白梅の 花の雫は せせらぎて
馬糞 Bafun
どこかにありそうな一句であるが、今日から、春三月。
白梅が、雪解け水のせせらぎのように散り始めた。
早春の凛とした冷たさが融けてゆく。
台湾の風に吹かれている間に、祖国の白梅は、早、早
春の花を解いていたとは・・・。
そのように、凍り付いていたものたちが純粋のままに融
けて、せせらぎ水のようにさらさらと流れてゆけばよいの
だが。
【鬱の時代に問われていること】
激動の時代は、危機の時代である。
人も、国家も、ストレスと鬱の危険に直面している。
危機の時代に問われている最大のことは、独立の気概
ではないだろうか。
独立という言葉に込められているものは、リスクと覚悟
というべきものかもしれない。
人には人生観が問われ、国にはその理想が問われる。
人間の未熟を考えると、存在の意義は、志とその努力
に問われるべきであろう。
結果は、人事を尽くすことで正対することができる。
潔く、天命を受けることができる。
かつてないほどの競争社会となり、ストレス社会となっ
ている。
その結果として、子供から年寄りまで、鬱というっとうし
い気分が影を落としてもいる。
鬱というのが、抜け出しがたい気分なのか、病気なのか、
未経験の自分には分からないが、重たい石を抱えている
状態なのであろう。
つかんでいるものを手放せば楽になるのだろうが、理
屈ではないのかもしれない。
鬱の水面下には、過大な結果責任というべきものが沈
んでいるのであろう。
しかし、天命であると思えば、結果がいかにあれ、潔く
受けることができるのではないか。
結果とは、恩のある他人の立場がかかっている。
それが、責任の重さであろう。
しかし、それを含めて、人事を尽くすところに天命は公
平に下されるという信仰があれば、潔い責任があるので
はないか。
責任とは、謝罪とその後の回復責任である。
これに対して、許しというものがある。
それが、人間関係として生きているということである。
【人事を尽くしたといえる限界の所在について】
では、どこに、人事を尽くしたといえる限界があるのだろ
うか。
どこが限界か、どこが人事の尽きるところか、そこに試
練の苦しさがある。
もう限界だと思っても、それは思いである。
そこに、自分との戦いがある。
しかし、どこかで決着をつけなければ参ってしまう。
スポーツに試合時間があるように、限界は、期限として
定めておくべきではないか。
だらだらとした限界が鬱に変異するのではないだろうか。
だから、時間を決めなければならない。
自ら決めた時間もあるであろう。
ルールとして決められた時間もあるであろう。
その決められた時間の中で人事を尽くす潔さが必要な
のだ。
【神頼みという最後の努力について】
その最後の誠意と情熱として、本当の「神頼み」がある。
「祈る」という手段について語ったところ、ある学生から
反発があった。
「祈ってどうにかなるんですか。」
祈りとは、ご利益宗教のような商品効果ないし取引き
ではない。
「主よ、御心にかなうならば、どうか、私の願いをお聞き
届けください。しかし、どのような結果であろうとも、御心と
してお受けいたします。」
これが、キリスト教的な祈りである。
仏への祈りも同様であろう。
「天意にかなうならば、わが願いがかないますように。」
という謙虚と潔さをもって、祈るのである。
結果は、その願いの正しさと、努力に応じてもたらされる
ということを信じられるということが、信仰でもある。
鬱ではなく、限界を追いかける努力を尽くして祈り、天命
を待つ、そうした、潔い信仰心を広げたいものである。
梅士 Baishi