元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「あなたがいたら 少女リンダ」

2020-01-12 06:27:55 | 映画の感想(あ行)
 (原題:WISH YOU WERE HERE)87年作品。軽快なタッチの小品だが、絵作りのクォリティもドラマの密度も高く、見応えがある。時代背景の描写は的確で、その中でのヒロイン像が上手く機能している。題材の普遍性もあって、鑑賞後の印象はとても良い。

 1951年のイギリス。リンダは海辺の町に住む16歳の女子だ。中学卒業後に美容師の見習いをしていたが、ある日気にくわないことがありモデルの髪をくしゃくしゃにしてしまいクビになる。次にバス会社に勤め、ここも辞めてレストランのウェイトレスになるといった具合に仕事を転々とする。そんな奔放な彼女は地元の男子に人気があり、何人かと付き合ってみるがどれも物足りない。



 そんな彼女に目をとめていたのが、父親の友人で映画館の映写技師をしているエリックという中年男だ。根の暗そうな彼に最初は敬遠していたリンダだが、懲りずに言い寄ってくるエリックに次第に気を許してしまい、ついには家出して彼と一緒に住むようになる。やがて彼女は妊娠し、周囲から“堕ろせ!”の大合唱がわき上がるものの、リンダは自分なりの決断を下す。

 とにかく、リンダの造型が印象的だ。彼女の家庭環境は決して恵まれたものではなく、かといって進学する余裕も無い。この年代にはよくあることだが、彼女はどこかへ行ってしまいたいのだ。関わった男どもはいずれもロクでなしだが、それでもリンダは決してヤケにらずに、自分なりのポリシーを持ち続けているあたりがアッパレだ。

 そして、自分の意思を貫けば貫くほど、みるみるうちに魅力的になっていくのも見逃せない。これが現代の話だと主人公はネットで“家出情報”(?)を仕入れてとっとと実行に移すのだろうが(笑)、50年代の田舎町という保守的な地盤で味方もおらず、頼れるのは自分だけという境遇にもめげずに頑張るヒロインは、思わず応援したくなる。

 監督と脚本はデイヴィッド・リーランド。ニール・ジョーダン監督の「モナリザ」(86年)のシナリオを手掛けた人だが、これが監督第一作というのが驚きで、カッチリとした隙の無い作劇を見せる。主役のエミリー・ロイドは快演。闊達なティーンエイジャーを嫌味無く再現している。トム・ベルやジェフリー・ハッチングス、スーザン・スキッパーといった脇の面子も良い。また、イアン・ウィルソンのカメラがとらえた、海辺の町の透明感あふれる佇まいも魅力がある。
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「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」

2020-01-11 06:53:05 | 映画の感想(さ行)
 (原題:STAR WARS: THE RISE OF SKYWALKER)前作「最後のジェダイ」(2017年)のレベルがあまりにも低かったせいか、今作は随分とマシに見える。もっとも、決して上出来ではなく、本国での評価が低いのも頷ける。それでも“何とか最終作としての体裁を整えた”という意味では存在価値はある。そして十代の頃から足かけ40年以上も(半ば義務感で)本シリーズをリアルタイムで追いかけてきた身としては、もうこれ以上観る必要は無いのだという、一種の安堵感を覚えてしまった(苦笑)。

 祖父ダース・ベイダーのマスクの残骸を手にして、ニューオーダーの支配者となったカイロ・レンと、ルーク・スカイウォーカーの後継者と目されるレイとの最後の戦いを描く本作。このシリーズの共通モチーフであるフォースは、以前は使う者を最小限フォローする未知のパワーに過ぎなかったのたが、ここではテレキネシスやテレポーテーションなどの明らかな“超能力”として扱われる。



 しかも、つい最近ジェダイになったばかりのレイが、長年修行してやっとフォースを手に入れたはずのヨーダやオビ=ワン・ケノービよりも遙かに強いパワーを使いこなすという不思議。前作の時点で消えたルークやハン・ソロ、そして消えるはずのレイアが亡霊じみた姿で何かとレイたちをバックアップするという御都合主義。さらにはポーやフィンといったレイの仲間達の存在感の小ささなど、作劇面やキャラクター設定に欠点が散見される。後半でレイの意外な生い立ちが紹介されるのだが、大したインパクトは無い。

