goo

GW

G.Wっていうと今まさにゴールデンウィークの真っ最中。
皆さん楽しんでますか。

でもGWはGWでもグラスウール。
そう住宅などの外壁に入っている断熱材。

ということで、ここは一つ、専門の建築話しを少し。

今我が家のマイカー、なんと12年前の新車。
見た目はまだまだいけそうなんですが、何度も修理を重ね、ついには
オイル洩れが止まらず風前のともし火。
しかもタイヤはスタッドレスタイヤの履き潰しで尚且つパンク気味。

という訳で、昨日行って来ました車屋さん。
まずは改変前の特別仕様車に希望通りの装備で見積もりをしてもらい
案の定、ビックリ価格。
これから徐々に値引き交渉と仕様変更、となるわけですが、これって
どこか別の所でも同じ光景が、と思ったら、住宅を買う時!

思わず妻に「こういう話し(金額)、あまり信用しない方がいいからね」

と建築の世界と同レベルの会話をしてしまいました。


買う時ばかりじゃありません。今流行りのリフォームもそう。
ちょっとした修理なんかもそうですよ。
坪○○万円とか、しめて○○千万円になります、とかそういった金額、
あまり信用しないで下さいね。

建築側の自分が言うことじゃないのかもしれませんが、又、関係各所か
ら非難されそうですけど、「信用しないで下さい!」

ご自分で判断できない場合は、必ず、利害関係の無い、第三者に関わっ
て貰うことが大事です。

本来、新築にしろリフォームにしろ、一つ一つの物にその単価を乗じて
それを積み重ね、その合計金額でその工事価格が決まるのです。

それが最初から頭金額ありきで、後から中身が付いてくる、といった
見積もりが、長年当たり前に行われてきました。
今はそれも少ない、とは思いたいですけど。

ですから住宅広告の 【坪40万の家】 なんていうのは全くと言って
いいほど、意味がありません。
その40万ってどこからきたのさってな話しです。

40万の中身は?となった時、そのメーカー、工務店、業者etcなどで
バラバラです。
広告の片隅に小さく、

カーテン・カーテンレールを除く、外構工事・屋外設備工事等一切含まず

とかいろんなこと、たくさん書いてあるはずです。
中には「そんなの外していいのか」って思うものもありますよ。

【坪40万の家】が最終的に 坪40万 でできた、という話しを
ほとんど聞いたことがありません。

それに何といっても問題なのは、耐震偽装に代表される構造落とし。
予算オーバー対策として、見た目のクロス仕様を安い物に、というの
であればなんら問題はありませんが、鉄筋を抜かれたり、コンクリー
ト強度を落とされたり、柱や梁が不十分だったり、基礎が緩んでいた
り、となるとそれこそシャレになりません。

検査が厳しくなれば、その抜け道を探るのが巧妙になるのはウィルス
と一緒。
抗ウイルス薬が開発されれば、新種のウイルスが発生するのと同じ
なのです。


くれぐれも”自分の目”で見て判断して、又、”自分の目”を養う努力
を怠らないで下さいね。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特定疾患医療受給者証

病気になってみて初めて医療保険の大切さを知りました。

そして移植手術の場合、その条件によって保険が適用になる場合、なら
ない場合で微妙なラインがあることも知りました。

「特定疾患医療受給者証」
この病気になるまで、いや病気になった後もしばらく、この言葉さえ聞
いたことすらありませんでした。

勉強不足と言われればそれまでですが、長い入院生活の中で、これを知
らず高い治療費を払った人の話しを良く聞きました。



思いもよらぬ病気で戸惑う中、医療費の事が頭をもたげ、透析治療で1ヶ
月間入院していたK病院で、看護士長さんから妻が教えて頂き、運良く
知ることができました。
この「特定疾患医療受給者証」の詳細はこのサイトにあります。
地域によってその内容に多少違いがあるようですが。


特定疾患の対象になる疾患は全国統一では45種類ありますが、その中
でも「劇症肝炎」は重症の部類に入るようで、少し驚きです。


実際に必要とした費用ですが、ワタシの場合典型的な劇症肝炎、よって
手術費用はもちろん、入院治療費、検査費、そして退院後の外来診療費、
全て保険適用となり、支払いは0です。

