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自己管理表

2005年12月、肝性脳症の症状が治まってきた頃、「自己管理表」を渡
された。
当時の担当看護士のNさんが作成、頭のリハビリを兼ねてのものだったと思
うが、最初は字を書く事さえままならず、かなりの負担感もあった。

その後、管理項目が徐々に増え、最終的にはA4版に、一週間単位で

・体重・脈・血圧・血糖値・水分摂取量・排便回数・免疫抑制剤の量

これらを一日3回、自分で測定し記入していく。

慣れてくると要領も得、すっかり日課になってしまった。


これは薬の管理と共に、入院中・退院後も自分の体を守る上でも、意識的な
上でも、とても役にたった。

移植患者にとっては自己管理は大変重要。
術後の感染や拒絶反応など心配事は絶えないが、体調が改善されてくると
どうしても油断する部分が出てきてしまう。

自己管理意識を高めるのに、この自己管理表はとても有効だった。


看護士のNさん、何度この管理表、作り変えてくれただろうか。
その時の状態や要求されるものに従って、その都度変更してくれた。

今はちょっと測定をサボリ気味。
きっとNさんが知ったら怒られるんだろうな。
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できない退院

元々は15日だったんです、今の仕事の納期。
でも、ここ3日連続で催促の電話が!

昔は・・・、会社勤めしている頃、常套句だった「今、そちらに向かってます」
催促の電話が来た時にに苦し紛れに良く言っていた文句です。

しかし、今やデジタルの時代。
なんでもメールでやり取りするので、間違っても使えません、この言葉。
「今、送信しています」ったって、移動時間は無いに等しいですもんね。




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<・・・一年前>

・・・2006.1月16日


正月早々の腸炎による激しい腹痛も次第に治まっていき、16日、朝の回診。

「順調に良くなっていますよ。でもいきなり退院するのは絶対に良くないので、
外泊を繰り返しながら、慣らしていきましょうね」

気持ちとしては一刻も早く退院したかったのだが、ようやく先生から具体的に
退院という言葉を聞いて、とにかく嬉しかった。

この時点では、体調は悪くも良くもなく、といった感じで、検査値も高いなりに
安定していた。

不思議だったのは、同じような過程をたどった、他の移植患者が、どのような
状態で退院していくのか、とい点。

当然の事ながら、看護婦さんに聞くと
「その患者さんによってさまざまですから」
となる。


帰宅したとしても何ができるのだろう、という不安も大きかった。
自宅でさらに段々と良くなっていく、という感覚も、正直、まったく感じなかった。


とにもかくにも、この週末から外泊が始まった。
しかし、採血を1回しかとばせない、と言われ、土曜日に採血を済ませた後、帰宅。
そして月曜日の早朝の採血には病院に戻る、という慌ただしさ。

外泊が始まるのと同時に、今度はまた、リハビリと検査検査の毎日。
平日はほぼすべてそれらで埋まった。

2週間に
X線検査~5回
MRI~2回
CT~2回
肝GSA~1回
肝生検~1回
超音波~1回
他に第2内科受診2回、歯科受診2回、リハビリ・・・etc
と、こんな調子だ。

まるでこれから手術を受けるかのよう。

こんな状態だから、退院できるような感じではなかった。
案の定、検査値は一向に良くならない。


それでも26日の回診では、「肝機能値に異常がなければ、2月3日退院予定」
と言われたが、全然実感もなく、期待もあまりしていなかった。


そんな時、頭をよぎるのはシャントのこと。
また開腹手術をしなければならないのか、なんとしてでもこのまま回復してくれ、
そう思いながら、葛藤の日々が始まる。
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インスリンと低血糖

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<・・・一年前>

・・・2006.1月


1月になり、思うことはただ一つ、退院のこと。
順調に回復に向かっているようだったが、決定的に数値は良くならない。

ただ、悪くもならない。
相変わらず検査検査の毎日の中で、困ったことが血糖値が不安定だったこと。

薬の副作用もあり血糖値が高くなってしまった。
時には測定器の限界を超え、600以上になってしまうこともあった。

インスリンの注射で調整するしかないのだが、これが1日、3回~4回、毎日
繰り返さねばならず、しかも、いつからか外泊に備え、自分で測定、注射を
するようになっていたので、薬の服用と同じくらい、1日の比重を占めるよう
になっていた。

