元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

石沢麻依「貝に続く場所にて」

2022-05-28 06:48:50 | 読書感想文
 読み始めたときにはその修飾語句の多さに辟易したが、しばらく我慢して読み進めていくと、この独特の世界観に何となく入り込むことが出来た。第165回(2021年上半期)芥川賞受賞作品で、いかにもこの賞に相応しい“純文学的な”佇まいを持つ書物。正直言って一般ウケは期待できないとは思うが、それなりの美意識は持ち合わせている。

 2020年、ドイツのニーダーザクセン州ゲッティンゲンに留学中の大学院生の“私”は、東日本大震災で行方不明になった後輩の野宮の幽霊と出会う。野宮は普段通り接してくるのだが、主人公は最終的な消息が分からなかった彼とどう付き合って良いのか分からない。しばらくすると野宮が崇拝していた寺田寅彦の幽霊まで現れ、それらしく振る舞い始める。



 今はもういない主人公の友人がどうして日本から遠く離れた土地に“出没”するのか分からないが、これは主人公の心象風景を追った作品なので深く突っ込む必要は無いだろう。姿を消した野宮も、歴史上の登場人物である寺田も、“私”にとっては既にいずれも等価な“記号”でしかない。去って行った者たちは、現在生きている人間の記憶や想像の中でしか存在し得ないのだ。

 もちろん、主人公にはあの事件に関する非当事者意識があり、それによる罪悪感も持ち合わせているのだろう。だが、月日と共にそれらは他の内面的モチーフと同化し、やがて記憶の一部になるしかない。その無常観と、未来に対するわずかな展望とが、読む者に切ない感慨をもたらす。

 ゲッティンゲンは第二次世界大戦の空爆を比較的軽度の損害で切り抜けた町で、芸術・文化的に重要な記念碑が数多く残っている。また、戦後すぐから60年代まで90本以上の映画のロケ地になっているという、とてもレトロかつアカデミックな土地柄だ。それだけ非日常的な現象が起こることに対して違和感は無い。

 作者の石沢(仙台市出身)はこれがデビュー作だという。文章はスノッブな面が感じられるが、ドイツ留学を活かした場面設定の巧みさはかなり読ませる。ただし、作者の今後の方向性についてはこの処女作を読む限りハッキリと見出せない。今後の仕事ぶりを注視したい。
コメント
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