『国津道(くにつみち)』 目次
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- 国津道(くにつみち)- 第16回
社の中から詩甫たちを見送った朱葉姫。
「無事に終えてくれたようですね」
朱葉姫の心痛が手に取るようにわかる。 どうしてここにきてそうなるのか。 今までそんな心配事は無かったというのに。 それに長い星霜が過ぎてしまっている、朱葉姫が寂しく思う星霜が。 一夜が俯けていた顔を上げる。
「姫様・・・」
一夜のそれだけの言葉の中に一夜の言いたいこと全てが分かる。 朱葉姫を煩わせたくない。 それは社をあとにして、帰るべき所に戻るべきだということが。
「一夜・・・ごめんなさい」
「そのような事は・・・」
「民が・・・民が建ててくれたの」
「・・・はい」
「朽ちることだけは避けたいの」
「・・・分かっております。 要らぬことを申し上げてしまいました」
分かっている。 朱葉姫が何を一番に思っているか。 朱葉姫を想い、この社を建てた民のことを思うとこの社を朽ちらせて終わらせたくないと。 心ある者の手によって終わらせたいと。
朱葉姫の後ろに座っている数人の者たちがここに来て良かった、朱葉姫の心を聞けて良かった、朱葉姫の心を知れてよかったと、分かってはいたが、朽ちていく社のことを聞く度に想いを熱くしていた。
「・・・曹司は?」
この場に曹司が居ない。
朱葉姫が社を出る前は曹司が山を見回っていたが、朱葉姫が社を出てからは曹司は朱葉姫についていた。 その曹司が居ない。
「気になると申しましてお社を出て行きました」
後ろに控えていた四十前後の一夜より四歳か五歳ほど若い。 朱葉姫と共に当時の曹司を可愛がっていた女である。
『曹司、そんなことをしては、朱葉姫様が悲しまれますよ』
幼い曹司が井守の尻尾を片手に持ち、目の前で左右に振っていた時であった。 当時の曹司は動くもの全てに興味があった頃である。
『姫ちゃま井守いや?』
『そういう意味ではありません。 井守が苦しそうにしているでしょう?』
曹司が井守を見たが、井守の苦しむ表情など分からない。 口を尖らせ顔をしかめる。
女・・・薄(すすき) が微笑んで曹司の手を取り、井守を地に置いてやった。 井守がサササと手足を動かし井戸に向かって行く。
悲しみを乗り越えるにはまだ幼い歳であったが、朱葉姫が曹司を包んでいた。 それを補佐していたのがこの薄であったが、薄自身も曹司を可愛がっていた。
村で流行り病が起きた。 当時の朱葉姫の祖父がすぐに動いた。 村人の中で患った者と、まだ患っていないものとをすぐに隔離した。 まだ患っていない者は既に伝染していてこれから患うかもしれない。 一人一人を小屋に隔離した。
曹司の両親が疫病に罹り、曹司もすぐに両親と別々に隔離された。 曹司の両親は亡くなってしまったが、隔離するのが早かったからなのか、幼いながらも曹司に体力があったからなのか、曹司は流行り病を患っていなかった。
曹司は親の顔を薄っすらとしか覚えていなかった。 その曹司を朱葉姫の父が引き取った。 もちろん朱葉姫の父親も家族も曹司を疎んじることは無かった。
「気になる、と?」
「はい」
曹司が気にしているだろう朝の出来事が脳裏に浮かぶ。
社の中の朱葉姫が立ち上がりその姿がふっと消える。
「姫様・・・」
朱葉姫の斜め後ろに居た一夜が漏らした。
曹司の横に姿を現した朱葉姫。
そこは社の裏であった。
「姫様・・・」
朱葉姫がチラリと曹司を見たかと思うと、姿を変えた竹箒を見る。
「朝に見た時より、穂が抜かれているようですね」
穂は抜かれていたが、残った穂を針金できつく縛ってあった。 それは浅香がしたことではあるが、朱葉姫が早朝見た時より、竹箒の穂が随分と抜かれている。
