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病人の長い一日~その3(自宅編)

長い入院生活の狭間で、外泊や一時退院で帰宅すると心底ほっとする。

病院という隔離された空間から開放されると共に、集団生活から自分の世
界へ戻れる瞬間だ。


ただそれは、病院で看護師さん達に管理、守られ、ある意味安心して生活
していた事から、すべて自己の責任で管理しなければならなくなることも
意味する。

移植から再手術までの6度の入退院で、満足した状態で退院したことは無
かったので、自己管理を含め、家族の負担も大きかった(らしい)。



入院中は自分が多少忘れていても、看護師さんがフォローしてくれたり、
むしろボケッとしていると、矢次早やに指示されたりする。

そんなこんなで、入院中とは違った緊張感が自宅にいても味わえるのだ。
やはり工程表でも作らないと自己管理できない。



【帰宅中のある一日】

 6:00  ・起床
       ・自己測定による「体温」「血圧」「血糖値」「体重」の
        計測      
 6:30~7:30
       ・洗面
       ・インスリン自己注射(15単位)
       ・朝食
 8:00  ・免疫抑制剤服用(プログラフ)(時間遵守)
 8:00~ ・朝薬服用(プレドニゾロン2錠、ゼフィックス1錠、
            ガストローム1包、ラシックス1錠
            スローケー1錠、ラクツロース40mL、
            ウルソ2錠、アミノレバンEN1包)
        恥ずかしながら薬の服用に1時間以上費やしていた。
        特にアミノレバンENには閉口、体調の悪い時は飲みきれ
        ないこともあった。
11:30  ・自己測定による「体温」「血圧」「血糖値」の計測
       ・インスリン自己注射(20単位)
11:30~ ・昼食
       ・昼薬服用(ラクツロース40mL、ウルソ2錠、
             アミノレバンEN1包)
13:00~ ・PCをいじったり、横になったり
       ・さすがに仕事はできなかった
16:00~ ・シャワー(体にドレンが挿入されているので、防水処理
        を自分でしなければならない。専用防水テープを使用、
        シャワーを終えた後は、挿入部分の消毒とドレンの固定)
17:30  ・自己測定による「体温」「血圧」「血糖値」の計測
        (血糖値は通常人指し指か中指から採血するが、回数が
         かさんでくると痛くて測定針を刺せなくなる)
       ・インスリン自己注射(5単位)
        (通常腹に注射針を刺すのだが、段々と固くなり刺す場
         所が無くなってしまうのには苦労した)
       ・夕食
18:00  ・夕薬服用(スローケー1錠、ラクツロース40mL、
             ウルソ2錠、アミノレバンEN1包)
19:50  ・病棟に電話確認(免疫抑制剤の服用量の指示を仰ぐ)
20:00  ・免疫抑制剤服用(プログラフ)(時間遵守)
       ・就寝前薬服用(ガストローム1包、ラクツロース40mL)
21:00~22:00
       ・就寝



入院中との違いは、回診と検査・採血が無いこと。

ただ、定期検診と泌尿器科や放射線科などの他科受診がほぼ毎週のように
あるので、むしろ入院中より忙しかったりする。

この頃はまだ車の運転ができる状態ではなく、公共交通機関で通院できる
状態でもなかったので、検診のたびに妻に会社を休んでもらい、送っても
らっていた。

     

水分摂取量のチェック、排便回数のチェックなどは病院にいた時と同じよ
うに毎日しなければならない。


自宅で良かったことと言えば、勿論家族と一緒にいられること。

そしてなにより、9時に電気が消されないこと。
寝る時間は自由だ。

それどころか、疲れて寝たくても、子供がうるさくて寝れないという贅沢
な悩みが出てきてしまう。


病院が懐かしくなってしまうのは困ったものだ。
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病人の長い一日~その2(病院の夜編)

