カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

Go West、西本願寺へ。

2015-07-26 18:45:04 | しゃじ
♪東へ、西へ。ガンバレ、ガンバレ・・・井上陽水の歌のように?
今回は西本願寺しか訪ねていませんが、東本願寺との違い、
分かっているようで、知らないことも多かったので
簡単にまとめながら、書き留めておこうと思います。


〈御影堂門〉重文。



境内東面、堀川通に面しており、一番南にある門です。


〈総門側より堀川通を隔てた・御影堂門〉

総門から真っすぐの位置にあります。ということは正面通りの
どん突き?いやいや、西本願寺の境内西面は大宮通に面しており
正面通りはそこから千本通まで続いています。
すなわち正面通りは、大和大路通の方広寺から千本通までの間、
渉成園(枳殻邸)、東本願寺、西本願寺などで中断しています。

門の正面からは白壁の塀しか見えません。
これ目隠塀(めかくしべい)と言い、東本願寺にはありません。

〈目隠塀〉重文

〈阿弥陀門〉重文




〈阿弥陀門から御影堂を見る〉


〈阿弥陀門、境内外からと内から〉

ちなみに境内を囲んでいる築地塀(ついじべい)も重文です。



〈大銀杏〉天然記念物

御影堂の前にある大きなイチョウの樹、樹齢約400年。
「水吹き銀杏」とか「逆さ銀杏」と呼ばれている有名な樹です。



この樹が「水吹き銀杏」と呼ばれるのは、天明の大火(1788)や
元治元年(1864)の大火の際、水を吹いて御影堂などを火災から
守ったからだそうです。水を吹いたかどうかは分かりませんが、
社寺や城郭にイチョウがよく植えられるのは、この樹が耐火力が強く、
火を食い止める効果があるからのようです。
「逆さ銀杏」とは、まるで根っこを天に広げたような特徴的な
形状からで、ある高僧が苗木の時に逆さに植えたために横に
広がったという言い伝えもあるようですが・・・見事に横に
伸びているのは、手入れが行き届いているのだと思います。



〈大銀杏〉保存樹



阿弥陀堂と経藏の間にも大きなイチョウの樹があります。
黄葉の時季は綺麗でしょうね。
ちなみにGoogleストリートビューで、境内散策ができますが
ちょうど黄葉した銀杏が見られます。粋なことを・・・(^_^ゞ



〈御影堂前の青銅製灯籠〉


〈御影堂前(左)と、阿弥陀堂前(右)の青銅製灯籠です〉



〈御影堂〉国宝


〈阿弥陀堂(本堂)〉国宝

御影堂と阿弥陀堂は渡り廊で繋がっています。
どちらも国宝の建造物ですが、無料で自由に入れます。
西本願寺は世界遺産で国宝の建物も数多くありますが、
一方、東本願寺には国宝、重文の建造物は皆無。
世界遺産にも指定されていません。


ここらで少し、西本願寺(浄土真宗本願寺派)と
東本願寺(真宗大谷派)の違い、経緯を書き留めておきます。

元々は一つで、どちらも親鸞聖人が開祖の浄土真宗の本山です。
本願寺は第7世の存如上人までは不振窮乏の中にありましたが、
第8世「蓮如上人」の時代に、一気にその教線を拡充しました。
蓮如上人は山科に本地を構えましたが、第10世 証如上人の時、
細川・六角氏や日蓮宗の攻撃を受け、山科本願寺は焼け落ち、
証如上人は大坂に本願寺を再興します。(石山本願寺)
第11世「顕如上人」の時、織田信長が退去を要求してきます。
それに反発した本願寺との間に、石山合戦が勃発、11年に及ぶ
信長を最も苦しめた戦も、本願寺が屈する形で和議となります。

和歌山・鷺森に退去。本能寺の変で信長が没した後も豊臣秀吉に
その力を押さえ込まれ、大阪の地を点々とするもののその間、教団は
徹底抗戦を主張していた顕如の長男「教如」の抗戦派と穏健派が対立。
顕如は穏健派が推す三男「准如」に第12世を継がせます。教如は隠居。
それにより秀吉に支持を受け、現在の地に寺領を与えられます。

天下が徳川に変わると、家康は「教如」に本願寺の東側の土地を与え、
ここに西本願寺と東本願寺という構図ができてしまいます。
これは多分に家康の本願寺勢力を分断する為に東西に分けた政略と
考えられますね。

「石山本願寺・顕如」vs「信長」
「西本願寺・顕如三男准如」=「秀吉」
「東本願寺・顕如長男教如」=「家康」
あの戦国三傑が深く関わってますね。ちなみに信長にとって最強の
敵であった顕如は、武田信玄と正室同士が姉妹の義兄弟でした。
秀吉は強固であった石山本願寺跡を利用して大阪城を建てたし、
親秀吉側の本願寺を東西に分裂させ、まんまと力を削いだ家康。
そのツケは幕末にやってくることに・・・