早朝朱葉姫が見た後に “怨” を持つ者が、穂を抜いたのであろう。
朱葉姫が残された気に気を合わす。
早朝、朱葉姫が見て回ったからと安心していたのだろうか、次に朱葉姫が回る明日の朝までに気が薄れるとでも思ったのだろうか、ひた隠しにしていた気、怨、念、全てが残っていた。
“邪魔するものは壊してしまえ” と。 物には破壊を、人には血を。 修羅のように。
「怨みが・・・知恵を与えたようです」
朱葉姫は残された気を、細分化して感じようとしているようだ。
「・・・知恵?」
「ええ、大きな力を・・・」
朱葉姫が終わろうとしている秋の空を見上げる。
朱葉姫は民によって祀りたてられた。 朱葉姫がそれに応えた。 残してきた民に幸せになって欲しかったからである。
その民が子々孫々朱葉姫を祀った。
子々孫々が紅葉姫社の前で手を合わせる。 その合わせた手の中から日々の楽しいことを感じ取れた、語ってくれた。
それだけで幸せであった。
この地を守りたい。
それだけなのに。
誰が・・・。
「姫様・・・」
もう守りたいと思った民はいない。
今更何を想うのか。
この地に守りたい民はもう何百年と居ない。
「社を守ることは、もう必要ではないのですね」
そんなことは何百年と前から分かっていた。 守りたい民が居なくなっても、その民の意を汲みたくてここまで社を守ってきた。 だが千秋が経った、経ち過ぎた。 朱葉姫の力も自然の力には向き合うことが出来なくなってきていた。 社が朽ちて行くのを止めることが出来なくなっていた。
いつの間にか上げていた顔を下ろしていた。 その瞳には姿を変えた竹箒が映っている。
「姫―――」
「わたくしが・・・憎いのでしょう」
唐突に朱葉姫が言った。
「え・・・」
「ここに残る念・・・怨」
朱葉姫が地を見たかと思うと宙を見、哀しげな顔を見せる。
「わたくしが生きていた頃でしょう」
そんなことがあるはずはない。 もう朱葉姫は千年以上前の人物である。 その朱葉姫を憎んでいるのならば、その人物も先年以上も前に生きていた者になる。 その者が朱葉姫に憎しみを覚えていれば己が何か気付いたはず、手を打ったはず。 だがその様な者を見ることなど無かった。
どういうことだ、己の目がくすんでいたのか。
それに今は千年以上も経っている。 朱葉姫に頼り己らはこの世に肉体を持たなくなっても、朱葉姫と共に居ることが出来ている。
だが朱葉姫を憎む相手は朱葉姫に頼ることなど無かった。 なのにどうして肉体を失くしてからも力を持ち千年以上も居ることが出来るのか。
朱葉姫がこの社に残っているということは、肉体の無い者には分かっていたはずだ。 千年も待たず、死してすぐにここに来てもよさそうなことだ。
ここに来ていれば朱葉姫がすぐに気づいたはず。 だがそれが無かった。 朱葉姫からそんな話は聞いていない。
どういうことだ。 朱葉姫が今まで気付かなかったということは、怨念はここに無かったということになる。 今までその思念はどこにあったというのか。
「わたくしの一番大切に想うことが、瓦解するのを待っているようです」
朱葉姫の一番大切に想うこと、それはこの社が自然のままに朽ちてしまうのではなく、心ある者によって閉じられるということ。
それは社が朽ち終わらないということ。
「社が朽ちるのをずっと待っていたのでしょう」
千年以上も。
「姫様・・・」
曹司の口からはそれしか出なかった。 誰がこの朱葉姫の想いを邪魔しようとしているのか。 あれだけ民に愛され、民の為に生きた朱葉姫なのに。
それなのに・・・。
今、朱葉姫は曹司には計り知れない悲しみを覚えているだろう。
「力があるようです。 きっと積年の怨みが積もった故の力なのでしょう、物を動かすことが出来るでしょう」