もちろん、病院着などは自己負担となりますし、他にもありとあらゆる
ことに金銭的負担は少なからずあります。


前述の話しですが、大部屋に移ってから色々な方の話しを聞くうち、こ
の「特定疾患医療受給者証」を知らないか、もしくは支払い後に他の患
者さんから聞いて初めて知った、という人がいかに多いかという事を知
りました。

問題なのは
・医療費を支払った後、受給者証を取得しても、支払った分は戻らない
 事。
・こちら(患者)側からアプローチをかけなければ、誰(医療関係者)も
 懇切丁寧に教えてくれない事。


実際、一年間の入院生活で、最大の情報源は大部屋での患者さん同士の
会話でした。(これは患者さん共通の思いだと思います)

これも自己責任なんでしょうか??

昔から良く聞いていたのは、健康保険にも、一般には良く知られていな
い救済項目があるという事。
民間生命保険会社の特約隠しと通じるものがある、と考えてしまうのは
ワタシだけでしょうか。


ところで「特定疾患医療受給者証」。
申請から受け取りまでが異常に長い。
それを知ってから有効期限の2、3ヶ月前から申請するようにしたので
すが、それでも期限切れ後に手元に届くこともありました。

更に、いつまで申請が受理されるのか、という話しですが、ワタシが
医師に直接聞いたところでは、「完治するまでは大丈夫ですよ」
ということでした。

そこで「完治」です。
我々移植患者は免疫抑制剤を一生飲み続けなければなりません。
「完治ってことは、死ぬまでずっと、ってことだよね」
妻とはこう話してます。
制度が変われば別ですし、もしかしたら地域間格差もあるのでしょうが。


法律や、お役所のさじ加減で振り回されるのは「ヘブスブリン」で充分
です。


難病ということで保険に助けられているのは間違いのないことですが、
ちなみに、一年間の入院生活、自営業のワタシの場合、その間の収入が
0だった事は言うまでもありません。
助かったのは、直前に入院特約付きのガン保険に入っていた事、キチンと
した生命保険に入っていた事、そして何よりも家族の協力があった事。

今は元気に働ける、この当たり前の事がうれしくてしょうがありません。


妻と二人の子供、両親、祖母、二世帯住宅一家7人の生活がみんなの
支え合いで成り立っていることが、幸せです。
コメント ( 2 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一度目の退院

----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006年 2月17日


退院が17日に決まった。

決まると退院に向けてやる事がたくさんある。
まず、薬を良く把握しなければならない。
外泊が始まった頃から、看護婦さんと薬剤師さんに教わってきたので、
少しはわかっていたつもりだったが、いざ退院となると簡単に考えるこ
とができず、何度もパンフレットを読み返していた。

そして血糖値の測定器のレンタル。
インスリンは処方されるが、機器類はレンタル。
これはH大病院の場合、第二内科の管轄となる。
以後の外来受診も、この件に関しては第二内科を受診することになる。

あと栄養相談も。
主に食事で注意しなければならないこと。
でもこれは、話しを聞いていて、あちら注意すればこちらかなわず、で
何を食べたら良いのかわからなくなった。
要するに、栄養があって新鮮なものを食べていれば間違いない、と勝手
に解釈してしまった。


14日には肝生検。
この時の先生の話しでこれまでの過程がやっと少しわかった。

・放射線科での治療を考慮しているうちに、それまで停滞していた肝機
 能値が、どんどん良くなってきたこと。
・それはおそらく、1月末から服用を始めた「アミノレバン」が有効に
 働いたのではないか、ということ。
・ただ、その状況があくまでも薬によって保持されているもので、今後
 シャントを閉じる必要性があるかもしれない、ということ。

こんな内容だったと思う。

どうしても引っ掛かるのはシャントの手術のこと。
そしてず~っとず~っと引きずることになる。


この日は(14日)、同室の3人が次々と退院していった。
今までも何度も4人部屋に1人になったことがあったが、それまでと違
って自分も退院を控える身、寂しさは無かった。

それから前日・当日までMRI、CT検査など受けつつ、2月17日、
やっと退院の日を迎えることができた。



2005年8月17日の突然の入院から、ちょうど半年が経っていた。
コメント ( 2 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

退院

今年は北海道日本ハムファイターズが不調。  
でもコンサドーレ札幌は暫定ながら現在首位。 

熱しやすく冷めやすい、と言われる北海道人気質。
(当たってます!)

