goo blog サービス終了のお知らせ 

函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

道知事選候補選定にみる民主主義

2019年01月26日 15時18分23秒 | えいこう語る

▼どうもしっくりこないのが、道知事選候補の選び方だ。民主主義は主権者が国民(道民)なのに、知事候補を与党と野党の政党の思惑だけで決めようとしているからだ。

▼道民は蚊帳の外という状態だ。自民党の候補の政策は、道民は大体理解ができる。4期もの長い間、自民系の知事の下で道政が行われていたからだ。自民の候補だと、現職が残した仕事を踏襲するからだ。

▼野党はと言えば、何をするのかが道民には伝わってこない。さらに知事選まで2ヶ月程なのに、いまだ候補を絞れない。敗因は「候補選びができなかった」というのは、言い訳にはならない。戦う選隊を組む力がないからだ。

▼今朝(26日)の新聞は、立憲民主が石川知裕元衆議員(45歳)の擁立に向かうという。勝てる候補に逃げられ,泡沫候補の名を連ねた円盤を回し、矢を放ったら当たったのが石川だという状態だ。

▼誰かを出なければ、政党としての存在がなくなるので、名指ししたという感じだ。石川本人も勝てないと思っているだろう。党の顔を立てて、次の選挙(衆参同時?)に、いいポジションを約束しての立候補になるだろう。どうみても【野党敗北宣言】だ。

▼2018年10月22日の北海道新聞夕刊に【沖縄知事選で見えた矛盾】というテーマで、法政大学田中優子総長の論説がある。

▼玉城候補の圧勝は、故翁長知事の遺志を継いで、党派を超えて沖縄の存在感を示し、誇りをもって明確に主張する人々の鳴動を集約したからだという。勝つには「辺野古問題」を直視するしかなかったともいう。

▼さらに「野党か与党か」「右か左か」を問うものではなく「日本の米国への姿勢はこのままでよいのか」を問い続けた翁長の意志を、玉城が継承したからだという。

▼沖縄には非情と思われる言動をするのが、菅官房長官だ
。だが、72年の「法政大学沖縄文化研究所」設立時に、翁長と菅は共に、法大法学部の学生だったという。

▼ここで思い出したのは、2018年7月北海道新聞夕刊の、映画監督で作家の森達也の「オウム死刑執行」についての論説だ。

▼ナチス最後の戦犯と言われたアイヒマンは、ホロコーストについて問われ「指示されたから」としか答えなかった。
その時傍聴席にいたユダヤの哲学者ハンナ・アーレントは、そのやり取りから【凡庸な悪】を発想したという。

▼「人は悪人だから悪事をなすのではない。集団の一部になるだけで、途方もない悪事をなす場合があるのだ」とし、
オウムの異常性ではなく、普遍性を見つめるべきだという。
そこには集団に馴染みやすく、個を捨てがちな日本人だからこそ、そこに歴史的な教訓が絶対にあると主張する。

▼北海道知事選に戻してみよう。党派だけでの候補者選び。「野党か与党か」「右か左ではない」それが道知事選にも求められているのではないか。

▼かつて北海道のキャッチコピーは「試される大地・北海道」だったが、16年から、なぜか「その先の道へ・北海道」にすり替わった。

▼試されるとは、道民自身に民主主義の意義を問いかけてはいなかったか。「その先の道へ」は、現実を直視しないでその先だけに集中させる、自己批判を怠る発想ではないか。

▼今回の知事選も、野党か与党かのいつもと変わらぬ集団的選挙だ。この選挙の形態から、抜け出さなければならないような気がする。うまく表現できないが、沖縄の知事選にみる、個人が未来を選べる選挙を期待したいものだ。

▼もし自民が勝利したならば、北海道はこの先さらに自民党政治に支配されることになる。そうなると沖縄県民と同様な思いをさせられるだろう。

▼「地方の時代」と言われて久しいが、日本列島を身体に例えれば、北海道は頭部で本州は胴体。九州と四国は手足だ。シンゾウだけ強くても、頭や他の部分も強くなくては「国体」は健全ではないような気がするが。

▼今回のように「野党完敗」が予測される知事選。民主主義の後退のようで、主権者の道民としては、実に嘆かわしいのだ。