霊として存在していても、簡単に物を動かすなどということは出来ない。 曹司にしても容易ではなかった。
物を動かす・・・。 それは詩甫たちが用意していた掃除道具を壊すことも出来るということ。 動かす程度ではなく壊すことまで。 そうであれば、その力の大きさが容易に知れる。
その力の源が “怨”。
それはこの社を磨く詩甫を睨んでもおかしくない。 それとも朱葉姫と瀞謝との間に交わされた朱葉姫の願いごとを知って睨んでもおかしくない。 睨む力を生きている人間に分からしめるほどに。
そうであるのならば瀞謝から聞いた話の辻褄があう。 起因は瀞謝ではなく朱葉姫に対してだったのか。
「わたくしが生きていた頃の間違いが今にして・・・」
それが誰なのだろうか。 分からない。 “怨” を持つ気を感じることは出来るが、そのような気に心当たりなどない。
「そのような事は!」
曹司・・・朱葉姫が振り返り曹司の名を呼ぶ。
「はい」
「瀞謝に伝えてちょうだい。 力の有る者です、瀞謝に危険が生じるかもしれません。 この社にもう来ないようにと」
“怨” を持つ者がたとえ油断していたとしても、相手の持つ “怨” の大きさが十分に分かった。 いつどんなことが詩甫に降りかかるかも分からない。
曹司は詩甫の気持ちを聞いていた。 どれだけ詩甫が残念に思うだろう。 それに毎回、社の中から詩甫を見ていた朱葉姫も。
「・・・はい」
「瀞謝が社を閉じるに取り計らってくれたとしても、失敗に終わるかもしれません。 もっと早く気付くべきでした」
「え・・・」
どういう意味だろうか。
曹司の目を見て話していた朱葉姫の目が宙を見る。
「この社が朽ちて瓦解するのを望んでいるのです」
さっき迂遠に言っていたが、それは聞いた。 同じことを言われた、だから・・・どういうことなのだろうか。
「瀞謝がこの社を閉じるよう計ってくれたとしても、相ならぬでしょう」
曹司がぐっと喉を閉める。
「それは・・・」
「具体的には分かりません。 ですが瀞謝の取り計らいが成功には終わらない。 ・・・人死にがあるやもしれません」
それ程に強い力を持っている。
朱葉姫にとってそれは受け入れがたいことである。 言ってみれば自分の我儘で誰かが命を絶たれるのかもしれないのだから。
「・・・わたくしの願いは無かった事として伝えてちょうだい。 瀞謝に会えて嬉しかったと、それだけで十分ですと」
「姫様・・・」
揺れる電車の中で、前屈みになっていた浅香がパッと顔を上げた。
(嘘だろ、おい)
そんなことをどうして詩甫に伝えられると言うのか。 あれ程に社のことを、朱葉姫のことを想っている詩甫に。
(くっそ、曹司のヤロー)
責任転嫁もいいところだ。
だが詩甫の命には代えられない。
曹司は朱葉姫が言ったことを浅香に言ってきたのではない。 朱葉姫が詳しく話し出した時から、言ってみれば浅香と曹司の間のスイッチをオンにしていた。
曹司が目に耳にした事が浅香の頭に伝わっていたということである。 簡単に言うと、スイッチをオンにされた時から、朱葉姫と曹司の会話を浅香は聞いていた。 それは朱葉姫が『瀞謝に伝えてちょうだい』 と言ったところからだった。 その前の会話は見聞きすることは無かったが、曹司の思念を受けていた。
「浅香? どうした? 曹司が何か言ってきたのか?」
浅香が祐樹を見て口の端を上げる。 余裕などない、だが祐樹にはこう見せるしかなかった。 そして祐樹の頭をグリグリと撫でると視線を詩甫に送る。
「痛って! なんだよ浅香!」
頭上の浅香の手を弾き浅香を見上げると、その浅香が詩甫を見ている。
「おい、どうしたんだよ」
浅香の視線が祐樹に戻る。
「曹司から緊急警報が届いた」
「は?」