だけど調子の悪い時ほど、誰かに助けて欲しいもの。
強くても弱くても応援していきます。



----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006年 2月10日


この日、退院に向け今後の方針を説明されるということで、妻と姉二人
が来院。
ここにきて肝機能値が改善されてきたこと、それでもまだまだ不十分で
あること、そしてシャントのこと。

すでに何度か話しを聞かされていたので、大体は理解できていたが、シ
ャントの閉鎖手術は、なんとか、しないで済むのでは、という希望的な
内容だった。

あまり期待できるものではなかったが、とにかく早く退院して、そして
退院してしまえばなんとかなる、そう考えることしかできなかった。


そしてまた、薬の量もかなり減らされた。

この時点で常時飲んでいたのは13種類。

中止となったのは
・カナマイシン
・ファンギゾン
・ゾビラックス
・オメプラール
・グラケー
の5種類。

継続されるのは
・プログラフ
・プレドニン
・ゼフィックス
・ガストローム
・スローケー
・ラクツロース
・ウルソ
・アミノレバン
の8種類。

多い時で20~25種類位は飲んでいたので、数としてはかなり減り、
少しだけ薬の負担は減った。



翌11日は退院前最後の外泊で帰宅する。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

退院できる?

今朝は月に一度の町内のゴミ掃除&廃品回収の日。

何年分もの図面と書類がクロゼットに詰まっていたので、これを機会に一気
に処分。と考え、不用な図面を次から次と廃品回収に。

3帖のクロゼットこんなに入っていたのかと、驚く程の量の図面の山。
今までは色々考え捨てられなかった物まで出した。
なんか病気を忘れるためと言わんばかりに捨ててしまいました。

後で困っても、その時はその時。スッキリした~。



----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006年 2月7日


この日の回診では以外な話しをされた。

思ってもいなかった放射線科での治療。
懸案であるシャントの手術を放射線科でやるというのだ。
やはり開腹手術は医師達も避けたいらしく、レーザーを直接患部に当てて
治療したい、ということで放射線科と調整中だということだった。

あまりに以外な話しだったので、あっ気にとられてしまった。
「なんで放射線科なの? 放射線科で何をするの?」

案の定、妻の反応もこんな感じだった。


こうしてシャントの手術に向けて、自分を取り巻く全ての人の迷走が始まっ
た。


ただ、こうも付け加えられた。
「現状はどんどん回復してきているので、今やる必要はありませんよ。
経過をみて、今後検討していきましょう」

これで少し安心したのだが、「今やらない」のではなく、「今やれない」
という状態だということに、後々気付くことになる。


それでも数値は良くなってきていたので、現実として”退院”に向け、具
体的な話しがあり、10日、家族と共に今後の方針を含め説明を受けるこ
とになった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マスク

今や必需品となったマスク。
免疫抑制剤を飲み始めてからは、人込みの中では常にマスクをしている。

もちろん外部からのウィルスの進入を防ぐため。

病院内では多くの人がマスクを着用している為、なんの違和感もないのだが、
一歩外へ出ると、結構怪しいものがある。

マスクにもさまざまあって、機能も形も大きさも自由に選べる。
最初の頃は外泊や一時退院の時など、真剣になって選んでいた。
真剣に選べば選ぶ程、形が特異なものになってしまって、外を歩いていると
かなり変な目で見られてしまっていた。