西本願寺には、秀吉の色彩が色濃く、安土桃山文化の遺構が多く
残されています。絢爛豪華と侘びさびの両極の建物、広間があり
国宝や重要文化財だらけ。
東本願寺は、江戸期以降の建物や文化で、大きく、荘厳な建物が
並びます。内部も、絢爛豪華と云うよりは金ぴかで新しい感じ。
国宝や重文の建物は無く、御影堂や阿弥陀堂も登録有形文化財どまり。





家康の意向かどうかは知りませんが、秀吉色を嫌ってか、
御影堂や阿弥陀堂の伽藍配置は全く逆、畳の向きまで
西本願寺の南北方向に対し、東本願寺は東西方向。
柱も「西」は角柱を使うのに対して、「東」は丸柱を使う徹底ぶり。

こういう違いは、仏壇仏具にも表れ、浄土真宗の仏壇を作る際は
「お東さんどすか?そうかお西さん?」って訊かれます。
違いを簡単に言うと、「西」用は金ぴかの仏壇に渋い仏具。逆に
「東」用は仏壇が少し地味で、仏具は金ぴか・・・



京都タワー、京都の人は未だにこれを恥ずかしいと思っている。
私は、他とは違う形態でオリジナリティがあって良いと思うのですが


屋根瓦、獅子口と言われる部分、何か可愛い・・・♪


そうそう、「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」、
それに対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。
ちなみに違いばかりではありません。どちらも浄土真宗ですから。
般若心経は唱えませんし、線香も立てずに折って横にねかせて
くゆらせます。戒名・位牌もありません。(法名・過去帳です)
祈祷・まじない・占いなどを否定するので、おみくじはもちろん、
お札やお守りはありません。御朱印も無いです。
焼香の際、抹香をつまんで香炉に入れるとき、額の位置で"香を
いただく"という動作をしない。
ただし本願寺派は1回、大谷派は2回します。
それと、お盆に特別な飾りや迎え火、送り火などはしません。
霊魂感の助長は本来の仏教にそぐわない行為と考え、御法度です。



〈飛雲閣〉国宝
金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つ。秀吉が建てた聚楽第の
一部ともいわれており、三層からなる楼閣建築です。
写真は隣りの興正寺から塀越しに撮ったもので、南面?

通常非公開の対面所、南能舞台、白書院、北能舞台、飛雲閣など
ほとんどが国宝。事前に龍虎殿(075-371-5181)に申し込むと、
無料で一日2回案内して頂きながら拝観できるらしい。



〈経藏〉重文



〈手水舎(ちょうずや)〉重文



〈太鼓楼〉重文


幕末、本願寺を一時的に屯所としていた新撰組による刀傷が、
今も残っているそうです。

ここで、幕末における西本願寺と東本願寺のスタンスの違いを・・・
古くは信長と戦った11年に及ぶ石山合戦の頃、当時中国の最大勢力
毛利輝元は本願寺を支援しており、強い絆がありました。
豊臣時代は五大老にまでなった輝元、関ヶ原の戦いで総大将であった
責任を問われ、周防国・長門国(長州藩)に減封されます。

その頃、本願寺を継げなかった教如は家康に接近、関ヶ原でも
後方支援に回ったり。逆に准如は石田三成に説き伏せられ、
西軍側にくみすることになります。
結果、教如は家康から東本願寺を与えられ、教団は東と西に
分裂させられてしまいます。

そんな経緯から、幕末動乱期には東本願寺は佐幕派、西本願寺は
倒幕派のスタンスをとることになります。
特に西本願寺は尊攘派の志士の密談所を提供したり、蛤御門の変では
敗走する長州兵を匿います。この露骨な“長州びいき”が京都守護職
松平容保の怒りをかい、傘下の新撰組を西本願寺に乗りこませることに。

それまで壬生にあった新撰組屯所を西本願寺の境内北側にある
600畳敷きの北集会所に移したのですが、新撰組は境内で砲術訓練や
酒宴など騒動が絶えず、大変なやっかみものであったと言われ、
二年後の不動堂村屯所への移転の際には、その費用を西本願寺が
全額負担したという話も残っています。

維新後は、東本願寺が苦しい立場に追いやられますが、西本願寺と
歩調を合わせ、新政府に戊辰戦争の軍資金を出資するなど、償いの
姿を見せることで生き延びたようです。

宗教や歴史、本来専門的で難しいですが、簡単にでも頭の隅に
置いておくと、観光が確かなものになると感じます。


2015.7/5、西本願寺にて。太鼓楼