何事があったのかと、詩甫が驚いた顔を見せている。
浅香は次の駅で降りねばならない。 詩甫に視線を転じる。
「ちょっと込み入った話があります。 僕の部屋か野崎さんの部屋で話したいんですけど」
どこかの店では話しにくい。 誰が面白がって聞き耳を立てるか分からない。
「あ、では私の部屋でもいいですか?」
浅香が翌日出勤ということは分かっている。 これが深夜なら浅香の部屋で話した方が浅香に無駄な時間をとらせないだろうが、まだ夕刻にもなっていない。
「じゃ、このままお邪魔しちゃいます」
浅香にとって詩甫の部屋は初めてではない。 それは救急隊員としてであって個人的には初めてだが、今の浅香にそんなことをツラツラと考える余裕は無かった。 曹司からの情報をどう詩甫に聞かせるか、どう説得するか、それだけしか考えられなかった。
「浅香」
祐樹が浅香を呼ぶ。 浅香が祐樹を見る。
「うん?」
「曹司からとか言って、姉ちゃんをたぶらかそうとしてないだろうな」
緊張した面持ちの浅香の顔に笑みが浮かぶ。
「それなら楽だろうな」
「どう言う意味だよ」
まだ小学生の祐樹には、この切羽詰まった浅香の表情が読みきれないようだ。
二人の会話を聞いていた詩甫。 祐樹と違って曹司から重大な事がもたらされたのだと分かる。
その時、思わず心臓辺りに右手をやった。
―――イタイ。
何かに心臓を鷲掴みされたような痛さを感じた。 右手に続いて左手が右手を覆う。
知らずグッ、と呻き前屈みになる。
詩甫の異変に気付いた浅香。
「野崎さん?」
二人の間に座り浅香を見ていた祐樹が詩甫に振り返る。
「姉ちゃん!」
祐樹が前屈みになった詩甫の背中に手を回す。
浅香が辺りを見回す。 だが何か不審なものを感じることは無い。 とは言っても朱葉姫以下、曹司以下の浅香である。 何かがあったとしても、その何かを感じるのは無理があったであろう。
(嘘だろ、奇襲か?)
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- 国津道(くにつみち)- 第16回
社の中から詩甫たちを見送った朱葉姫。
「無事に終えてくれたようですね」
朱葉姫の心痛が手に取るようにわかる。 どうしてここにきてそうなるのか。 今までそんな心配事は無かったというのに。 それに長い星霜が過ぎてしまっている、朱葉姫が寂しく思う星霜が。 一夜が俯けていた顔を上げる。
「姫様・・・」
一夜のそれだけの言葉の中に一夜の言いたいこと全てが分かる。 朱葉姫を煩わせたくない。 それは社をあとにして、帰るべき所に戻るべきだということが。
「一夜・・・ごめんなさい」
「そのような事は・・・」
「民が・・・民が建ててくれたの」
「・・・はい」
「朽ちることだけは避けたいの」
「・・・分かっております。 要らぬことを申し上げてしまいました」
分かっている。 朱葉姫が何を一番に思っているか。 朱葉姫を想い、この社を建てた民のことを思うとこの社を朽ちらせて終わらせたくないと。 心ある者の手によって終わらせたいと。
朱葉姫の後ろに座っている数人の者たちがここに来て良かった、朱葉姫の心を聞けて良かった、朱葉姫の心を知れてよかったと、分かってはいたが、朽ちていく社のことを聞く度に想いを熱くしていた。
「・・・曹司は?」
この場に曹司が居ない。
朱葉姫が社を出る前は曹司が山を見回っていたが、朱葉姫が社を出てからは曹司は朱葉姫についていた。 その曹司が居ない。
「気になると申しましてお社を出て行きました」
後ろに控えていた四十前後の一夜より四歳か五歳ほど若い。 朱葉姫と共に当時の曹司を可愛がっていた女である。
『曹司、そんなことをしては、朱葉姫様が悲しまれますよ』