インフルエンザの季節や花粉が舞う時期は、マスクをしている人が多いので
まだいいのだが、銀行やコンビニに行く時はかなり気を使った。


特にこの冬は帽子をかぶった上に手袋、マスクという姿。
これはかなり怪しい。
慌てて帽子と手袋をはずしたことも何度もあった。

そして極めつけは3月の子どもの卒業式。
大多数が集まる上に体育館という最悪の室内環境。

この時は知り合いの看護婦さんにサージカルマスクという医療用の物をもらい、
手洗い、うがいもガッチリと。
ただこのサージカルマスクというやつ、色がブルー。

卒業式の会場に、おやじがスーツを着て、青いマスク、知らない人にはどんな
風に見えたことやら。


でもおかげで、インフルエンザにも風邪にも、まだ罹っていない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アミノレバンEN

この病気になって以来、体のどこかに常に痛みを抱えている。
手術後は傷の痛みであったり、結石だったり、腸炎だったり。

そしてドレンで胆汁を排出するようになってからは、右脇腹に開いた穴の
痛みなどなど。

そして今は右腕の痛み。
すっかり衰えてしまったにもかかわらず、仕事で酷使してしまい、残った
少ない筋肉の炎症。
整骨でリハビリ中だが、一年かけて悪くなってしまったもの、そう簡単に
良くなるわけもなく、夜中に痛みで目が覚めることも。


まあ、又一年かけてゆっくり治していく事にします。




----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006.1月下旬


すっかり横ばいになってしまった肝機能値。

退院の話しも少しずつ出てはきたが、気持ちは焦るばかりだった。


そんな時、担当の先生がこれを飲んでみましょう、と持ってきた薬が、

「アミノレバン」。

粉末だが200mlの水に溶かして飲む。しかも毎食後。

決して飲みやすい物ではなく、量が多いので、慣れるまでは一苦労した。

これで点滴が減るなら、という思いだけでなんとか我慢していたが、
なんとこれが、2月の退院へのきっかけとなる。


それまで、どんなに薬を入れ替え、試してきたのに一向に改善しなかった
肝機能値が、少しずつ良くなってきたのだ。
薬のせいだけではないにしろ、「Mさんの場合、何かが引っ掛かるんだ
よね」と言われ続けてきたその何かが良い方向に向いたのかもしれない。


こうなったら200mlでも2000mlでも飲んでやろう、とか、少し
前向きに考えられるように、やっとなってきたのがこの頃です。


病気が発覚し、最初の入院からそろそろ半年が経とうとしていた・・・。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

できない退院

元々は15日だったんです、今の仕事の納期。
でも、ここ3日連続で催促の電話が!

昔は・・・、会社勤めしている頃、常套句だった「今、そちらに向かってます」
催促の電話が来た時にに苦し紛れに良く言っていた文句です。

しかし、今やデジタルの時代。
なんでもメールでやり取りするので、間違っても使えません、この言葉。
「今、送信しています」ったって、移動時間は無いに等しいですもんね。




----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006.1月16日


正月早々の腸炎による激しい腹痛も次第に治まっていき、16日、朝の回診。

「順調に良くなっていますよ。でもいきなり退院するのは絶対に良くないので、
外泊を繰り返しながら、慣らしていきましょうね」

気持ちとしては一刻も早く退院したかったのだが、ようやく先生から具体的に
退院という言葉を聞いて、とにかく嬉しかった。

この時点では、体調は悪くも良くもなく、といった感じで、検査値も高いなりに
安定していた。

不思議だったのは、同じような過程をたどった、他の移植患者が、どのような
状態で退院していくのか、とい点。

当然の事ながら、看護婦さんに聞くと
「その患者さんによってさまざまですから」
となる。


帰宅したとしても何ができるのだろう、という不安も大きかった。
自宅でさらに段々と良くなっていく、という感覚も、正直、まったく感じなかった。


とにもかくにも、この週末から外泊が始まった。
しかし、採血を1回しかとばせない、と言われ、土曜日に採血を済ませた後、帰宅。
そして月曜日の早朝の採血には病院に戻る、という慌ただしさ。

外泊が始まるのと同時に、今度はまた、リハビリと検査検査の毎日。
平日はほぼすべてそれらで埋まった。

2週間に
X線検査~5回
MRI~2回
CT~2回
肝GSA~1回
肝生検~1回
超音波~1回
他に第2内科受診2回、歯科受診2回、リハビリ・・・etc
と、こんな調子だ。