先日4月1日、117円/㍑でガソリンを入れることができました。



・・・・・・

病人の夜は長い。


発病し入院するまで、夜9時に就寝するという感覚がまったく無かった。

9時に寝るなんて子供の時のいつ以来だろう。

ただ体調が悪ければ8時だろうが9時だろうが、とにかく横になっていた
いのは当たり前だが。



入院生活を振り返ると、就寝時間帯の状況は大きく3つに分かれる。



肝炎を発症し初めて入院、転院した病院での透析治療の一ヶ月間は【不安】。


先がまったく見えない状態で、夜通し不安感で満たされ、眠れない事も多か
った。
開き直っていられる時と、考えれば考えるほど落ち込んでしまう時が交互に
やってきた。


又、慣れないベッドに腰を痛くして、寝返りが辛くなったのはこの頃。



H大病院に転院し、移植後の数ヶ月は【恐怖】。

今思い出しても不思議でたまらない感覚の「肝性脳症」の期間だ。

おそらく「肝性脳症」を未体験の人には(医師や看護師さんも含めて)、
きっと「肝性脳症」を説明するのに「夢」「幻覚」という言葉で表現する
ことだろう。

でも実際にあの体験をした人には、それは確かに「現実」なのだ。

この「現実」ではない「現実」というのは、本当に超恐ろしい。


ICUで体験した「時間の逆戻り」はとても夢や幻覚では説明付かない。

だって、こんなはずはない、と冷静に判断している(つもり)自分を、し
っかり認識しているのだから。

苦しみの中で、ベッド脇の父に何度も日にちを確認し、帰ってくる返事は
いつも「11日」だった。
本当にもう戻れない(死ぬ)かと思ったものだ。


今考えても、意識レベルだけが本当に逆行(一種のタイムスリップ)した
としか思えない。


この体験をこの後ずっと引きずり、どんなに眠たくても眠るのが恐ろしく
て恐ろしくて、「あんな体験をするぐらいなら眠らなくてもいいや」と
暫らくの期間、睡眠恐怖症だった。

これが、なかなか「肝性脳症」が治らなかった原因の一つかもしれない。



肝性脳症が覚め、大部屋に移り、入退院を繰り返したその後の10ヶ月間
は【苦痛】。

それはずっと痛みとの闘いだった。

腹痛に加え、途中からは腹に穴を開けドレンが通されたので真上を向いて
寝る事しかできない。

熟睡できたのはたったの一日も無かった。



大部屋に移ってからは何十人もの人と同室になった。

実に様々な人がいる。

消灯とともにいびきをかいて眠ってしまう人、11時近くまでテレビを見
ている人、逆に朝早く起きて静かに音楽を聞いている人、不思議と自分と
トイレに行くタイミングが同じ人、同じように痛んで唸っている人・・・。


皆同じように言っていたのは、「夜は嫌だねぇ」。

皆きっと、自分の先のことや家族のこと、医療費のことや検査のこと、手
術のことなど、あれこれ考えて眠れない夜を過ごしていに違いない。

大多数の人が睡眠剤を使用していたようだ。



ベッドの硬さにも慣れた。廊下の明るさにも慣れた。
大きないびきや同じ病棟の小さな子供達の泣き声も気にならなくなった。

だけどひたすら感じた寂しさだけはずっと消える事はなかった。

やっぱり我が家が一番だという事だ。


騒ぐわけにもいかず、NSに行っても看護師さんの邪魔になるだけ。
徘徊するわけにもいかず、せいぜいラジオや音楽を聞きながら朝を待つ。

早ければ2時頃には目覚め、大体が4時頃には目覚める。


色々と余計なことを思いながら自分勝手に黄昏れていると、何度も聞いた、

♪「起床の時間になりました。今日は○月○日、○曜日です。」

という院内放送を聞くことになる。



朝6時になり、又長~い病院の一日が始まる。
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病人の長い一日~その1(病院編)

肝臓を悪くするとまず安静と栄養摂取、取り合えず一ヶ月ゆっくり休んで
というのが最初に抱いたイメージだった。



肝臓に限らずどんな病気でも入院中は、ベッドに横になって、一日何もす
ること無く、管理された病院食を食べて、検査して診療受けて、ゆったり
とした日常を連想するのではないだろうか。

たしかに手術直後だったり、よほど重症だったりするとそんな一日になる
のだろうが。


しか~し、病人は忙しい!

