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もしも病気でなかったなら~移植の現実

もう2年と言うべきか、まだ2年と言うべきか、生体肝移植手術を受けてか
ら2年がたった。



・・・・・・

今年もあと数日、本来、一年を振り返って、となるところだろうが、どうし
ても「あの日」からの思いが募る。


最近妻と話しをしていて、良く話題になるのが、「もし、こんな病気になっ
ていなかったならどうなんだろう」という事。


もちろん悪い事ばかりではなく、良い事も考える。

失われたものと得たもの、それは決して比較できるものではない。




何も他にできなかった一年間、仕事も遊びも、子供との振れ合いも、そして
収入も絶たれた。



先日新聞に、「臓器移植法10年」の記事で、ある男性の手記が紹介されて
いた。

自分と同じ当時40代の男性で、脳死移植を待つ重い肝臓病の患者の手記だ
った。



「今の医学でも、治療法が『脳死臓器移植しかない』と診断された気持ちが
おわかりいただけますか。
仕事、ローン、家族-。この先どうなるのか。いつまで持ちこたえられるの
か。さまざまなことを考えます」



さすがに心に響いた。

生体と脳死の違いがあるとはいえ、与えられた状況は同じ。

自分も最初、病気の状態を知ることとなり、真っ先に考えたのがこの男性の
思いそのもの。



不思議なもので、いざ生死を突き付けられても、一番最初に思ったのが
「生活」の事だった。



「一ヶ月は安静にしてないと」

と言われ「長いなあ、苦しいなあ、どうするべ」と思い、


「移植後は通常3ヶ月は入院が必要です」

と言われ「その間の収入は、生活は、医療費は」と悩んで、


3ヶ月経ち4ヶ月経ち、半年経っても良くならず、自分の立場もわきまえず、


「先生、とにかく退院させて下さいよ。生活がかかっているんですから」と
騒ぐ。


移植後1年たち、再手術に及ぶにあたっては、もう諦めと開き直りの境地。

生活の事を考え、一睡もできないまま病室のベッドでうなっていた事も何度
も。




いろんな事を犠牲にしながらも得たものも多かった。

何よりも家族の愛と思いやりを改めて知り、親籍・友人・知人の思いを知る
ことができた。


見知らぬ人たちとの交流もブログ等を通じてできた。


なんといっても病気の事を真剣に考えるようになり、そしていわゆる弱者の
気持ちが、恥ずかしながらこの歳になってやっと理解できるようになった。


”もしも病気になっていなかったなら”気付かなかったであろう事は多かっ
た。




年末になり、新年を迎えようとするたび、きっと毎年考えてしまうのではな
いか。

もしも病気になっていなかったなら、と。






・・・新聞の記事の続きには、


前記の男性、移植後3年余りして亡くなったという事

移植手術後間もない患者が亡くなった時、ある医師が

「これも移植医療の現実なのです」と言葉を発したという事


そして、移植を待つ患者数として

・心臓~  100人
・肺 ~  131人
・肝臓~  182人
・腎臓~11965人
・膵臓~  151人
・小腸~  1人
(11月末現在)


これらの事実が記されていました。
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国の責任と謝罪

<与党肝炎対策プロジェクトチーム(座長・川崎二郎元厚生労働相)と薬害
肝炎訴訟の原告弁護団は二十八日、東京都内で会談し、「国の責任と謝罪」
を盛り込んだ薬害C型肝炎被害者の一律救済法案の骨子案について正式合意
した。与党は来年一月七日に救済法案を提出、その週内の成立は確実。弁護
団は今後、現在訴訟が続いている全国十カ所の地裁、高裁で一斉に和解協議
に入るとしており、汚染された血液製剤を投与された被害者側が、国と製薬
会社に救済を求めてきた薬害肝炎問題は、全面解決する見通しとなった。>
(北海道新聞webニュースより)