 肝心の活劇場面も、驚くようなアイデアも見当たらず漫然と流れて行くのみだ。しかし、前述のように何はともあれ終わらせたというのが、この映画の最大の長所である。思えば、このシリーズは本来エピソード6で完結していたはずだ。それが蛇足じみた三部作を始めてしまった。おかげで、当初から(興行成績は別にして)質的には期待出来ないものになったのは当然だろう。

 J・J・エイブラムスの演出は、まあ無難にこなしている印象。レイ役のデイジー・リドリーをはじめ、オスカー・アイザックやジョン・ボヤーガ、ケリー・マリー・トランといった顔ぶれは魅力無し。カイロ・レンに扮したアダム・ドライバーは今や他の諸作品で確実に評価を上げているだけに、本作での役柄は余計なものに感じてしまう。なお、前作でちょっと気になったベニチオ・デル・トロは今回は不在。ひょっとしたら彼を主役にスピンオフ作品が出来るかもしれないが、私は観る予定は無い。
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「MEMORIES」

2020-01-10 06:37:05 | 映画の感想(英数)
 95年作品。大友克洋が「AKIRA」(88年)に続いて取り組んだ劇場用アニメーション。とはいっても「迷宮物語」(87年)のようなオムニバスもので、原作は担当しているものの、演出は一話だけである。第一話「彼女の想いで・・・」は、死んだソプラノ歌手の妄念がコンピュータにより宇宙空間に仮想スペースを作りだし、近くを通りかかった輸送船の乗組員を引き込もうとする。監督は森本晃司。

 死者の怨念が特定の空間を歪める、という設定は“幽霊屋敷もの”の典型で、それをSF仕立てにするのも誰でも考えられそうなものだが、この作品はその映像の喚起力により観る者を圧倒させる。ゴシック的な仮想空間のアーキテクチャーとハイテク、死んだ彼女の想念の映像化と天使の像が襲いかかるというアナーキーな仕掛け、それと何よりジェットコースター的展開と精緻なアニメーション技術は、ハリウッドでも不可能な映像のアドベンチャーだと思う。無常的なラストも捨て難い。



 第二話「最臭兵器」は、山梨県の山麓にある製薬会社の社員が、極秘開発中の新薬を飲んだことから周囲に“殺人臭気”を放つ人間兵器に変身。東京に向かおうとする彼を阻止すべく自衛隊との激闘が始まる。監督は岡村天斎。3話中最もブラック・ユーモアに満ちた作品で、基本的にワン・アイデアのエピソードながら、畳み掛けるような展開とノンストップ・アクションで見応えたっぷり。実戦に慣れていない自衛隊のナサケなさや、アメリカ軍が介入してくるあたり、どこぞの怪獣映画を皮肉っているのも笑わせる。コンピュータを作画に使っていない製作ながら、技術的には実にハイレベルだ。

 第三話「大砲の街」は、架空の国の架空の時代の街が舞台。建物すべてに大砲が備えられ、“外敵”に対峙している。映画はこの街の平凡な一日を淡々と綴るのみ。大友克洋自身が演出を担当。遠近感のない構図と欝蒼とした色調。手書きの版画を思わせるアニメらしくない絵柄(ソ連のアニメによくありそう)。何より要塞のような、くすんだ街の風景は見事にオリジナリティを獲得している。そしてこのエピソードを“ワンカット”で撮るという実験的な試みを行なっているのも興味深い。大砲で武装し、毎日何発か発射して戦果が報道されるものの、市民の誰も“外敵”が何なのか知らない。発射することが目的と化している暗鬱な全体主義の社会を巧妙な映像で描く野心的な作品。