幼い曹司が井守の尻尾を片手に持ち、目の前で左右に振っていた時であった。 当時の曹司は動くもの全てに興味があった頃である。
『姫ちゃま井守いや?』
『そういう意味ではありません。 井守が苦しそうにしているでしょう?』
曹司が井守を見たが、井守の苦しむ表情など分からない。 口を尖らせ顔をしかめる。
女・・・薄(すすき) が微笑んで曹司の手を取り、井守を地に置いてやった。 井守がサササと手足を動かし井戸に向かって行く。
悲しみを乗り越えるにはまだ幼い歳であったが、朱葉姫が曹司を包んでいた。 それを補佐していたのがこの薄であったが、薄自身も曹司を可愛がっていた。
村で流行り病が起きた。 当時の朱葉姫の祖父がすぐに動いた。 村人の中で患った者と、まだ患っていないものとをすぐに隔離した。 まだ患っていない者は既に伝染していてこれから患うかもしれない。 一人一人を小屋に隔離した。
曹司の両親が疫病に罹り、曹司もすぐに両親と別々に隔離された。 曹司の両親は亡くなってしまったが、隔離するのが早かったからなのか、幼いながらも曹司に体力があったからなのか、曹司は流行り病を患っていなかった。
曹司は親の顔を薄っすらとしか覚えていなかった。 その曹司を朱葉姫の父が引き取った。 もちろん朱葉姫の父親も家族も曹司を疎んじることは無かった。
「気になる、と?」
「はい」
曹司が気にしているだろう朝の出来事が脳裏に浮かぶ。
社の中の朱葉姫が立ち上がりその姿がふっと消える。
「姫様・・・」
朱葉姫の斜め後ろに居た一夜が漏らした。
曹司の横に姿を現した朱葉姫。
そこは社の裏であった。
「姫様・・・」
朱葉姫がチラリと曹司を見たかと思うと、姿を変えた竹箒を見る。
「朝に見た時より、穂が抜かれているようですね」
穂は抜かれていたが、残った穂を針金できつく縛ってあった。 それは浅香がしたことではあるが、朱葉姫が早朝見た時より、竹箒の穂が随分と抜かれている。
早朝朱葉姫が見た後に “怨” を持つ者が、穂を抜いたのであろう。
朱葉姫が残された気に気を合わす。
早朝、朱葉姫が見て回ったからと安心していたのだろうか、次に朱葉姫が回る明日の朝までに気が薄れるとでも思ったのだろうか、ひた隠しにしていた気、怨、念、全てが残っていた。
“邪魔するものは壊してしまえ” と。 物には破壊を、人には血を。 修羅のように。
「怨みが・・・知恵を与えたようです」
朱葉姫は残された気を、細分化して感じようとしているようだ。
「・・・知恵?」
「ええ、大きな力を・・・」
朱葉姫が終わろうとしている秋の空を見上げる。
朱葉姫は民によって祀りたてられた。 朱葉姫がそれに応えた。 残してきた民に幸せになって欲しかったからである。
その民が子々孫々朱葉姫を祀った。
子々孫々が紅葉姫社の前で手を合わせる。 その合わせた手の中から日々の楽しいことを感じ取れた、語ってくれた。
それだけで幸せであった。
この地を守りたい。
それだけなのに。
誰が・・・。
「姫様・・・」
もう守りたいと思った民はいない。
今更何を想うのか。
この地に守りたい民はもう何百年と居ない。
「社を守ることは、もう必要ではないのですね」
そんなことは何百年と前から分かっていた。 守りたい民が居なくなっても、その民の意を汲みたくてここまで社を守ってきた。 だが千秋が経った、経ち過ぎた。 朱葉姫の力も自然の力には向き合うことが出来なくなってきていた。 社が朽ちて行くのを止めることが出来なくなっていた。
いつの間にか上げていた顔を下ろしていた。 その瞳には姿を変えた竹箒が映っている。
「姫―――」
「わたくしが・・・憎いのでしょう」
唐突に朱葉姫が言った。
「え・・・」
「ここに残る念・・・怨」
朱葉姫が地を見たかと思うと宙を見、哀しげな顔を見せる。