ようやく解決に向けて動き出したようです。

今後どの様な方向に向かっていくのか、気になるところではありますが、な
にせこの国の事ですから・・・、原告の方々や実際に被害を受けた全ての人
が納得できる結果となるまで、しっかりとした対策を施して貰いたいもので
すね。

「国の責任と謝罪」が本物なのか、単なる選挙対策ではない事を信じたいで
す。

それにしても、病気とも闘いながら長い期間闘い抜く為のエネルギーは相当
のものであるはず。

そして、金額の問題ではない、といいつつも今後病気と向かい合っていく為
には、金銭的負担が大変である事は確かなだけに、国の責任において補償を
しっかりとして欲しいものだと思います。

一刻も早く全面解決し、原告団の皆さんの喜びの表情が見られる事を願いま
す。
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★ merry Xmas ★


クリスマスといえばプレゼント。

我が家は、子供達はそれぞれがパソコンが欲しいという事で、購入資金は自
分達の貯金で、少しだけそこに援助してあげるという事で一件落着。

で今回は簡単に文房具セットとサンタの足(お菓子入り)。

妻はといえば、遠慮しながらも札幌駅ステラプレイスで気にいったものをし
っかりゲット。

ワタシは・・・、自宅でクリスマスを迎えられた事が最高のプレゼント。



3連休の最後がイブって、なんだかずっとクリスマス気分でいられるようで、
これがいいのか悪いのか。

それにしても世知辛い世の中、つかの間の幸せ気分を感じられただけ良かっ
たんでしょうね。
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寿司喰いねぇ

あがり、あがり、あがりがりがり♪、ばっかりだったんですけど・・・

それがついに・・・




珍しく妻の仕事が平日休みだったので、二人で定期検診の為、病院へ。

採血の後、先日から入院中の闘病仲間のSさんのお見舞。

思ったより元気そうで安心したものの、入院が正月をまたいで、しかも正月
は一泊しか認められないと入院早々言われているそうで、思わず一昨年を思
い出してしまった。

Sさ~ん、早くソコから抜け出してきて~。


診察は午後からだったので、札幌駅前まで行ってみたり適当に時間をつぶし、
とはいえ、妻は気にいった服をステラプレイスでしっかりゲット!


午後からとはいえ、案の定診察は遅れ気味。
予定より2時間弱遅れて診察開始、結果は特に問題なく、次回検診は6週間
後まで延びた。


という事で、ずっと聞きたかった質問をF先生に直撃!


「先生あの、食事の事なんですけど、まだ生ものとかは食べない方がいいん
でしょうか。」

「いや、もういいでしょう。一年は経ってる訳だし。」



ついに解禁になりました!

とは言っても、やはりいざ食べるとなると戸惑ってしまいそう。

あまり貝類は食べる気がしないし。
なんと言っても2年以上、生ものを口にしていない。


まっ、しばらくは鮮度の良さそうな物から少しずつ、という事になるだろう。





あがり、あがり、あがりがりがり♪、ばっかりだったのが・・・ついに、

寿司喰いねぇ~寿司喰いねぇ~
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なぜできない?一律救済

薬害C型肝炎訴訟、結局和解協議は打ち切られた。

バツの悪そうな桝添厚労相の顔をTVで見ていると、本当にこの国は役人天
国なんだなぁと感じる。


当たり前の事がどうしてできないのか。不思議でしょうがない。




<法務省幹部は「司法の判断をまったく無視した政治決断が求められたのは
初めてのケース。今後、裁判制度自体を無視する前例となる危険がある」と
いう。>


あほかっ!。今後の論議はあさってにしやがれ!(少し言葉の乱れが)

すぐ都合が悪くなるとこの論理。
国民にとって有利な前例はすぐ抹消するくせに。




<「被害者が多い薬害肝炎の場合、今後の追加提訴者数を予想しにくいこ
とが、一律救済に踏み切れない要因」という指摘もある。実際、法務省内で
は総額1800億、5700億円といった賠償額が試算されている。2兆円
という試算もあったという。>