 三話を通して、尖った大友の作風は一貫しているし、技術的には言うことがない。少なくとも、2013年に製作された同じくオムニバス形式の「SHORT PEACE」よりも楽しめる内容だ。大友は久しく映画を撮っていないが、新作を期待したい。
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「テルアビブ・オン・ファイア」

2020-01-06 06:55:20 | 映画の感想(た行)

 (原題:TEL AVIV ON FIRE)各キャラクターは“立って”いるものの、コメディとしてはパワー不足で、あまり笑えない。しかしながら、題材の面白さでは十分に語る価値のある映画だ。シビアな状況に置かれながらも、決して悲観的にはならない作者のポジティヴな姿勢も評価出来ると思う。

 エルサレム在住のパレスチナ人青年サラームは、1967年の第3次中東戦争前夜を描く人気メロドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」の制作現場で働いている。とはいえ、彼の仕事は言語指導で、メインのスタッフではない。この職にありつけたのも、プロデューサーである伯父のコネによる。サラームは撮影所に通うため毎日検問所を通るのだが、所長であるイスラエル軍司令官アッシにうっかり“自分はドラマの脚本家だ”と申告してしまう。

 アッシとその妻は「テルアビブ・オン・ファイア」の大ファンで、自分のアイデアをサラームに押し付けてドラマを改変するように迫る。するとアッシのアイデアが認められ、サラームは本当にシナリオを担当することになる。だが、最終回の展開に関してアッシとプロデューサーの考えは大きく異なり、板挟みになったサラームは必死に打開策を考える。

 上映時間は97分と短めだが、サメホ・ゾアビーの演出が冗長で画面が弾んでこない。窮地に陥ったサラームの行動を、もっとスラップスティックに盛り上げて欲しかった。しかし、この設定は面白い。

 イスラエル人とパレスチナ人が同じTVドラマを見て楽しんでいること自体が興味深いが、その番組が中東戦争をネタにしているというのだから驚く。どんな結末を用意しても、それぞれの陣営が真に満足することは無いと思われるが、映画は“禁じ手”のような思い切った手段で乗り切ってしまう。これはけっこう痛快だ。そして作者の、この情勢が必ず好転するものと信じている楽天性が感じられ、鑑賞後の印象は決して悪くない。

 サラーム役のカイス・ネシフは煮え切らない男をうまく演じており、アッシに扮するヤニブ・ビトンや女優役のルブナ・アザバル、サラームのガールフレンドを演じるマイサ・アブ・エルハーディ等、馴染みは無いが皆良い働きをしている。また、劇中のメロドラマがいかにも下世話で、画面もそれに応じてチープになっているのも面白い。
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「恋人たちの予感」

2020-01-05 06:25:51 | 映画の感想(か行)

 (原題:When Harry Met Sally... )89年作品。ロブ・ライナー監督の、おそらく全盛期の一作。ノーラ・エフロンの絶妙な脚本を得て、弾けるような恋愛模様を謳い上げる。キャストの好演も相まって、鑑賞後の満足度は実に高い。

 77年、シカゴの大学を卒業したばかりのハリーとサリーは、偶然に同じ車でニューヨークまで出掛けることになる。しかし初対面だった2人の相性は最悪で、ことごとく意見は対立。目的地に着くと、早々に別れてしまう。5年後、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港で恋人ジョンと一緒にいたサリーは、思いがけずハリーに再会する。

 その時は2人とも互いの名前を覚えていたことに驚くが、乗り込む飛行機が同じで、しかも席が隣り合わせ。ハリーとサリーはまたしても口論になるが、結婚を控えていたハリーはどこか余裕があった。さらに5年後、離婚直前のハリーと、失恋したサリーがまたしても再会した。これも何かの縁ということで2人は友達同士になろうとするが、やっぱり何か違うと思い始める。

 自身と正反対のキャラクターを持つ異性に惹かれるというのは、よくある話である。ところが、そんな場合は初めから上手くいくことはあまり無い。互いに反発してケンカ別れするのがオチだ。ただし、そこを何とか我慢して歩み寄れば、最良のカップルになることもある。