ある程度回復し、自己管理項目が増えてくると、自分が病人であることを
忘れてしまうぐらい忙しいのだ。


そんな入院中の一番忙しかった頃は到底自己管理などできず、あちら立て
ればこちら立たずで、思わず一日の工程表を作ってしまった時があった。




【入院中のある一日】

 6:00  ・起床
       ・自己測定による「体温」「血圧」「血糖値」「体重」の
        計測      
 6:00~6:30
       ・採血(多い時で8本程、一日6回採血の日もあった)
 6:30~7:30
       ・洗面(洗面所の空きを見計らって)
 7:30  ・インスリン自己注射(10単位)
 7:30~ ・朝食
 8:00  ・免疫抑制剤服用(セルセプトorプログラフ)(時間遵守)
 8:00~ ・朝薬服用(プレドニゾロン4錠、ファンギゾン5mL
            ゾビラックス1錠、ゼフィックス1錠、
            オメプラール1錠、ガストローム1包、
            カナマイシン2錠、スローケー1錠、
            ラクツロース30mL、酸化マグネシウム1包、
            ウルソ2錠、バクタ1錠、グラケーカプセル1錠、
            アミノレバンEN1包)
 9:00~ ・回診(夕方を含め不定期で)
 9:15~9:40 
       ・CT(30分~1時間)
10:30~ ・X線撮影
11:00  ・泌尿器科受診
11:30  ・自己測定による「体温」「血圧」「血糖値」の計測
       ・インスリン自己注射(18単位)
11:30~ ・昼食
       ・昼薬服用(ファンギゾン5mL、カナマイシン2錠、
            ラクツロース30mL、酸化マグネシウム1包、
            ウルソ2錠、グラケーカプセル1錠、
            アミノレバンEN1包)
13:20~ ・リハビリ
14:15~ ・心エコー
16:30~ ・MRI(40分~1時間30分)
       ・風呂(30分以内)
17:30  ・自己測定による「体温」「血圧」「血糖値」の計測
       ・インスリン自己注射(16単位)
       ・夕食
18:00  ・夕薬服用(ファンギゾン5mL、ゾビラックス1錠、
            カナマイシン2錠、スローケー1錠、
            ラクツロース30mL、酸化マグネシウム1包、
            ウルソ2錠、グラケーカプセル1錠、
            アミノレバンEN1包)
20:00  ・免疫抑制剤服用(セルセプトorプログラフ)(時間遵守)
       ・就寝前薬服用(ガストローム1包、カナマイシン2錠、
               ラクツロース30mL)
21:00  ・就寝



ざっとこんな具合だ。

毎日が毎日、検査があるわけではないが、逆にこれに点滴交換、肝生検や
他科診療やもっと時間のかかる検査(肝GSAなど)が加わって、それこ
そベッドの上で横になっている時間がほとんど無いような日もある。
        

上記以外に水分摂取量のチェック、排便回数のチェック、尿の確保なども
毎日しなければならない。

もちろんその人の病種や状況によって個人差はある。



夜21:00、放送の合図と共に電気は消される。

すぐ眠れるかっ、て、無理無理。
みなこっそりTVを見たり、メールのやり取りをしたり、なが~い夜が
始まるのです。(その前から高いびきをかいて寝ている人も勿論いる)
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再手術へ向かって~一時退院

最近は、臓器移植法10年、薬害C型肝炎訴訟などの影響か、移植と肝炎
にまつわるニュースやテレビの特集番組が多い。

言わば「特殊」なこれらの「事実」が広く世間に知られる事で、良かれ悪し
かれ一般に認知される事は良い事だと思う。

そしてその結果、これが「誰にでも起こり得る事(起こり得たかもしれない
事)」であると解ることで、新しい一歩が始まると思う。


ただ一つ言えること、もし自分の身にこの「事実」」が現実のものとなって
いなかったら、どこまで理解できたか(理解しようとしたか)、自信が無い。




----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006年 7月14日


午前中、妻も病院に呼ばれ、医師から今後の手術予定の説明を受ける。



・門脈(シャント手術)と胆管の同時手術になること

・癒着が激しいことも考えられ、手術時間は10時間以上、場合によって
 は移植手術と同程度になることも考えられる

・術後、入院は1ヶ月以上になること

・胆管チューブは3ヶ月以上留保することになる

・日程はお盆明けになる

・よって一時退院となる





退院となれば、少しでも早く退院し、自宅で体力の回復に努めた方が良い
という先生のアドバイスで、この日の午後、即退院。


一ヶ月後の手術に備えることになる。
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再手術へ向かって~希望と可能性

NHKドラマの「感染爆発」を見た。

新型ウイルスの脅威をまざまざと見せ付けられた。

免疫抑制剤を欠かせない身としては、もし万が一日本に新型ウイルスが蔓延
する様な事態に陥ったなら、その時は・・・


でも、劇中の言葉に救われる、



「ウイルスもしぶといけれど、

   人間だって思ったよりしぶといもんだよ!