2兆円でも3兆円でも払いやがれ!(更に言葉の乱れが)

無駄な事業をやめてさっ、不必要な独立行政法人を解体してさっ、役人で天
下った人間を牢屋へ入れてさっ、議員の数を半分にしてさっ、暇な官僚の数
も1/3にしてさっ、煮てさ、焼いてさ、食ってさ。ほいほいっと。




<ある厚労省幹部は「どんな医薬品も必ず副作用がある。国の責任が認めら
れていない患者まで救済対象にすると、究極はすべての副作用を補償対象に
せよとなる恐れもある」と話す。>


ここで究極の話しをするな!!

ワタクシ、免疫抑制剤の副作用、補償求めませんから。(お代官さま~)




<与党のある厚労相経験者は「役所を呼んで、『何とかならないか』と協議
したが、役所側は一律救済には強硬に反対していた」と証言している。>


いっそのこと、この際、厚労省の役人を、全て病気で苦しんでいる人に任せ
てしまっては。

あと国交省を道路工事に携わっている人とか、交通整理のお兄さん。
ワタシもその中に。

農水相は元農家のウチのじいちゃん・・・。






それにつけてもC型肝炎原告団の皆さん、その心中は幾ばくのものか。

ここまで頑張ってきた皆さん、きっと一度目の「病気との闘い」には負け
ない。

でも、それなのに、二度目の「理不尽な敵」が立ち塞がる。

一度ならず二度までも、絶望の淵に立たせてしまっていいのだろうか。
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難病の自覚

昨年に引き続き・・・

サンタ苦労する?・・・サンタ・クロウ・スル・・・サンタクロース!




・・・・・・・・・

一時はもう治らないと思って諦めかけたこの病気、劇症肝炎


国の難病指定121疾患、しかもその中でも特定疾患給付事業対象45疾患
のうちの1つ。

日本での年間患者数約1000人、亜急性型の場合だと、数年前だと移植で
きたとしても救命率が10~20%だったというからまさに難病。

急性肝炎から劇症化する原因すらわかっていないという。



今でこそ移植技術も薬も発達し、救命率も上がっているが、本当に良く助か
ったものだと思う。




移植手術が終わり、脳症が続き、回復しない状態での検査、検査、検査。
そして回診の度の医師達の暗い表情とはっきりしない言動。

溢れんばかりの薬の山と常に繋がれた点滴とドレン、それにインスリン注射。

あれだけ拒否していた移植をした上でのこの状態には、自分として、当時は
難病というカテゴリーで括る事さえできなかった。




劇症肝炎の場合、ほとんどの人がきっと予備知識無しにその世界に引きずり
込まれると思う。

「あっ」という間に生きるか死ぬか。
そこに難病を抱えるという自覚は起こらないのでは。


自らも、難病を自覚し始めたのは再手術の数ヶ月前から。

その頃になってようやく、外の情報を自分の中に取り込めるようになった。

このブログを始めたのもその後で、「劇症肝炎とは何か」という事を少し
ずつ知る事によってやっと難病という自覚が生まれた。




最近になり、この意識が薄らぎつつある。

相変わらず薬漬けの日々は変わらない。
再発の恐れが無いわけでもない。
そして今もいつ入院になってもおかしくない状況だ。

保険と絡んで、診療費や薬代の心配は尽きない。

にも拘わらず普通に仕事をし生活している。

常に痛みを抱え、まともに運動も出来ないのに、とりあえず「普通」なのだ。

理想のレベルを自分で下げてしまっている、というのはあるが、難病を抱え
ているという感覚は確かに薄らいでいる。



世の中にはもっと大変な難病を抱え、大変な思いをされて闘っている方がた
くさんいる。
その方達と自分を比べ、安心する気は毛頭無いが、励まされる事は確かだ。




それなのに・・・ 

年金の問題、老齢者医療制度の問題、薬害訴訟の問題、医療費負担増の問題、
医師過労死の問題etc・・・

自覚の欠けた為政者が無知のまま重要な問題をやり過ごしていく・・・

国民のお金、大金を海外に拠出できるのなら・・・



福田さん、含み笑いをしている場合じゃありませんから!
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蘇る記憶

