歳を過ぎたら、刑事責任も負う立場になる。

 そのときから、家を追い出すべきである。

 そうした者たちのために、工場労働、職人の下働きなどは有効であ

ろう。

 そうした者たちが、犯罪者とならないように、社会人教育を受けさ

せて自立させる就職支援学校が、最後のよりどころとなるのではな

いか。

 好きなことをやるための学校ではない。

 自立するための社会基礎力を訓練するための学校である。

 

 

 

 

 

 

 子供を守る時期には徹底して守ってほしい。

 無法地帯となっている学校から子供を守るのは、親であり、警察で

ある。

 警察もそのことを自覚するべきである。

 学校警察隊を編成してはいかがか。

 

 

 親は、子供に対する物資供給の義務があるのではない。

 子供は親に資金提供させる権利があるのではない。

 親は、愛情によって、子供を育てるのである。

 子供は、親のおかげで教育してもらい、自立を支援してもらってい

る。

 感謝しなければならない。

 

 教職員は、公務員の身分を剥奪されなければならない。

 それ以外に、学校教育の建て直しはできないだろう。

 公務員社会主義では、仕事ができなくても、悪い仕事をしても、解

雇されることがないからである。

 すなわち、イノベーションとは無縁である。

 

 教育は、教職免許でするものではない。

 教職免許という発想も、官僚社会主義の発想であろう。

 イノベーションがなく、時代遅れの官僚支配による規制に他ならな

いからである。

 ところが逆に規制を強化しようとしている。

 愚かなことである。

 

 自助努力して、いつでもリベンジできる開かれた競争社会にしてゆ

かなければならない。

 

 自助努力とは修行である。

 競争とは、向上する楽しみである。

 

                                 梅士 Baishi   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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