肝機能と薬の副作用の為、とは説明されていたが、もしこのままずっと続くの
ではという不安は強かった。


検査の為には、左手の中指・薬指どちらかから採血し、インスリン注射は腹に
注射針を刺す。
指も腹も段々と刺す場所が無くなっていくのだ。


そしてもっと恐ろしいのが低血糖。
逆に血糖値が下がり過ぎると、意識を失ってしまうこともあり、血糖値が60
位を下回った場合などは、糖分を補給しなければならない。


血糖値が上がった時は必ずと言っていいほど、看護士さんに、「直前に何か
食べました?」と聞かれるのだが、けっしてすべてそんな事ばかりではない。
自分としても、血糖値はかなり意識していたので、当然食べる物・飲む物も一
応気を使っていたつもり。

むしろ、差し入れの甘いお菓子を食べて、「まずいかな」 と思った時のほう
が、それほど高くなかった。
「やっぱり、食べる物はそんなに関係ないよね」と妻と良く話していた。


(→ちなみに現在はすっかり安定し、測定自体、たまにする程度で、インスリ
ンはもう何ヶ月も使っていません。)


まさかこの病気で、糖尿病のような状態になるとは考えもしなかった。
詳しい知識はまったく無かったので不思議でしょうがなかった。
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腸炎

病気になって以来、味覚が頻繁に変化している。
入院中、無性に卵焼きが食べたかったり、退院後、ブロッコリーが食べられなく
なったり。

今は肉類よりも魚、魚よりも野菜、という感じだ。
菓子は一時期、ヨーグルトとかりんとうしか食べたくなかったが、今はかりんとう
を食べるとやたらもたれる。

最近、一気に50Kgから58Kgまで増えた体重が、また2Kg減った。
食生活の変化のせいなのか・・・、あ、あんなに飲んでいたアルコールを飲まなく
(飲めなく)なったせいだ。きっとそうだ。

じゃあなんだ、70Kgあった時は、体はアルコールだらけだったのか?!



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<・・・一年前>

・・・2006.1月6日


正月休みを終え、3日に病院に戻ってから、4日も5日も検査と診察。
すっかり正月気分も覚めたと思った6日、いきなり腹痛だ。

診察の結果は腸炎。
結局はっきりと原因がわからなかったが、8日まで丸3日間苦しんだ。

今思えば、これが後々ずっと苦しめられた激しい痛みの始まりだったと思う。


腹痛も9日になるとかなり楽になり、気持ちだけは1月中には退院する気になって
いた。自分だけは。
一刻も早く退院したくてたまらなかった。

検査値等の数値的な根拠はまったく無かったが、1月で移植から4か月経つことに
なるので、そろそろかな、と。


そして仕事は1月から繁忙時期に入る。
こんな所にいつまでも居られない、という思いが頭の中に充満していた。
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2006年の始まり

春はあけぼの。日々眠たいです。(アンモニアのせいではありません。)



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<・・・一年前>

・・・2006.1月


元日に続いて2日も早朝から採血の為、病院へ。

何をするでもなく、ただ自宅に帰れたこと,正月を家族と共に過ごせたこと
が、うれしかった。

そして約束の3日、病院へ戻らねばならない日。
この日も採血。正月の余韻に浸っている暇などなかった。

同居の両親と祖母に別れを告げ、妻の運転で病院へ。

病院へ着いてみると、正月を病院で迎えた人が結構いた。
正月に自宅に帰ることができただけ幸せなのかと思ったが、そんな気分も
すぐに吹っ飛んだ。

早速検査に継ぐ検査。
正直、あまり状況は良くないのか、と思わざるをえなかった。
確かに、自宅では精神的にゆったりできたことはできたのだが、何か落ち着
かないというか、不安だったのだ。

そしてその不安は的中する。

最悪の2006年の始まりだった。
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2006年の正月 Part Ⅱ

最近の状態といえば、やはり貧血症状が強い。
だから、朝起きてから軌道にのるまでが大変だ。

それに右肩痛。リハビリの様なこともしているのだが、なかなか改善しない。
相当、なまっていたんだと思う。

雪も融け、暖かくなってきたので、外で運動と光合成だ。




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<・・・一年前>

・・・2006.1月


大晦日、やっと自宅ヘ帰ることができたが、やはり体調はすぐれない。
翌日のこともあるし、早々に就寝だ。

年が明けて元旦、この日も採血の為、早朝から病院ヘ。
雪道の為、一時間はかかる。

まだまだ運転などできる筈もなく、妻の運転で6時30分には出発していた。



正月気分などあるはずもなく、ただ4か月半振りに帰宅できたことだけが嬉しかった。

でもなんだか自宅に戻っても、落ち着かないというか、不思議な感覚だった。


その後の苦しく辛い1年を、予感していたのかもしれない。
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楽しむという事

