花送り あじさい寺の 花さびて
梅士 Baishi
自分はいったい何をしているのだろうかと自戒しつつ、
遍路の道を三時間も彷徨した。
田には水が張られ、田植えが終わっている。
しっかりと働いた痕跡が整列している。
「申し訳ねがんす」
草遍路にはめっきりと花が少なくなった。
ヒメジオンがベニシジミの紅を添えて、わが世の夏を
咲いていた。
足を引きずるほど疲れていたが、紫陽花の季節を見届
けたく、さらに歩いた。
寺のあじさいは、すっかり錆びていた。
紫陽花の季節も終わったのである。
「大川先生に勝てると思っているマスコミ人はいませ
んよ。」
向かうところ敵なしというナポレオンのように見えて
いるらしい。
霊言集は、既に100人を越えて出版されているので
はないか。
未公開の霊言もあるという。
ただ、不思議に思うのは、大川隆法総裁の偉大さを認
め、感嘆してはいても、「大川先生」なのである。
神仏ではないのだ。
信仰とは違う尊敬なのである。
師弟関係にしても、信仰とは違う尊敬にとどまってい
た者たちが、降格されたりしたのをきっかけに造反し、
離反したのだろう。
「裏切りのきょう子」にしてしかりである。
初期の頃の会員にも、そうしたこの世の師弟関係に終
わっていた者たちが少なくはなかったのではないか。
自分にとって、大川隆法総裁は仏陀を越えて、大宇宙
神というべき存在であって、未だに、奇跡を見ている神
秘感覚が大きい。
もはや会うなどと言うこともかなわない遠い存在では
あるが、この世にあって、神がいるという神秘を実感し
ている。
自分の信仰が原始的なのだろうか・・・。
宗教に入ると、みな同じに洗脳されるのではない。
同じ価値観に磁化されることはない。
偉大な師の生徒がみな偉大なわけではないのと同じで
ある。
人生の問題意識がちがえば、信仰とはいっても違った
世界観になる。
宗教は単なる哲学ではないし、単なる理論をも越えて
いる。
信仰の本質は、自分の魂の存在根拠に対する必死の思
いのようなものである。
だから、理屈を越えている。
後天的学びの成果ではなく、魂が探し求めていた存在
理由との遭遇であり、悟りというべき確信である。
存在根拠がどうであれ、今を必死に生きているという
実存主義的感覚では得られない境地である。
ところが、この世的な存在根拠というべき自己保身に
置き換わる人が多いのではないか。
給料のために言論を左右する古館キャスターレベルで
は、信仰など洗脳であり、ばかげた妄想ですよと嘲笑わ
れることであろう。
信仰にも発展段階があるものだが、それでも、信仰が
なければ、この世は忌わしく、無頼の人生にもなりかね
ない。
所在なく、不安と疑心暗鬼の闇を漂うばかりになるの
であろう。
信仰は自分の正統性根拠であり、存在根拠であり、発
展運動なのである。
学ぶと言うことは、信じる力である。
信仰には最大の信じる力が伴う。
本物の信仰には視野を広げ、認識力を高める力がある。
何しろ、目に見えない霊的な世界観を広げるのだから。
信仰とはまさに、心のよりどころである。
こころの平安であり、安定である。
この世を去った後の世界を知っていることの幸せは大
きい。
この世を去るのも一苦労ではあるが、その憂いを取り
去ることはこの世の最後のサービス業となろう。
しかし、仏神への信仰は、その弟子への信仰とはなら
ない。
弟子はあくまでライバルである。
仏・法・僧とは言うが、さて、僧への信頼、尊敬が成
り立つか、そこに次世代の課題がある。
信仰はさておき、思想的信頼はエリート層から定着し
つつあるように見える。
光は高く掲げられている。
【 マスコミ商売は言論ホステス・言論ホストの水商売か 】
古館伊知郎の霊言対談は無責任なホスト的な言論、詐
欺の言い訳のような話法であった。
ほしいと言うお客さんがいるから、そこをくすぐって
サービスしているという職業観である。
まじめに議論してもクラブで場違いの堅物のようにあ
しらわれる。
朝日の報道姿勢とは、まさに、水商売のホスト・ホス
テスである。
言い訳は、自分達は政治家ではないからと逃げるので
ある。
それより、面白おかしく、チップを払ってでも楽しく
やりましょうとなる。
クメもフルタチもお釜かもしれない。
いやな客にも愛想を振りまき、年商二億円くらい稼い
でいるらしい。
水商売はあぶく銭のシャボン商売なのだろう。
水商売のマスコミにも、風営法並みの取り締まりや独
占禁止法が適用されるべきだろう。
気高い日本の伝統敵気風を、風俗で汚させるわけにも
行かないではないか。
「大人」だというマスコミの風俗を踏まえて、ディベ
ート能力を鍛える必要もありそうである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党