「わたくしが生きていた頃でしょう」
そんなことがあるはずはない。 もう朱葉姫は千年以上前の人物である。 その朱葉姫を憎んでいるのならば、その人物も先年以上も前に生きていた者になる。 その者が朱葉姫に憎しみを覚えていれば己が何か気付いたはず、手を打ったはず。 だがその様な者を見ることなど無かった。
どういうことだ、己の目がくすんでいたのか。
それに今は千年以上も経っている。 朱葉姫に頼り己らはこの世に肉体を持たなくなっても、朱葉姫と共に居ることが出来ている。
だが朱葉姫を憎む相手は朱葉姫に頼ることなど無かった。 なのにどうして肉体を失くしてからも力を持ち千年以上も居ることが出来るのか。
朱葉姫がこの社に残っているということは、肉体の無い者には分かっていたはずだ。 千年も待たず、死してすぐにここに来てもよさそうなことだ。
ここに来ていれば朱葉姫がすぐに気づいたはず。 だがそれが無かった。 朱葉姫からそんな話は聞いていない。
どういうことだ。 朱葉姫が今まで気付かなかったということは、怨念はここに無かったということになる。 今までその思念はどこにあったというのか。
「わたくしの一番大切に想うことが、瓦解するのを待っているようです」
朱葉姫の一番大切に想うこと、それはこの社が自然のままに朽ちてしまうのではなく、心ある者によって閉じられるということ。
それは社が朽ち終わらないということ。
「社が朽ちるのをずっと待っていたのでしょう」
千年以上も。
「姫様・・・」
曹司の口からはそれしか出なかった。 誰がこの朱葉姫の想いを邪魔しようとしているのか。 あれだけ民に愛され、民の為に生きた朱葉姫なのに。
それなのに・・・。
今、朱葉姫は曹司には計り知れない悲しみを覚えているだろう。
「力があるようです。 きっと積年の怨みが積もった故の力なのでしょう、物を動かすことが出来るでしょう」
霊として存在していても、簡単に物を動かすなどということは出来ない。 曹司にしても容易ではなかった。
物を動かす・・・。 それは詩甫たちが用意していた掃除道具を壊すことも出来るということ。 動かす程度ではなく壊すことまで。 そうであれば、その力の大きさが容易に知れる。
その力の源が “怨”。
それはこの社を磨く詩甫を睨んでもおかしくない。 それとも朱葉姫と瀞謝との間に交わされた朱葉姫の願いごとを知って睨んでもおかしくない。 睨む力を生きている人間に分からしめるほどに。
そうであるのならば瀞謝から聞いた話の辻褄があう。 起因は瀞謝ではなく朱葉姫に対してだったのか。
「わたくしが生きていた頃の間違いが今にして・・・」
それが誰なのだろうか。 分からない。 “怨” を持つ気を感じることは出来るが、そのような気に心当たりなどない。
「そのような事は!」
曹司・・・朱葉姫が振り返り曹司の名を呼ぶ。
「はい」
「瀞謝に伝えてちょうだい。 力の有る者です、瀞謝に危険が生じるかもしれません。 この社にもう来ないようにと」
“怨” を持つ者がたとえ油断していたとしても、相手の持つ “怨” の大きさが十分に分かった。 いつどんなことが詩甫に降りかかるかも分からない。
曹司は詩甫の気持ちを聞いていた。 どれだけ詩甫が残念に思うだろう。 それに毎回、社の中から詩甫を見ていた朱葉姫も。
「・・・はい」
「瀞謝が社を閉じるに取り計らってくれたとしても、失敗に終わるかもしれません。 もっと早く気付くべきでした」
「え・・・」
どういう意味だろうか。
曹司の目を見て話していた朱葉姫の目が宙を見る。
「この社が朽ちて瓦解するのを望んでいるのです」
さっき迂遠に言っていたが、それは聞いた。 同じことを言われた、だから・・・どういうことなのだろうか。