みずから体感してきた言葉だ。




----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006年 7月13日


第三内科での胃・腸運動機能の検査の結果は、前半排気は良いが、後半の
機能が低下することと、それは手術によって胃が変形している為と考えら
れるとの事だった。

そして十二指腸は太い部分と細い部分が常時存在するようだと問題で、C
T検査の必要があり、バイパスを作成する必要があるかもしれないとの事
だった。





13日は、妻の実家で義父の手術が行われた。

妻にとっては、父親の手術施術と、夫の手術決定が重なった日となった。



朝の回診でF医師から再手術決定を告げられ、午後からお見舞いに来てく
れた父と姉に報告、夕方には、子供の家庭訪問の為病院に来られなかった
妻にも電話で報告。


妻は、


「大変かもしれないけど、少しでも今の状態が変わるなら、少しでも良く
なる可能性があるなら手術してもらった方がいいんじゃない。」



自分自身もそうだったが、妻はその何倍も、この時の状況に、肉体的にも
精神的にも限界を感じていたのだ。

先に控える決して成功率の高そうもない手術、それでもこの時までの、先
のまったく見えない状態に比べると、大きな希望が見えたようで気持ちは
スッキリした。




思えば最初に退院した2月からずっと、嫌で嫌でたまらなかった再手術な
のに、それがどんな結果を突き付けられるかもわからないのに、


「先行きが見えない」


という事の辛さに比べれば、どうって事はないんだ、と改めて感じた。
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再手術へ向かって~PTCD失敗

今日は1月11日、そこで11時11分に何かしよう、などと考えていた
ら、気づいてみるといつの間にか・・・。

さてっと、今度は11月11日11時11分だな。。




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<・・・一年前>

・・・2006年 7月12日


12日の午前中、胃・腸運動機能を調べる検査(胃排出検査)を行う。

数時間かけて、一定時間おきに風船のような物を膨らませる検査で、これ
で胃の運動機能を判定するらしいのだが、午後からのPTCDを控え、い
まいちこの検査の意味も意義もわからぬまま、何個もの風船ができあがっ
た。



午後からのPTCDを控えつつも、思いはほぼ固まっていた。
再手術になるんだろうと。


「PTCDがうまくいかない場合は手術しかない」、と言われていたが、
それでうまくいくのであればもっと早く対処できていたはず。

可能性が低いという事は初めからわかっていた事。



仮に運良くうまくいったとしても、シャントの問題は残る。

であれば、どのみちシャントの手術をしなければならないのであれば、別
にPTCDが成功しようが失敗しようが、どうでもいいかな、と。




13時30分、PTCD施術、この日は麻酔が効いたのか、それまでのよ
うな激しい痛みは感じなかったように思う。

単に慣れてしまっていたか、身体が鈍感になっていたからかもしれない。



17時終了。

何人かの医師が変わるがわる、かなり頑張ってトライしていたようだが、
結局失敗、つまりそれで再手術が決定。




翌13日、F医師から、

 ・全ての検査・治療の終了
  
と、

 ・胆管とシャントの同時開腹手術となること


を告げられた。
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再手術へ向かって~最後の望み

今日、札幌はこの冬一番の寒さ。

灯油高騰で家の中が寒い、外も寒い、財布の中身も寒い、心も体もあそこも
みんな 寒~~いっ!!




----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006年 7月9日



12日のPTCDが決定した後、2泊の外泊を終え、9日夜病院に戻る。


翌10日、最初の入院から1年近く経とうとするこの日、初めて冷蔵庫を
借りた。

これまで何度も冷蔵庫を借りようという話しはしていたが、それが入院の
長期化を意味するようで、なんだか嫌で一度も借りていなかった。



夕方、第三内科を受診、後日、胃・腸運動機能を調べる検査を行うことに。



11日、放射線科で翌日のPTCDの説明を受ける。

これまで何度も同じような説明を受け、同じような事をしてきた検査だ。


【PTCD 内外瘻(ろう)】

・局所麻酔により、ガイドワイヤーによる狭窄部通過

・内外瘻チューブ交換

・場合によってはバルーンによる拡張

・所要時間 30分~150分

・起こりうる合併症 ~吐き気・嘔吐・窄刺部出血・腹腔内出血・皮膜下
 血腫・血管損傷・感染・膿瘍・肺機能異常・胆管壊死・胆道出血・造影
 剤によるアレルギー・手技困難・放射線被爆による障害・肝損傷



合併症の多さについては、何度も検査・施術を繰り返してきたこの時点で
はまったく気にもならない、それよりも問題なのは150分の所要時間。


もうすでに開けられているチューブの穴からワイヤーを差込み、胆管を探
るこの検査、検査というより内視鏡手術というべきものだが、ただでさえ
穴開口部の痛みにはホトホト参っていたので、果たして長時間耐えられる
のか、・・・まったく自信が無かった。





くしくもこの日、仕事関係の方からの電話・メールが重なった。

何も変わらず、どんどん過ぎていく外の世界と、病室を出る事さえできず、
いつ回復するかもわからない自分の姿を比べ、なんとも虚しかった。
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夜中の病室

今、仕事をしながら、Bank Band with Salyuの「to U 」
を聞いていて、入院中の夜中の病室を思い出してしまった。



いくら病人とはいえ、よほど体調が悪くないかぎり、夜9時消灯、朝6時起
床というのは閉口する。

朝はともかく、夜は夕食を取ったならすぐ消灯時間が来る感じで、ちょっと
ホールで長電話をしようものなら、病室は真っ暗。



長い入院生活の中で、かなりの人達はなかなか寝付けず、睡眠剤を服用して
いた。

やはりあれこれ考えてしまって、精神的に不安定になって、睡眠剤を利用し
てそれらが少しでも解消されるなら、ということだ。



ワタシは半ば意地になって利用しなかったが、(色々理由はあるのですが)
一年間のほとんどが常に痛みを抱えていて、点滴の管に繋がれていたものだ
から、ただでさえ寝付けないところに輪を架けて寝ずらい。


恐らく患者の皆さん、ほとんどの方が寝る事に苦労しているのではないか。


まぁそれでもAB型の典型のようなこの性格、一睡もできない時もあれば、
しっかりと寝れたりするので、一年間、病室で生活できた。





肝性脳症だった頃は、毎晩ナースステーションから看護師さんの歌が聞こえ
てきたり、一晩中悪口を言われたり。(幻覚です。・・・だと思う。)

なんだかわからない恐怖に襲われ、個室を逃げ出そうとして鍵を掛けられた
り。

脳症が治まると、やたらと家の事が気になり妙に目が冴えたり。

同室の人のイビキが気になり廊下に出てみると、同じ状況の人と出くわした
り。

痛みに耐えられず、それでも声は出せないので廊下に出てうずくまっていた
り。

深夜までテレビを見ている人。(内緒で)

メールのやり取りをしている人。(内緒で)

音楽を聞いている人。(意外にアニメソングだったりする)