大学時代の友人に言われた言葉で、今までずっと残っているものがあります。

これは、これまで常に大事にしてきた言葉で、自分を楽にさせてきてくれた言葉
でもあります。

彼とは部活動で4年間、共に汗を流し、同郷ということもあり、違う学部ながら、
プライベートでも良く行動を共にした。

卒業し、違う職種に就いていましたが、新卒当時はバブルの真っ只中。
1年目から残業に追われ、毎日、3時(夜中)の帰宅、3か月休み無し、という頃、
電話で何気なく愚痴をこぼしていた時に言われた言葉です。

それ以来苦しい時辛い時、どんなに心の支えになったかわかりません。

でもさすがに、この闘病中、長い入院期間中、できなかった。

ようやく先が少し見えてきた頃、やっとこの言葉を思い出しました。



あのさあ、その苦しさをさあ、それさえも楽しんじゃえばいいじゃん。
悲劇のヒーローにでもなったつもりでさあ。そう考えたら楽になるよ。




ホント、楽になりました。
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突き付けられた現実

不二家のペコちゃん、復活おめでとうございます。
不死やのペコちゃんとなりますように・・。



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<・・・一年前>

・・・2005.12月


大晦日、雪道だと1時間かかる自宅への帰り道。
長かった。

入院中、「自動車が内臓(肝臓)に一番良くないんだよね。」
という話しは良く聞いた。
本当だった。
自動車の揺れが丁度肝臓あたりに響く。

きつかったし、自宅に着いた時は調子が悪くなってしまった。


12月、一瞬だけど退院の話しもあることはあったのに、結局、正月の一時
外泊が精一杯の状態だった。

10月の移植手術以降、思ったよりも検査値が良くならなかった。

体調は、悪いなりに安定していて、回診の時などは、医師に状態を聞かれても
早く病院を出たいものだから、いつも「調子いいですよ」なんて答えていた。


たぶんこの頃だったのか、検査値が良くならない(=肝臓が思ったより大きく
ならない)原因として”シャント”の話しをされるようになった。

移植手術時、肝臓への過大な血液の流入を防ぐ為、バイパスを作り、血液の
流れを分散させる方法をとった、との事。

その為、その後、落ち着いてから逆に肝臓への血流が不足しているのでは
ないか、という事。

結局これが8月の再手術につながるのだが、この時点では、どうやってこれを
改善するのか、具体的にまったく決まっていなかった。
案はいくつか説明されたが、どれも決定的なものではなく、必ずしも手術を
すれば良い、というものではないらしかった。

せっかく移植までしたのに、また手術をしなければならないかもしれない、
そして必ずしもうまくいく保障がない現実、この時あたりから手術を回避
すべく新たな闘いが始まった。

肝臓くんシャントマン
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2006年の正月

一昨日、UFOの様な物体を見た。
夜、子どもをサッカーに送って行く途中。(当然、子どもも一緒に見ています)

北方面の上空で数種の色を放ち、ゆっくり移動したかと思えば、急に停止。
翌日のラジオでも話題になっていたが、いったい何だったのだろう。



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<・・・一年前>

・・・2005.12月

12月28日、Kさんが退院していき、また4人部屋に一人になってしまった。

それまでも何度かあったが、さすがにこの時期でのこの状況は辛いものがあった。

自分は退院のめどさえ立たず、あとはそれから迎える正月に、なんとしてでも
外泊すること。

さすがに医師・看護士も外泊に向けて最大限の努力をして下さった。
26日には、肝生検・超音波・循環器科受診・4回採血、そして薬指導、と
一日にこなすハードスケジュール。

けっして良い状態だったわけではないので、これも仕方のないことと割り切って
いたが。

なんとしてでも帰宅しようと必死だった。


クリスマスにも帰れそうで帰れなかった、ということもあり、そんな気持ちを
察してくれたのか、看護婦さん達も一生懸命協力してくれた。


そんなこともあり、ようやく大晦日、4ヶ月半振りに帰宅できる事になった。
期間は1月3日まで。
しかも、採血の為、元旦はもちろん、全日、早朝の採血に通院しなければならない
という条件付き。

思ったのは、相当その時の状態が不安定なんだ、ということ。
医者からすれば少しでも目を離せないんだ、ということだった。

それでも久し振りに帰宅できるというという喜びで、すぐ不安は吹っ飛んだ。



12月31日、大量の薬一式を携えて、やっと、やっと我が家に帰宅する。

あんなに望んで、待ち焦がれた帰宅だったが、いざ着いて、家に入ると、ホッと
するよりも、なんともいえない違和感に包まれた。

まるで他人の家に入ったような不思議な感覚だった。
たった4ヶ月半空けただけと思っていたのに。

すっかり病室にいるのが当たり前になってしまっていたこともあるが、少し前まで
脳症の為に、何度も引っ越していたのだ。(想像の中で)