ずっと不思議だった事、それは移植手術前後の記憶がはっきりしない事。

それが、脳症などの為に元々覚えていないのか、それとも手術等の影響で忘
れてしまったのか、それさえも良くわからなかった。

何か、「あの時、こうだった」と言われても、思い出せないものは全く思い
出せないでいたので、それはきっと、その時は自分の中で物事を理解できて
いないものだと思っていた。ずっと。


ところが最近、断片的だが当時の記憶が蘇りつつある。


昨夜も妻と何かの話しの中で、T先生の話題だったと思うが、



妻「そういえば最初、移植決定の話しを最初に聞いたのもT先生なんだよね」

 「病室にT先生来て移植の話しを始めたら、パパがさぁ、「まだ移植の事、
  妻には話してないんです」って言って、T先生慌てていた」

私「へっ、じゃぁなに、移植が決まったって自分一人で聞いたの?」

妻「そういう事になるよね」

私「えっ、ちょっと、全然覚えてない。家族集められて自分以外が聞いてる
んだ、って思ってた」



と言いつつ、妻にそう言われて思い出した。

確かに自分で聞いた。どの先生だったかまでは思い出せないが、自分一人で
聞いた。

「もう手は尽くしたので、あとは移植しかありません。幸い、お姉さんが
ドナーに適合してますから、大丈夫ですよ」


簡単に言うとこんな内容だったと思う。




そして気持ちを落ち着かせた後、姉に電話をし、やっとの思いでその事を伝
え、姉からは、

「そっか、わかった。しょうがないっしょ。あんたも頑張ったんだから。こ
れから私も頑張るから。心配するんでない。大丈夫だから。」



昨夜、2年を経て、そんな会話まで思い出してしまった。



人は何かのショックで、自分にとって良くない事を忘れてしまう、という話
しを聞いた事があるが、移植手術やその後のICUでの数日、更に肝性脳症
を経験する中で、辛い思いを一度消し去ってしまったのかもしれない。


今年になって、体調の回復とともに、あの時はこうだった、誰がどうだった
と会話する事ができるようになった。


それでも未だに、移植手術の数日前から、術後一般病棟に戻り何日か経つま
での事は思い出せない。

唯一覚えているのは、ICUでの、あの恐ろしい脳症による幻覚体験だけだ。


数少ないであろう嬉しい記憶は良いけど、大多数はきっとこのまま思い出さ
ない方が身の為なんだろうなとも思う。

もし、何かのきっかけで、苦しくて痛くて辛い、恐怖真っ只中の記憶が鮮明
に蘇えったりしたら・・・・
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看護師への一歩

ドナーになってくれた姉の長女Sちゃん、来春には晴れて看護師としてスタ
ートする。

残念(?)ながらH大病院ではないが、同規模の総合病院。

今日、頼りない叔父ではあるが、保証人として署名・捺印した。


ワタシの闘病中は既に看護師を目指し勉強中で、当然ながら母親である姉の
ドナー手術も真近で体感してきた。

看護師を目指す途中で味わう事になった家族の一大事をどんな気持ちでみて
きたのだろう。

きっとSちゃんの事だからたくさんのものを吸収してくれたに違いない。

普通はあり得ないような現実に、看護師の卵として身近で接してきて、少し
でも得るものがあったならいいなと思う。



聞くところによると救急外科部門を望んでいるそうで、そこはおそらく生死
が一瞬の判断で左右される厳しい場所のように思う。

いきなりその厳しい環境から看護師としての一歩を踏み出す事は、相当な勇
気が必要。

でも、家族の厳しい現実を目の当たりにしてきたSちゃんなら、どんな場面
でもきっと乗り越えていくんだろうな。


来春、雪解けとともに、Sちゃんの看護師生活はスタートする。
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一年経ったのに

肝臓の数値はなんとかかんとか良いところを保っているのに、思うようにい
かないのは・・・、肩。

いまだに右腕は肩から上に上がらない。

ちょうど去年の今頃から痛みが起こり、年明けと共に痛くて上がらなくなっ
た。

しばらくは我慢していたが、治る気配もなくH大病院の整形外科を受診。
X線検査の結果は骨等に異常はなく、長期入院による筋肉の劣化からくる痛
み、いわゆる四十肩、五十肩に近いものとの診断。



その後、移植の定期検診ではS村先生に、


「あぁ、それね、大丈夫、一年経ったら治るから」

「い、い、一年ですかぁ」

「四十肩、五十肩っていうのはね、一年病とも言って、大体半年から一年す
ると治るから。心配しなくていいよ」


と言われて、喜んでいいのか、悲しんでいいのか、それでも時々リハビリを
しながらなんとか過ごし、夜は寝返りも打てず、高い物を取る時も、戸を開
け閉めするのも、全て左手でこなし、買い物袋を右手で持って軽く運動をし、
車のハンドルには軽く添えるだけ、簡単なスポーツもできず、それでも、そ
れでも、少しずつ鍛えながら、やっとたどり着いた一年目、


・・・・・・・・・治らん!



このままでは楽しみにしていたスキーに行けない、

夜中、突然の痛みで熟睡できない、

雪道の運転が怖い、

文字が書けない、

そして何よりも、年末の大掃除ができな~~い!



もし本当に一年病なら、そろそろ良くなる兆候があってもいいのに。


肝臓の調子が悪くなって、肝生検にでもなったらそれこそ大変、身体を右下
にして圧迫できませんから。
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薬害C型肝炎訴訟に想う

連日のように報道される薬害C型肝炎訴訟のニュースを目にするたび、いつ
も複雑な心境になる。

原告団の方々の表情はいつもみな、涙、涙、涙。

悲痛なその表情の奥に、想像もつかないような「思い」が詰まっているのだ
ろう。



自分のB型肝炎とは、その発生原因も過程も病状も治療法も異なる。


出産や手術の際の血液製剤の投与が原因とされるC型肝炎は、明らかに製薬
企業や適切な対応を取らなかった国の犯罪だ。


その犯罪に対して現在闘っている原告団の皆さんは、あくまでも線引きを許
さず、全員救済を求めているが、その身を挺して今後発症するであろう多く
の患者予備軍の為にも、しっかりとした対応を求めている姿に、感銘する。


にも拘らず、今日のTVニュースなどの論調を見ていると、今後明らかにな
っていく肝炎患者の数に対して、その対処費用が想像もつかない額で、財政
的な問題を上げる声が多かったが、それってちょっとおかしくないか。

年金問題の時と同じような言い方がまかり通ってしまってなんだか変だ。


今後どの位の保障が必要か、おそらく見当もつかないだろう。

でも例え莫大な金額が必要になるにせよ、全員救済が当たり前じゃないです
か。
何をもって、誰が線引きをするのか。


貰えるはずの年金を貰うのは当たり前の事であり、救済されるべき患者が、
救済されるのはどんなにお金が必要であろうと当たり前。

その責任の所在をはっきりさせる事も当たり前だし、再発防止の為に国を上
げて全力を尽くすのが当たり前だと思う。


もし、万が一、それを否定するものがあるなら、それこそ、その理由を国な
り、関係企業なり、関係省庁等が調べて示せばいい事だ。


なんでもかんでも国民に押し付け、権利を奪い義務だけを求めようとする、
そんな政治家や官僚に、命まで奪われたくないですからね。






今ではTV等で見ない日が無いくらいの薬害C型肝炎訴訟の原告団の皆さん。

病気と闘う事になってしまった以上、きっと心の底からの笑顔を見る事はで
きないかもしれない。

でもせめて、一刻も早く今の、国・企業との闘いに勝って、つかの間の安堵
の笑顔を見られる事を願うばかりです。

きっとそれが病気との闘いにも勝利する事に繋がるのではないかと・・・。






・・・かくいう自分のB型肝炎ウイルス、移植前にはその感染経路が問題に
なった。

その原因によって治療方法が異なるのだ。(移植においては、切除する肝臓
の範囲が変わるのです)