まるでこれから手術を受けるかのよう。

こんな状態だから、退院できるような感じではなかった。
案の定、検査値は一向に良くならない。


それでも26日の回診では、「肝機能値に異常がなければ、2月3日退院予定」
と言われたが、全然実感もなく、期待もあまりしていなかった。


そんな時、頭をよぎるのはシャントのこと。
また開腹手術をしなければならないのか、なんとしてでもこのまま回復してくれ、
そう思いながら、葛藤の日々が始まる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インスリンと低血糖

----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006.1月


1月になり、思うことはただ一つ、退院のこと。
順調に回復に向かっているようだったが、決定的に数値は良くならない。

ただ、悪くもならない。
相変わらず検査検査の毎日の中で、困ったことが血糖値が不安定だったこと。

薬の副作用もあり血糖値が高くなってしまった。
時には測定器の限界を超え、600以上になってしまうこともあった。

インスリンの注射で調整するしかないのだが、これが1日、3回~4回、毎日
繰り返さねばならず、しかも、いつからか外泊に備え、自分で測定、注射を
するようになっていたので、薬の服用と同じくらい、1日の比重を占めるよう
になっていた。

肝機能と薬の副作用の為、とは説明されていたが、もしこのままずっと続くの
ではという不安は強かった。


検査の為には、左手の中指・薬指どちらかから採血し、インスリン注射は腹に
注射針を刺す。
指も腹も段々と刺す場所が無くなっていくのだ。


そしてもっと恐ろしいのが低血糖。
逆に血糖値が下がり過ぎると、意識を失ってしまうこともあり、血糖値が60
位を下回った場合などは、糖分を補給しなければならない。


血糖値が上がった時は必ずと言っていいほど、看護士さんに、「直前に何か
食べました?」と聞かれるのだが、けっしてすべてそんな事ばかりではない。
自分としても、血糖値はかなり意識していたので、当然食べる物・飲む物も一
応気を使っていたつもり。

むしろ、差し入れの甘いお菓子を食べて、「まずいかな」 と思った時のほう
が、それほど高くなかった。
「やっぱり、食べる物はそんなに関係ないよね」と妻と良く話していた。


(→ちなみに現在はすっかり安定し、測定自体、たまにする程度で、インスリ
ンはもう何ヶ月も使っていません。)


まさかこの病気で、糖尿病のような状態になるとは考えもしなかった。
詳しい知識はまったく無かったので不思議でしょうがなかった。
コメント ( 10 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな移植患者

病室のベッドに寝ていると、出入り口に引かれたカーテンの下から見えるのは
大人の足。
患者さんの足だったり、見舞いの方の足だったり、はたまた医師・看護士だったり。

でも時々、目と目が合うことがある。
小さな小さな移植患者だ。

1年過ごした7階外科病棟には、お母さんに伴われた2・3歳くらいの子ども達も
共に入院生活を送っている。

産まれつきの胆道狭搾で移植を受けた子ども達が多かった。

H大に転院して初めに驚いたのが、これだった。
自分のいる外科病棟に小さな子どもがいる事、そして皆移植手術を受けている事。

大人の患者さん達が、自分も含め、ある種の悲壮感を漂よせているのに対し、
子ども達は皆明るい。
わけがわからない、ということももちろんあるのだろうが、見ていてかなり元気
を貰った。


いつも考えていたのは、もしこれが我が子だったら、ということ。
もちろん条件さえ合えば、自分が真っ先にドナーになっていただろう。

痛さも辛さも上手く伝えられるのだろうか、とか、苦しみを表現できるのだろうか
とか、そんなことを思いつつ、また一つ考える。

それは・・・、肝臓を貰った身としては、万が一、万が一この先、子どもになにか
あった時、自分がドナーになることはできないんだ、ということ。

せめて子ども達には同じ思いはさせたくない。健康であることを願うばかりだ。
コメント ( 8 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グーグル アース