決まって朝4時に起きる人。

決まって夜11時まで起きている人。

「俺は常に団体生活をしているから、絶対にイビキはかかない」と豪語する
人。

豪語するわりに、誰よりも早く寝入って、大きなイビキをかく人。

看護師さんが深夜のみ回りに来るたび、照らされた懐中電灯に反応する人。

いきなり目を見開いて、看護師さんを驚かせる人(それは私、

子供の夜泣きにイライラする人。

子供の泣き声に元気付けられる人。

術後のベッドが柔らか過ぎて、勝手にマットをはずして看護師さんに怒られ
る人(これも私、




まあ色んな人がいて、色んな夜の過ごし方があるもんだ。




一年間の入院中、一番精神的に辛かった時、それは再手術前の数ヶ月。

そんな時心の支えになるのはやはり音楽。

たくさんの音楽に励まされたが、その中の一つが、


Bank Band with Salyuの 「to U 」



この曲を聞くとたちまちあの時の思いが蘇えるのです。

くじけそうになりながらも、必死で何かにすがろうともがいていたあの時を。




【Bank Band with Salyu~to U 】 

・・・
沈んだ希望が 
崩れた夢が 
いつの日か過去に変わったら
今を好きに 
もっと好きになれるから
あわてなくてもいいよ


・・・
悲しい昨日が 
涙の向こうで 
いつか微笑みに変わったら

人を好きに 
もっと好きになれるから
頑張らなくてもいいよ

・・・
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再手術ヘ向かって~覚悟

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<・・・一年前>

・・・2006年 7月7日


妻の必死の訴えで、やっとT医師が反応してくれた。

T先生とすれば、たまたまその時その場にいた事で、訴えられたわけだが。

それでも今更新しい話しは無く、それまで何度も聞いていた内容が中心だっ
た。



 ・後空域は状態が良いのでチューブの挿入は必要ない。

 ・前空域(この時点でチューブの入っている所)はチューブが交差部まで
  到達していないので、改善する必要がある。


 →これをどう解決するか

 ・さらにチューブを差し込む(第一外科でやるか、放射線科でやるか)
  しかし、これは難しい。
  
 ・開腹手術(決して簡単ではない)
  そして手術となると、シャントの手術と同時手術となる。




7月6日、前日の胃カメラに続きDIC-CTという造影剤を点滴しながらの
検査が行われた。



そして3日、6日、10日と、仕事に関する電話、メールが立て続けに入る。

自分の身体の事で精一杯で、ストレスで潰瘍になる状態であるにも拘らず、
仕事の話しには敏感に反応する。

もちろん、この時の状態ではどうする事もできないが。

もう元のように、普通に仕事をする事はきっと無理だと、思わざるをえなかっ
た。それどころか・・・。



7月7日、道東に住む妻の父が入院。

義姉の手術の時もそうだったが、こんな時に妻を実家に帰してあげられない
事は本当に辛いし、情けない。


「帰ってあげなくていいの?」

「こんな時に帰れるわけないしょ」


何度も繰り返した会話だ。




 この日の午前中、造影X線検査の後、T先生の説明で12日のPTCDが
決定した事と、それが失敗した場合、手術となる事を聞いた。

そして同日夕方の外泊許可が出る。


PTCDでは上手くいかない事はわかっていた。
患者の本能だろうか。

手術の覚悟は決まった。

それなのに、この時点ではその手術の方法さえ決まってなかった。




自宅に戻って、翌8日、9日は次男のサッカーの試合。

この時だけに限らず、6年生として、小学校最後のシーズンの勇姿を見る事
はほとんどできなかった。
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再手術ヘ向かって~妻の訴え

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<・・・一年前>

・・・2006年 7月4日


6月頃から知らず知らずのうちにストレスが溜まってきていたようだった。

痛みがまったく改善されぬ上、放射線科での治療の為入院しても、それが
かなわず、しかも神経科まで受診させられ、なにより先行きのめどがほと
んど立たない状況でイライラはつのるばかり。

現状の辛さ、痛みよりも、それがその先どうなっていくのかわからない事
の方が遥かに苦しくてストレスの溜まるものであるという事を、この時は
嫌という程味わっていた。



この頃、第一外科、放射線科、第三内科の三科で今後の治療方針が話し合
われていた。


そしておそらくストレスが原因だと思うが、腹痛の他に胃痛を伴ってきて
いた。


7月4日、胃の内視鏡検査。


胃カメラはそれまでも何度も受けてきているので、それ程抵抗はなかったが
この日の検査は違った。

最初、通常の検査器具を使って始まったが、思うようにいかないらしい。

時間がどんどん過ぎ、さすがに喉の痛みと不快感、それにいつもは感じない
胃内部の痛みが襲う。


そのうち、検査医師が


「中々カメラが入っていかないんですよ。手術でかなり胃が変形してるので
十二指腸までは届かないです。ちょっと器具を替えてもう一度やってみても
いいですか。」


「・・・ふぁぃ(言葉が出せない)」


心の中で、「早くしろよ!」と叫びつつ、睨み付けてやると、


「今、他の検査で器具全部使っているみたいなんですよ。う~んぅ」


さらに心の中で、「初めから用意しとけよ!」と叫びながら怒りは強くなり、


「今日はこれまでにして、明日もう一度、安定剤を使って眠った状態でやり
ましょう。でないと苦しいでしょう。」


さらにさらに心の中で、「だったら初めからそうすれよ!」と叫びながら怒
りは頂天に!



後にも先にも、1時間近くもカメラが胃の中に入っていたのは、この時だけ
です。

検査でさらにストレスが増し、胃痛も激しくなったような。



結局、翌日安定剤を使用し、ほぼ眠った状態で内視鏡検査。

(ちなみに安定剤を使った、胃の内視鏡検査は入院患者のみで、外来では
 できないそうです。)

結果は、案の定十二指腸潰瘍。しかも相当大きいものである事が判明。

強い薬の為とストレスによるものと診断された。




この夜、先生からは苦し紛れの今後の方針説明があった。

それは、ず~っと我慢に我慢を重ねてきた妻が、ついに切れたから。



「先生、このままの状態がいつまで続くのですか!
こんな事じゃ、普通の健康の人間だって参ってしまいます。
ストレスだって普通じゃないですよ。せめて今後の治療方針とか、少しでも
はっきりしてもらわないと、このままじゃ・・・」


涙ながらの、そしてあまりの迫力に聞いていた先生は顔色が無かった。



そしてこの訴えをきっかけに、再手術へ向かって進んでいく。

まだ手術以外の可能性は残されていたが、もう自分の中では決まっていた。



再手術しかないと。
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再手術へ向かって~精神科受診

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<・・・一年前>

・・・2006年 6月30日


28日には3回目の胆管ドレナージを予定していて、その為の27日の入院
のはずだった。

そこでチューブを太い物に替え、そこから内視鏡を挿入、胆管を探るという
嘘のような作業をするはずだったのだが。

28日、そのつもりで放射線科を受診、ところが診察室に入るなり、


「う~ん、Mさん、今でもチューブ、痛いんでしょ。」

「はい、痛いです。」

「これねぇ、これ以上チューブ太くしたらおそらくすごく痛いよ。たぶん、
3日間くらい、身動きできないかもしれない」


と言って、今挿入されているチューブと、今回入れ替えるはずだった物とを
並べて説明を始めた。

(えっ、今更・・・)

(じゃあ、なんの為の入院???)