「瀞謝がこの社を閉じるよう計ってくれたとしても、相ならぬでしょう」
曹司がぐっと喉を閉める。
「それは・・・」
「具体的には分かりません。 ですが瀞謝の取り計らいが成功には終わらない。 ・・・人死にがあるやもしれません」
それ程に強い力を持っている。
朱葉姫にとってそれは受け入れがたいことである。 言ってみれば自分の我儘で誰かが命を絶たれるのかもしれないのだから。
「・・・わたくしの願いは無かった事として伝えてちょうだい。 瀞謝に会えて嬉しかったと、それだけで十分ですと」
「姫様・・・」
揺れる電車の中で、前屈みになっていた浅香がパッと顔を上げた。
(嘘だろ、おい)
そんなことをどうして詩甫に伝えられると言うのか。 あれ程に社のことを、朱葉姫のことを想っている詩甫に。
(くっそ、曹司のヤロー)
責任転嫁もいいところだ。
だが詩甫の命には代えられない。
曹司は朱葉姫が言ったことを浅香に言ってきたのではない。 朱葉姫が詳しく話し出した時から、言ってみれば浅香と曹司の間のスイッチをオンにしていた。
曹司が目に耳にした事が浅香の頭に伝わっていたということである。 簡単に言うと、スイッチをオンにされた時から、朱葉姫と曹司の会話を浅香は聞いていた。 それは朱葉姫が『瀞謝に伝えてちょうだい』 と言ったところからだった。 その前の会話は見聞きすることは無かったが、曹司の思念を受けていた。
「浅香? どうした? 曹司が何か言ってきたのか?」
浅香が祐樹を見て口の端を上げる。 余裕などない、だが祐樹にはこう見せるしかなかった。 そして祐樹の頭をグリグリと撫でると視線を詩甫に送る。
「痛って! なんだよ浅香!」
頭上の浅香の手を弾き浅香を見上げると、その浅香が詩甫を見ている。
「おい、どうしたんだよ」
浅香の視線が祐樹に戻る。
「曹司から緊急警報が届いた」
「は?」
何事があったのかと、詩甫が驚いた顔を見せている。
浅香は次の駅で降りねばならない。 詩甫に視線を転じる。
「ちょっと込み入った話があります。 僕の部屋か野崎さんの部屋で話したいんですけど」
どこかの店では話しにくい。 誰が面白がって聞き耳を立てるか分からない。
「あ、では私の部屋でもいいですか?」
浅香が翌日出勤ということは分かっている。 これが深夜なら浅香の部屋で話した方が浅香に無駄な時間をとらせないだろうが、まだ夕刻にもなっていない。
「じゃ、このままお邪魔しちゃいます」
浅香にとって詩甫の部屋は初めてではない。 それは救急隊員としてであって個人的には初めてだが、今の浅香にそんなことをツラツラと考える余裕は無かった。 曹司からの情報をどう詩甫に聞かせるか、どう説得するか、それだけしか考えられなかった。
「浅香」
祐樹が浅香を呼ぶ。 浅香が祐樹を見る。
「うん?」
「曹司からとか言って、姉ちゃんをたぶらかそうとしてないだろうな」
緊張した面持ちの浅香の顔に笑みが浮かぶ。
「それなら楽だろうな」
「どう言う意味だよ」
まだ小学生の祐樹には、この切羽詰まった浅香の表情が読みきれないようだ。
二人の会話を聞いていた詩甫。 祐樹と違って曹司から重大な事がもたらされたのだと分かる。
その時、思わず心臓辺りに右手をやった。
―――イタイ。
何かに心臓を鷲掴みされたような痛さを感じた。 右手に続いて左手が右手を覆う。
知らずグッ、と呻き前屈みになる。
詩甫の異変に気付いた浅香。
「野崎さん?」
二人の間に座り浅香を見ていた祐樹が詩甫に振り返る。
「姉ちゃん!」
祐樹が前屈みになった詩甫の背中に手を回す。
浅香が辺りを見回す。 だが何か不審なものを感じることは無い。 とは言っても朱葉姫以下、曹司以下の浅香である。 何かがあったとしても、その何かを感じるのは無理があったであろう。
(嘘だろ、奇襲か?)