ず~っと、気になっていたもの、Google Earth。

今日、子どもと一緒にダウンロードしてやってみました。

すごいのなんのって、ちょっとした感動です。
なんたって地球上のあらゆる空撮画像が見れるんですから。

しかもその画像の鮮明なことといったら・・・、興奮でした。

ダウンロードはココから。


もちろん最低限のパソコンのスペックは必要です。
色々とシステムの最小構成が書かれていますが、大まかには下記のようです。


●4年以上前のデスクトップ コンピュータでは、実行できない可能性があります。
●2年以上前のノートブック コンピュータでは、実行できない可能性があります。


大人も子どもも純粋に楽しめます。

自分としては、好きなエジプト方面見たかったんですけど、子ども達、自宅付近とか
近所の神社とかスーパーとかばかり見て喜んでました。

世界は広いのか、狭いのか?!
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腸炎

病気になって以来、味覚が頻繁に変化している。
入院中、無性に卵焼きが食べたかったり、退院後、ブロッコリーが食べられなく
なったり。

今は肉類よりも魚、魚よりも野菜、という感じだ。
菓子は一時期、ヨーグルトとかりんとうしか食べたくなかったが、今はかりんとう
を食べるとやたらもたれる。

最近、一気に50Kgから58Kgまで増えた体重が、また2Kg減った。
食生活の変化のせいなのか・・・、あ、あんなに飲んでいたアルコールを飲まなく
(飲めなく)なったせいだ。きっとそうだ。

じゃあなんだ、70Kgあった時は、体はアルコールだらけだったのか?!



----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006.1月6日


正月休みを終え、3日に病院に戻ってから、4日も5日も検査と診察。
すっかり正月気分も覚めたと思った6日、いきなり腹痛だ。

診察の結果は腸炎。
結局はっきりと原因がわからなかったが、8日まで丸3日間苦しんだ。

今思えば、これが後々ずっと苦しめられた激しい痛みの始まりだったと思う。


腹痛も9日になるとかなり楽になり、気持ちだけは1月中には退院する気になって
いた。自分だけは。
一刻も早く退院したくてたまらなかった。

検査値等の数値的な根拠はまったく無かったが、1月で移植から4か月経つことに
なるので、そろそろかな、と。


そして仕事は1月から繁忙時期に入る。
こんな所にいつまでも居られない、という思いが頭の中に充満していた。
コメント ( 2 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まだ雪…。

いきなり…、大雪。
コメント ( 2 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年の始まり

春はあけぼの。日々眠たいです。(アンモニアのせいではありません。)



----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006.1月


元日に続いて2日も早朝から採血の為、病院へ。

何をするでもなく、ただ自宅に帰れたこと,正月を家族と共に過ごせたこと
が、うれしかった。

そして約束の3日、病院へ戻らねばならない日。
この日も採血。正月の余韻に浸っている暇などなかった。

同居の両親と祖母に別れを告げ、妻の運転で病院へ。

病院へ着いてみると、正月を病院で迎えた人が結構いた。
正月に自宅に帰ることができただけ幸せなのかと思ったが、そんな気分も
すぐに吹っ飛んだ。

早速検査に継ぐ検査。
正直、あまり状況は良くないのか、と思わざるをえなかった。
確かに、自宅では精神的にゆったりできたことはできたのだが、何か落ち着
かないというか、不安だったのだ。

そしてその不安は的中する。

最悪の2006年の始まりだった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006年の正月 Part Ⅱ

最近の状態といえば、やはり貧血症状が強い。
だから、朝起きてから軌道にのるまでが大変だ。

それに右肩痛。リハビリの様なこともしているのだが、なかなか改善しない。
相当、なまっていたんだと思う。

雪も融け、暖かくなってきたので、外で運動と光合成だ。




----------------------------------
<・・・一年前>

・・・2006.1月


大晦日、やっと自宅ヘ帰ることができたが、やはり体調はすぐれない。
翌日のこともあるし、早々に就寝だ。

年が明けて元旦、この日も採血の為、早朝から病院ヘ。
雪道の為、一時間はかかる。

まだまだ運転などできる筈もなく、妻の運転で6時30分には出発していた。



正月気分などあるはずもなく、ただ4か月半振りに帰宅できたことだけが嬉しかった。

でもなんだか自宅に戻っても、落ち着かないというか、不思議な感覚だった。


その後の苦しく辛い1年を、予感していたのかもしれない。
コメント ( 3 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする