元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「パピチャ 未来へのランウェイ」

2020-12-12 06:19:15 | 映画の感想(は行)
 (原題:PAPICHA )これは厳しい映画だ。第72回カンヌ国際映画祭における“ある視点部門”に出品されて高く評価されるものの、本国のアルジェリアでは上映が許されていない。この世界には、いまだに自己主張や自由な表現が許されない地域があるのだ。この実状の容赦ない告発に留まらず、逆境にたくましく立ち向かってゆく者たちの勇気を活写し、見応えのある作品に仕上がっている。

 97年のアルジェ。女子大の寮で暮らすネジャマはファッションデザイナーを夢見ていたが、実際の活動はせいぜいナイトクラブで自作のドレスを販売する程度だ。そこで彼女は、寮内でファッションショーを開くことを計画する。仲間を集め、衣裳を作り、本番に向けて着実に準備を進め、堅物の寮長も何とか口説き落とし、ネジャマたちは“その日”を待つだけの状態だ。折しもアルジェリアではイスラム原理主義の台頭により、アルジェの町では女性にヒジャブの着用を強要する風潮が強まっていた。90年代のアルジェリア内戦を背景に、実話を基に仕上げられた作品だ。



 冒頭、ネジャマと友人のワシラが寮をバタバタと抜け出してナイトクラブに向かうシーンは、いかにも明るいガールズムービー風なのだが、乗っていたタクシーが厳しい検問に遭う場面から映画はシビアな状況を突きつける。主人公たちは年齢相応の服装をしているのだが、イスラム自警団ともいえる連中がヒジャブを身に付けない彼女らに圧力を掛ける。

 ついには寮内や学内にも侵入し、狼藉の限りを尽くす。その行動様式を見ていると、単一の価値観に身を委ねた精神的な退行と荒廃、及び同時に当人たちが覚えているだろう(後ろ向きの)陶酔感といったものが見え隠れし、慄然とする。

 しかし、ネジャマは負けない。原理主義者らの執拗な攻撃にもめげず、目的に向かって失踪する。劇中で、ネジャマの交際相手が“フランスに亡命しよう”と持ちかける。やっとの思いでフランスから独立したアルジェリアの住民が、かつての宗主国に帰属しようとする皮肉。だが、ネジャマは生まれ育ったこの国を見捨てられない。その決意は見上げたものだ。

 これが長編映画監督デビュー作となるムニア・メドゥールの仕事ぶりはパワフルで、弛緩した部分が無い。主演のリナ・クードリの存在感は素晴らしく、逆境に立ち向かう鋭い視線には圧倒される。シリン・ブティラやアミラ・イルダ・ドゥアウダ、ナザーラ・ドゥモンディといった他の面子は馴染みは無いが、皆良い演技をしている。
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「マーティン・エデン」

2020-12-11 06:28:18 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MARTIN EDEN )キャストの仕事ぶりは良い。文芸大作の雰囲気も備わっている。しかしながら、内容はピンと来ない。脚本が精査されておらず、後半の展開には整合性を欠く。また、何を描きたいのか、物語の重要ポイントが定まっていない印象を受けた。アメリカの作家の小説をイタリアに置き換えて映画化している点も影響しているのかもしれない。

 ナポリの労働者地区に生まれ、粗野な船乗り稼業に明け暮れていた青年マーティンは、ある日上流階級の娘エレナと出会って恋に落ちる。文学好きのエレナの歓心を得ようとして、彼は独学で作家を志すようになる。しかし、ロクに学校にも行っていなかったマーティンにとって、物書きになるハードルは高い。それでも、不屈の闘志と多大な努力の甲斐あって、ようやく認められるようになる。だが、高まる名声とは裏腹に私生活は満たされないままだった。冒険小説「野性の呼び声」などで知られる、ジャック・ロンドンの自伝的小説の映画化だ。



 まず、時代設定が明らかにされていないのには参った。たぶん20世紀の初めだと思うし、原作を読んでいる者は承知しているのかもしれないが、時制の明示は映画にとって大事なことだ。とはいえセットは凝っているし、重量感もある。大きな瑕疵とは言えないだろう。だが、荒仕事に携わっていたマーティンが、エレナと知り合うことによって一念発起して作家を目指すという筋書きは悪くないものの、そのプロセスがどうにも要領を欠く。

 彼には基礎的教養が不足していることは分かるが、その他小説家として身を立てる上で何が足りず、それをどういう具合で克服していったのか、そのあたりが映画では描かれていない。特に中盤を過ぎてから描写不足の傾向が強くなり、大雑把に話が飛んでストーリーが掴めなくなる。何やら、主人公はいつの間にか成功して、いつの間にか屈託を抱えて、いつの間にかああいう結末を迎えるという案配で、観ていてアピールしてくるものが無いのだ。上映時間は2時間ほどだが、やたら長く感じられた。

 ピエトロ・マルチェッロの演出は一本調子で、メリハリが感じられない。ただ、主演のルカ・マリネッリは良い。個性的な二枚目で、演技に力感がみなぎっている。2019年のヴェネツッィア国際映画祭で男優賞を獲得しているが、それも納得だ。相手役のジェシカ・クレッシーも品のある美人だ。撮影と音楽は悪くない。ジャック・ロンドンを良く知っている観客ならば、楽しめるのかもしれない。
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「テロルンとルンルン」

2020-12-07 06:26:58 | 映画の感想(た行)
 上映時間が約50分という小品ながら、訴求力は高い。脚本も演出も適切で、各キャストのパフォーマンスは申し分ない。そして何より、我々が直面している問題の一つに鋭く切り込んでいるあたりは見上げたものである。軽量級ラブコメみたいなタイトルに相応しくない(笑)、硬派の映画だ。

 広島県竹原市に住む朝比奈類は、自分のために作ってくれた花火で父親が事故死したのをきっかけに、実家のガレージに長い間引き籠もっている。今は家電品の修理を引き受ける等して、細々と暮らしている。ある日、類が飛ばした模型飛行機を拾った高校生の上田瑠海が、ガレージを訪ねてくる。



 窓を隔てた2人の出会いは最初はぎこちないものだったが、瑠海が壊れた猿のオモチャの修理を類に頼んだことにより、次第に打ち解けていく。実は瑠海は耳が不自由で、そのため学校では辛いイジメに遭っていた。彼女にとって、類と会うことだけが気の休まる一時だった。だが、類を危険人物と断定している瑠海の母親と地域住民は、2人の仲を裂こうとする。

 類の父親が亡くなったのは単なる事故であり、当時は幼かった類自身の責任ではない。もちろん、瑠海の耳が聞こえないのも、彼女のせいではない。ところが、他の大勢と様子が違うという理由で、世間は2人を徹底的に社会から排除する。それどころか、彼らをイジメることを絶好のストレスの捌け口にしている。

 類と瑠海に問題があるのではなく、彼らを阻害する社会にこそ病理があるのだが、2人を取り巻く人々はそのことに気付かない。この閉塞的な状況を告発している点で、本作は大きな求心力を獲得している。舞台になる港町は美しいが、海と山に囲まれて、行き場の無い主人公たちの立場を象徴しているかのようだ。それだけに、風雲急を告げる幕切れが観る者な強いインパクトを残す。

 監督の宮川博の仕事ぶりは的確で、無駄なシーンも見当たらず、キビキビとドラマを進めている。川之上智子による脚本も簡潔だ。主演の岡山天音と小野莉奈の演技は上出来であり、少ないセリフでキャラクターの内面を上手く表現していた(関係ないが、瑠海が通う高校の制服はユニークだ ^^;)。川上麻衣子に西尾まり、中川晴樹、橘紗希といった脇の面子も悪くない。
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「タイトル、拒絶」

2020-12-06 06:28:05 | 映画の感想(た行)
 決してウェルメイドな作品ではないが、観る者によってはかなり心に“刺さる”シャシンである。この映画に出てくる者たちは、大半がロクでもない。社会のメインストリームから外れている。しかし、彼らの苦悩と捨て鉢な感情は、少しでも日々の暮らしに対して違和感を抱えている人間にとっては、決して他人事ではない。スパイスの利いた佳編というべき作品だ。

 エレベーターも無い古い雑居ビルにあるデリヘルの事務所で働くカノウは、主に従業員たちの世話をしている。彼女は当初デリヘル嬢として入店したのだが、最初の仕事で客と重大なトラブルを引き起こし、スタッフに回されたのだ。事務所内はいつもデリヘル嬢たちの嬌声が絶えないが、その中でも一番人気のマヒルは周りの雰囲気を一変させるほどの存在感を有していた。そんな中、支配人は若くてスタイルの良い新人を連れてくる。途端に店内の上下関係は揺らいでくるが、店長がデリヘル嬢に手を出していることが発覚するに及び、従業員全員が抱える屈託が溢れ出してくる。



 冒頭、下着姿のカノウが小学生の頃にクラスで演じた芝居のことを語り出す。出し物の「カチカチ山」では、彼女はタヌキの役をやっていた。でも、可愛らしいウサギばかりが目立っており、観客の誰もタヌキになんか目もくれない。だから、彼女はウサギに憧れていたのだという。しかし、カノウはウサギのように表舞台に立てるキャラクターではなかったのだ。何をやっても上手くいかず、風俗嬢ですら不向きである。

 マヒルはいつも笑っているが、とうに人並みの幸せを求めることを諦めている。彼女が縋るのはカネだけで、楽して余生を送るだけの財力を身に付けることしか考えていない。他にも、明らかに精神のバランスを崩している者や、自分だけの世界に入り込んでいる者がいる。スタッフも異性関係については完全に醒めているか、あるいは惰性で続けているかのどちらかだ。

 そんな彼らが狭い店内で虚勢を張り、互いにマウンティングに励もうとも、それは限られた空間(しょせんは風俗店)の話でしかない。だが、そんな様子を“ドロップアウトした連中の内輪もめ”と片付けることは出来ないのだ。自身が見渡せる範囲内での立ち位置に拘泥し、結局は消耗していく感覚を味わったことがある者は多いはず。その意味で、本作の登場人物たちには大いに共感出来る。終盤の扱いには、逃げ出したいけどそれは叶わない彼らのディレンマを即物的に描き出し、実に痛切だ。

 これがデビュー作となる山田佳奈監督の仕事ぶりは、セリフが聞き取りにくいなどの不手際はあるものの、一貫して堅実なタッチを維持している。主演の伊藤沙莉は好演で、その開き直ったような存在感はインパクトが大きい。恒松祐里に佐津川愛美、片岡礼子、でんでん、モトーラ世理奈といった他の面子もイイ味を出している。あと関係ないが、姉妹を演じた恒松とモトーラが、実は生年月日が同じだということを最近知り、個人的にウケてしまった(笑)。
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「ザッツ・ダンシング!」

2020-12-05 06:10:15 | 映画の感想(た行)
 (原題:That's Dancing)84年作品。歴代の映画に登場したダンス・シーンの傑作場面を厳選し、編集したアンソロジーだ。この手の映画でまず思い出されるのは、74年の第一作から3本作られた「ザッツ・エンタテインメント」シリーズである。本作は一見その“二番煎じ”だと思われるが、実はかなり違う。新しい切り口が用意されていて、訴求力が高い。その意味では、観る価値は大いにある。

 まず、この映画は「ザッツ~」シリーズとは異なり、MGMだけではなく他社のフィルムも使い、総括的な作りになっていることが挙げられる。もちろん、それだけでは突出した特色とは言えない。だが、映画のオープニングに“すべてのダンサーに捧げる”というメッセージが表示され、次に“とりわけ映画が発明される以前のダンサーたちに”と続いた時点で、早くも本作の“意識の高さ”に感心してしまう。



 そうなのだ。どんなに素晴らしいパフォーマンスであっても、映画が発明される以前のダンサーたちの仕事を検証することは不可能なのである。今さらこんなことを言うのはおかしいが、ここで映画というメディアの革新性を痛感した。そして、第一部のナレーターであるジーン・ケリーが19世紀の終わりに発明された“ムーヴィーカメラ”によってダンスの形態が変遷を遂げたことを告げるのだから、尚更である。

 つまりは“ムーヴィーカメラ”は舞台での集団芸から、アップが可能になったことによる個人芸の時代に移行させ、さらにダンスは選ばれた達人たちのパーソナルな芸から、一般ピープルが嗜むものに“進化”させたのだ。本作は映画の黎明期からG・ケリーやフレット・アステアなどの綺羅星の如く洗練されたパフォーマンスを次々と紹介した後、終盤には何と「サタデー・ナイト・フィーバー」(77年)のジョン・トラボルタのディスコダンスが挿入される。

 かつてのミュージカル映画黄金時代のスターたちの圧倒的な力量に比べれば、トラボルタの踊りはいかにも俗っぽい。しかし“ムーヴィーカメラ”とダンスとの関係性を突き詰めると、ダンスの大衆化というフェーズにおいて、ここで「サタデー・ナイト・フィーバー」が出てくることは当然のことなのだ。

 また、「オズの魔法使い」でカットされたレイ・ボルジャーの踊りや、少年時代のサミー・テイヴィスJr.や、伝説的黒人ダンサーのビル・ボージャングルズ・ロビンソンの姿など、未公開フィルムが紹介されているのも興味深い。監督のジャック・ヘイリーJr.の仕事ぶりは大いに評価されるべきだろう。
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「ばるぼら」

2020-12-04 06:29:28 | 映画の感想(は行)
 クリストファー・ドイルによるカメラワークと橋本一子の音楽を除くと、まるでダメな映画である。とにかく、設定および筋書きがなっておらず、演出も本当に弱体気味だ。どのような意図で作ろうと思ったのか、まるで分からない。脚本の第一稿を提示された時点で、プロデューサーは即刻取り止めるべき企画であったことは間違いないだろう。

 流行作家の美倉洋介は、新宿駅近くの地下道で酔っ払って路上に寝ていた若い女を拾い、自宅に連れて帰る。彼女は“ばるぼら”と名乗り、奔放に振る舞う。一時は怒って家から追い出した洋介だが、やがて“ばるぼら”は洋介と半同棲状態になる。すると不思議と洋介に製作意欲が湧いてきて、スムーズに筆が進むのだった。そしてとうとう洋介は“ばるぼら”との結婚を決意するが、式の途中でトラブルが発生して“ばるぼら”は姿を消してしまう。手塚治虫が70年代に発表した同名コミックの映画化だ。

 まず、洋介が“ばるぼら”に興味を持った理由が分からない。彼女がヴェルレーヌの詩を口ずさんでいたことが切っ掛けになったようだが、どうしてその程度のことで小汚い女を“お持ち帰り”しようとしたのか不明だ。洋介が“ばるぼら”のおかげで仕事が捗るようになったのも、こじつけに近い。そのような展開に持っていこうとするならば、それまでの洋介の心理的屈託をテンション上げて描いておくべきだ。

 原作は読んでいないが、洋介には元々あらゆるものに性的欲望を覚えるという設定があったらしく、この映画版ではそこがスッポリ抜けているのは納得出来ない。さらに、実は“ばるぼら”はスピリチュアルな存在で、藁人形を使って呪いをかけたり、そのバックには得体の知れない“団体”みたいなのが控えているという話になると、完全について行けなくなる。

 終盤に近付くほど映画作りを放り出したような様相を呈し、ラストは腰砕けだ。また、洋介と“ばるぼら”以外のキャラクターが全然機能していないのにも閉口する。手塚眞の演出は気合いが入っておらず、作劇のテンポが非常に悪い。偉大な父親の作品を映画化するのに、このような仕事ぶりしか示せないのは実にナサケない。

 ヒロイン役の二階堂ふみは諸肌脱いでの熱演だが、洋介に扮する稲垣吾郎の演技がそれに対抗出来るほどではないので、観ていてストレスが溜まる。あと渋川清彦に石橋静河、美波、大谷亮介、渡辺えりなど悪くない面子を揃えているにも関わらず、満足に扱われていない。観て損したと思った。
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