<この詳細に関しては、又別の機会に>

で、現時点で最も考えられるのは、幼少期の集団予防接種での注射針の回し
打ち。

そしてこの事については、現在集団提訴の動きもあり、相談窓口も設けられ
ている。・・・
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再手術ヘ向かって~覚悟

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<・・・一年前>

・・・2006年 7月7日


妻の必死の訴えで、やっとT医師が反応してくれた。

T先生とすれば、たまたまその時その場にいた事で、訴えられたわけだが。

それでも今更新しい話しは無く、それまで何度も聞いていた内容が中心だっ
た。



 ・後空域は状態が良いのでチューブの挿入は必要ない。

 ・前空域(この時点でチューブの入っている所)はチューブが交差部まで
  到達していないので、改善する必要がある。


 →これをどう解決するか

 ・さらにチューブを差し込む(第一外科でやるか、放射線科でやるか)
  しかし、これは難しい。
  
 ・開腹手術(決して簡単ではない)
  そして手術となると、シャントの手術と同時手術となる。




7月6日、前日の胃カメラに続きDIC-CTという造影剤を点滴しながらの
検査が行われた。



そして3日、6日、10日と、仕事に関する電話、メールが立て続けに入る。

自分の身体の事で精一杯で、ストレスで潰瘍になる状態であるにも拘らず、
仕事の話しには敏感に反応する。

もちろん、この時の状態ではどうする事もできないが。

もう元のように、普通に仕事をする事はきっと無理だと、思わざるをえなかっ
た。それどころか・・・。



7月7日、道東に住む妻の父が入院。

義姉の手術の時もそうだったが、こんな時に妻を実家に帰してあげられない
事は本当に辛いし、情けない。


「帰ってあげなくていいの?」

「こんな時に帰れるわけないしょ」


何度も繰り返した会話だ。




 この日の午前中、造影X線検査の後、T先生の説明で12日のPTCDが
決定した事と、それが失敗した場合、手術となる事を聞いた。

そして同日夕方の外泊許可が出る。


PTCDでは上手くいかない事はわかっていた。
患者の本能だろうか。

手術の覚悟は決まった。

それなのに、この時点ではその手術の方法さえ決まってなかった。




自宅に戻って、翌8日、9日は次男のサッカーの試合。

この時だけに限らず、6年生として、小学校最後のシーズンの勇姿を見る事
はほとんどできなかった。
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再手術ヘ向かって~妻の訴え

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<・・・一年前>

・・・2006年 7月4日


6月頃から知らず知らずのうちにストレスが溜まってきていたようだった。

痛みがまったく改善されぬ上、放射線科での治療の為入院しても、それが
かなわず、しかも神経科まで受診させられ、なにより先行きのめどがほと
んど立たない状況でイライラはつのるばかり。