「これに替えて、無理にやってみても・・・、もう一度、第一外科の方と
相談してみるという事で、今回は止めましょう。」


(なんのこっちゃ~~)

と、思いきっり叫びたい気持ちを押えつつも、チューブが太くならなくて、
正直なところ、ほっとした。


しかし、この先の事を考えると、現状を打開する術が一つ閉ざされたわけで
先行きの見えない、なんとも言えない気持ちで一杯だった。




そして追い討ちをかけられるように、又、先生から新たな指示が。


【 精神科受診 】 


正式には「神経内科」だったと思うが、これを妻と共に受診してくれ、と言
う。
初めは耳を疑ってしまったが、要するに、特定できる原因が現時点で無いの
に、ここまで痛がるのは、精神的なものである場合も考えられる、と言うの
だ。

はっきり言って、この瞬間、それまでの事を全否定されたような思いが走っ
た。

「大して痛くも無いのに、精神不安定で、少しの痛みを必要以上に強く感じ
取って、大げさに騒いでいる」的なことを言われたのだから。


(これについては、後に「幻視痛」なるものがある事を知り、それと同じで
はないが、この時の判断が医学的に必ずしもおかしくはなかった、という事
を今は感じています。)


それでも30日、妻に休みを取ってもらい、揃って神経内科を受診。


「どうですか奥さんから見て、旦那さんの痛みの様子は?」

と聞かれて、キョトンとしていた妻の顔を今も思い出す。




第一外科の方では、この時、放射線科での治療の成果を過度に期待していた
節がある。後から感じた事だが。

そう、思うに、第一外科ではこの時、あきらかに手詰まり状態だったのだ。


この頃までに何度か、その時々の状況説明を受けていたが、改善に向けての
決定打がまったく無かった。


この時はもう、再手術しか改善の余地が無い所に限りなく近付いて
いたのに、なんと、その再手術さえ、やってみなければどうなるかわからな
い、そんな状態だったのだ。
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してはいけない退院

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<・・・一年前>

・・・2006年 6月16日


胆管ドレンが右脇腹に挿入されて以来、それまでの腹痛と相まって、常に
痛みがあるのが当たり前、違うのはその痛みがどれくらい痛いのか、とい
う痛みの強弱だけになってしまった。

そんなことだから、外泊時や一時退院で自宅に戻っても、まったく落ち着
かない。

痛みは特に夜中に増すので、おちおち寝てもいられない。
一応必死に痛みをこらえるのだが、夜中だとどうしても妻を起こしてしま
う。


ある時、外泊時にアンモニア数値が高くなり、軽い脳症状態になり、イン
スリンの自己注射ができなくなったり、針を駄目にし、病院に取りに行か
なければならなくなった時、妻に一日に病院と3往復させてしまった事な
どもあった。


孫の運動会で妻の母が来ていた時は、そんな様子を見かねて、
「こんな状態じゃ、あんた(妻)が倒れてしまうよ。こんなんで退院して
きても、大変になるだけだよ」
と言っていたらしい。


実際自分も、最初の頃は、体調よりも、退院できる、家に戻れる、という
うれしさばかりで、周りの事も良くわからず喜んでいたが、この頃になる
と自分でも、何故退院させられるのだろう、と考えてしまう事が多くなっ
た。


ただそれでも気になるのは仕事の事。
3月の退院時に少し仕事をしただけだったので、前年の8月からほぼ10
ヶ月、ほとんど仕事をしていない。

まったく思うように改善しない痛みと、相変わらず優れない体調のなかで
仕事ができない思いがつのって、どんどんストレスが溜まっていった。



病院では痛み止めの点滴をしてもらいながら、なんとか痛みを和らげつつ、
そんな状態なのに6月16日に退院する事になる。4度目の退院だ。

痛みは痛み止めの飲み薬と座薬で対応することになった。

前日の検査では、腎盂に結石がある事がわかった。


腸の動きと、胆管ドレンによる痛みと、さらに結石による痛み、何がなん
だかわからないままの退院だった。



唯一良かったのは、二日後の18日、17回目の結婚記念日を自宅で迎え
られたこと。
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続く痛み