脳症とはいえそれはすっかりリアルな世界。

引っ越した家のデザインから間取りまで、すべて頭に残っていたものだから、
真の我が家が我が家として受け入れることができぬまま、正月を過ごすこととなる。
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さよなら、ほのぼの君。

北海道新聞連載漫画、「ほのぼの君」1万3千14回での勇退、御疲れさまでした。

・・・

明日は定期検診。どんな結果が待っていることやら 



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<・・・一年前>

・・・2005.12月

この年の師走、寂しいばかりの年末となった。

意識が回復してきて、リハビリも開始。
退院に向けて、気持ちも徐々に高まっていた。

薬の副作用で血糖値が高くなっていたが、インスリン注射も自分で打てるよう
訓練も始めた。

しかし、一度「退院」という言葉が医師から聞かれたのだが、相変わらず検査値
は好転せず、クリスマスに外泊することさえできなくなってしまったのだ。

残された目標は、正月に外泊できるようになる事。
まだまだ退院できない状況にあるということに段々と気付かされ、ストレスは
溜まっていった。

12月22日、大部屋に移って以来、自分にとっての最大の理解者だったSさん
が退院する。
何度目かのきつい手術を乗り越え、黙々と廊下で歩行訓練を続けていたSさん。
理解者であると共に、最初の目標となる方だった。

晴れやかな表情で去っていく姿に「本当にありがとうございました。くれぐれも
体に気を付けて下さいね」と必死に涙をこらえて言ったものの、正直なところ、
心は複雑だった。

そして、23日には気のいいKさんが退院し、28日には今も付き合いのある
Kさんが退院していった。

自分はというと、年末の外泊に向け検査に次ぐ検査。

しょうがないから年末だけは帰らせるか、といった感じで、着々と、事務的な
感じで事が済まされていった。

そうして、ようやく大晦日に、4ヶ月半振りに帰宅できることとなる。
そう、なかば強引に。


2005年は悪夢の様な一年になった。


そして2006年、さらにさらに、混迷と泥沼、痛みと苦しみの年明けとなる。
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リハビリに希望

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<・・・一年前>

・・・2005.12月~

ようやく正気を取り戻しつつあった12月初め、リハビリが始まった。

いきなりリハビリをしなさい、と言われても、関節等の体の痛みがあった
というわけではなく、最初はピンとこなかった。

場所と時間を指定され、2階のリハビリ室に行き、最初は問診。
病気のデータは当然届いているので、現在の状態なんかを自分なりに答えた
ような気がする。

いざ始まって何をするのかと思えば、まず歩行訓練。そして階段の昇降練習。

いくらなんでも歩く位は、と思っていたら、真っ直ぐ歩けない。
床のラインに沿って歩こうとするのだが、歩けないのだ。

あっちにふらふら、こっちにふらふらで千鳥足になってしまう。

更にショックだったのが階段。

4段位しかない練習用階段を登るのがつらい。
足が鉛のように重く、1段登るのさえやっとの状態。

周りにたくさん人がいて、先生もずっと見ているので、必死になって
やっていた。
しかもこの頃は、家に帰りたくてたまらなかったものだから、
「Mさん、大丈夫ですか。あまり無理しないで下さいね。」などと言われるも、
結果が外科の医師に伝えられるものと思い、
「全然平気です。思ったより体、動きますね。」なんて強がりを言っていた。


近くでは、70歳以上に見えるお爺ちゃんやお婆ちゃんがサイクルマシンを
こいでいる。しかも軽やかに。
平気な顔をしてこいでいる。

かたや、自分は上がらない足を必死で上げて、階段1段を登っている。

こんなにも筋力が落ちていたことがかなりショックだった。

一応、生まれも育ちも体育会系で、子どもの頃から運動に馴染んできたので、
それなりに体力にも筋力にも自身があったつもりだったのに、この、手術を
挟んだ4ヶ月間で、筋肉のカケラもなくなっていることにハッキリと気付か
され、まだまだ先は長いなあ、とあきらめの気持ちになっていた。


だけど、久しぶりに汗をかいたので、病室への帰り道、飲んだジュースは
格別においしかった。
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右腕が!

一昨日は整形外科へ。

右肩に始まり、右肘、右腕全体へと痛みが広がり、我慢しきれず病院へ行ってきた。
レントゲン検査の結果、骨に異常無し。
一年半近く振りに12月から本格的に仕事をはじめ、疲れは感じていたが、どうやら、筋肉不足が原因のようだ。

関節周囲の筋肉が足りないために神経に直接響くらしい。
ちょっと情けなくも、少しずつ鍛えねばと思う瞬間でした。

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