現状の辛さ、痛みよりも、それがその先どうなっていくのかわからない事
の方が遥かに苦しくてストレスの溜まるものであるという事を、この時は
嫌という程味わっていた。



この頃、第一外科、放射線科、第三内科の三科で今後の治療方針が話し合
われていた。


そしておそらくストレスが原因だと思うが、腹痛の他に胃痛を伴ってきて
いた。


7月4日、胃の内視鏡検査。


胃カメラはそれまでも何度も受けてきているので、それ程抵抗はなかったが
この日の検査は違った。

最初、通常の検査器具を使って始まったが、思うようにいかないらしい。

時間がどんどん過ぎ、さすがに喉の痛みと不快感、それにいつもは感じない
胃内部の痛みが襲う。


そのうち、検査医師が


「中々カメラが入っていかないんですよ。手術でかなり胃が変形してるので
十二指腸までは届かないです。ちょっと器具を替えてもう一度やってみても
いいですか。」


「・・・ふぁぃ(言葉が出せない)」


心の中で、「早くしろよ!」と叫びつつ、睨み付けてやると、


「今、他の検査で器具全部使っているみたいなんですよ。う~んぅ」


さらに心の中で、「初めから用意しとけよ!」と叫びながら怒りは強くなり、


「今日はこれまでにして、明日もう一度、安定剤を使って眠った状態でやり
ましょう。でないと苦しいでしょう。」


さらにさらに心の中で、「だったら初めからそうすれよ!」と叫びながら怒
りは頂天に!



後にも先にも、1時間近くもカメラが胃の中に入っていたのは、この時だけ
です。

検査でさらにストレスが増し、胃痛も激しくなったような。



結局、翌日安定剤を使用し、ほぼ眠った状態で内視鏡検査。

(ちなみに安定剤を使った、胃の内視鏡検査は入院患者のみで、外来では
 できないそうです。)

結果は、案の定十二指腸潰瘍。しかも相当大きいものである事が判明。

強い薬の為とストレスによるものと診断された。




この夜、先生からは苦し紛れの今後の方針説明があった。

それは、ず~っと我慢に我慢を重ねてきた妻が、ついに切れたから。



「先生、このままの状態がいつまで続くのですか!
こんな事じゃ、普通の健康の人間だって参ってしまいます。
ストレスだって普通じゃないですよ。せめて今後の治療方針とか、少しでも
はっきりしてもらわないと、このままじゃ・・・」


涙ながらの、そしてあまりの迫力に聞いていた先生は顔色が無かった。



そしてこの訴えをきっかけに、再手術へ向かって進んでいく。

まだ手術以外の可能性は残されていたが、もう自分の中では決まっていた。



再手術しかないと。
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流行語大賞

今の世の中、「どげんかせんといかん」事がたくさんありすぎるぅ。

「そんなの関係ねぇ!」って言ってられないから、みんなで何に対して
も「どんだけぇ~」と突っ込める気持ちを持ちたい。

その中でも「消えた年金」や「食品偽装」は特に許せない。

何を信じればいいのか。

いい意味での「鈍感力」は必要だが、世間の波に乗り遅れると、誰もが
「ネットカフェ難民」になってしまう時代だ。

来年こそは不況をものともせず、、真夏の「猛暑日」には皆さんで美味
しいものを「大食い」しに、涼しい北海道ヘ、ってのはどうだ!



来年は「ハニカミ王子」より「マスク王子」の年だ!

でもやっぱり来年の流行語大賞は「がんばれ!肝臓くん。。」でどう?

どう?どう??ねぇどうよ???・・だめ?!
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「元気、かな」 ・・・病人の主張

昨晩は懐かしい人達と忘年会。

一年振りに顔を見る方達ばかりだったが、さすがにこの歳になると皆、前回
と変わらず、でも更に元気。

まだまだ体力には自信がないので2次会から参加させてもらったが、お父さ
んもお母さんも、パワーは全開、思わず一緒に酒を飲みたくなってしまった。


なんだかんだでお開きは午前2時半、寝たのは3時になってしまって、病気
になってから一番夜中まで起きていた事になるが、でもほとんど疲れは感じ
なかった。



除々に体力が回復しているのか、少し自信が持てたかな。



もっともっと体力があれば、昔のように、我を忘れて、飲んで騒いで、歌っ
て踊って、次の日の事なんか何も気にしない、そんな事が又できたらもっと
楽しいのに、と、ふと思う。

でもこんな事、口に出したら怒られるだろうな。
心配かけて、お世話になった、あの人にもこの人にも。


でもでもこのブログでだけは叫びたい!


「もっともっと、思いっ切り騒ぎたいよう~~!!!」
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