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<・・・一年前>

・・・2006年 6月7日


胆管ドレナージによって強制的に胆汁を体外に排出している人はたくさんいる。

小さいとはいえ横っ腹に穴を開けるのだが、通常であれば、ある程度慣れて
痛みは徐々に弱くなっていくそうだ。

ところが、5月24日に初めて開けて以来、痛みはまったく弱まらない。
むしろ時には強くなる。

PTBD以前からの強い痛みもあるので、腹の穴周りはもちろん、腹部全体に
痛みがあり、消えることはなかった。


6月7日はその胆管のチューブ交換。
ただでさえ通常より太いチューブがさらに太いものと交換された。

当然腹部の穴は切開され大きくなった。


度々の検査・治療での絶食の時はもちろん、便秘が腸の動きを刺激し腹痛が起
こると聞いてから、あまり食事も取れなくなった。

少し食べただけですぐ満腹感を覚え、すこしでも食べ過ぎると腹痛が増す。


最初に入院してから、絶食の期間の方が長いぐらいで、「食べない」事には慣
れてしまっていて、それ程苦痛は無かった。



思えば、前年8月に闘病が始まってから、病院でも家庭に戻ってからも、満足
に食事を取った事は一度も無かった。
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腹痛の原因

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<・・・一年前>

・・・2006年 6月1日


入院後は又、検査に次ぐ検査。

CTの結果、腹痛の原因は、

・移植手術によりできた空洞部に腸が入り込み、便が溜まるとその腸の動き
によって痛みを引き起こす。

・薬の副作用で結石ができやすくなっていて、尿管結石で痛みが出ている。


と、はっきりしたようなしないような結果を聞かされた。



今でも不思議に思っている事の一つは、移植外科の検査では結石の診断が下
されるのに、泌尿器科で診てもらうと、決まって

「石はありません。少なくともそこまで痛みを伴うような石はありませんよ」

と言われるのだ。

「これは泌尿器科の方の問題ではないと思いますよ」と。


結果的にその後、腎臓内の結石で苦しむ事になるだけに、この時の診断が果
たしてどうだったのか、と。
この時の、というかずっと続く腹痛、脇腹通の本当の原因は今も良くわから
ない。


そして、今もそうだが、とにかく泌尿器科は担当の先生がいつも変わる。

いまだに続く泌尿器科への不信は、もうこの頃からあった。
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どうして自分だけ

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<・・・一年前>

・・・2006年 5月


元々の右脇腹通に加え、PTBDによる管の貫通部の痛みで、なんだかわけ
がわからないような状態になってしまった。


PTBD施術の翌日、25日夜中に痛みは最高調に。

どうもこうも出来ず、もちろん眠ることなど出来ず、たまに廊下に出ては、
必死に我慢するしかなかった。



週末に控える次男の最後の運動会、外出できるわずかな望みも、この痛みで
はどうする事もできず、諦めるしかなかった。


運動会当日は病室を出ることはできなかったが、その気持ちを察してくれた
のか、二人の姉、叔母さん一家、甥までお見舞いに来てくれた。



その後も痛みはほとんど治まらないものの、医学的にどうにもならないのか、
29日、なぜか退院許可が下りる。

そして痛みを抱えたまま、30日退院。


しかし、まったく痛みは弱まらず、たったの2泊しただけで、6月1日、あ
まりの痛みで病院へ、そのまま入院となる。



2月に初めて退院して以来、4度目の入院。

さすがにこの頃からは、楽観的な感覚は持てなくなる。

一番最初の移植手術の説明では、移植後ほとんどの人が3ヶ月以内に回復、
退院していく、と説明を受けていた。


「どうして自分だけ」

「もう良くならないのでは」

「やはりもう一度手術しなければならないのか」

「再手術でも直らないのでは」


こんな思いが頭の中に強く渦巻き出したのはこの時期。


腹に痛みがあるのが当たり前、その痛みが強いのか弱いのかだけの状況で尚
且つ、肝機能値が良くならない、移植までしたのになぜだろうという思い、
少しずつ、それでいて強烈なストレスが溜まっていく。


そしてそんな時思うのが、前に聞いた医師の一言、

「Mさんの場合、何かが引っ掛かっているんだよね。それが何なんだろうね」


「それを調べるのがあなた達の仕事じゃないですか!なんとかしてくれ~」

って叫ぶことができたなら、少しはストレスの発散になったんでしょうけど。
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