 本作の場合、自分の本当の気持ちが分かるまで約10年を要したという、まるで大河ドラマみたいな(笑)恋路をリズミカルに追っている。そもそも、2回目に会ったときそれぞれの名前を覚えていたという時点で2人は状況を把握して然るべきだと思うのだが、そうならないのが何とも面白い。

 さらに、三度目の邂逅を経て2人はなおも“友人関係”というモラトリアムな位置に留まろうとするのだから、この筋金入りの優柔不断ぶりには笑ってしまった。また男女間に友情は成立するのかという余計なモチーフに拘泥するに及んで、その変化球の連投には手を叩きたくなる。まったく、どこまで寄り道すれば気が済むのか。

 ライナーの演出は淀みがなくドラマをテンポ良く進ませる。主演のビリー・クリスタルとメグ・ライアンは絶好調で、ギャグの繰り出し方も堂に入っており、大いに楽しませてくれる。キャリー・フィッシャーやブルーノ・カービーも抜群のコメディ・リリーフだ。バリー・ソネンフェルドのカメラによる美しい映像と、ハリー・コニック・ジュニアの音楽が場を盛り上げる。まさにラブ・コメディの金字塔だ。
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「昭和残侠伝」

2020-01-04 07:55:15 | 映画の感想(さ行)
 昭和40年東映作品。高倉健の代表作として人気を得たシリーズの第一作である。いかにもプログラム・ピクチュアといったルーティンを採用しており、筋書きもキャラクター設定も型通りである。だが、それが決して悪いということではない。この時代はこういうシャシンが必要とされていたのだ。空いた時間にフラリと映画館に入った客は、小難しい講釈や作家性の発露なんて求めていなかった。そして今観てもその“様式美”は十分に鑑賞に耐えうるパワーがある。

 戦後すぐの浅草。戦前からこの界隈を仕切っていた昔気質のヤクザである神津組は、兵隊に取られた組員の多くが帰還せず、人手不足に喘いでいた。その隙を突いて台頭してきたのが、新興のヤクザ集団である新誠会だった。新誠会の遣り口は非道そのもので、浅草露天商から法外なショバ代を巻き上げ、逆らう者は容赦なく粛正してゆく。警察の忠告も無視し、神津組の親分である源之助まで亡きものにする。



 そんな中、神津組の有力メンバーだった寺島清次が復員してくる。清次は組を継ぐ決心を固め、露天商たちを結束させ新たなマーケットを作るため奔走するが、それを面白く思わない新誠会は露骨な妨害工作を仕掛け、清次の友人たちも災難に遭う。堪忍袋の緒が切れた清次は、客人の風間重吉と共に新誠会のアジトに殴り込みを掛ける。

 清次と池部良扮する重吉が軒下で仁義を切るシーンは往年の任侠映画での“お約束”だが、2人のセリフ回しと身のこなしは古さを感じないばかりか、凛とした美しさまで醸し出している。筋書きは“我慢に我慢を重ねた主人公が、終盤に憤怒を爆発させて悪者どもをやっつける”という勧善懲悪の定型を踏襲しており、何ら意外性は無い。だが、その構図はすこぶる普遍性が高く、誰が観ても納得出来るのだ。

 加えて、出てくる俳優はすべてスクリーン上で映える面子ばかり。高倉や池部をはじめ、梅宮辰夫に松方弘樹、水島道太郎、菅原謙二、中山昭二、室田日出男等々、皆すでに鬼籍に入ってしまったが、彼らが出てくるだけで画面が華やいでくる。また、ヒロインを演じる若い頃の三田佳子は美しい。佐伯清の演出は才気走ったところは無いが、堅実にドラマを進めており活劇場面もソツなくこなす。高倉自身による主題歌も印象的だ。
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2020年の目標。

2020-01-03 06:39:17 | その他
 拙ブログにおいて今まで年頭に“その年の抱負”とかいうものを書いたことがなかったが、他にネタが思い付かなかったこともあり(苦笑)、今回はあえて述べてみたい。とはいっても、大仰なことは書けない。たとえば“難しい国家資格を取る”とか“昇進する”とか、そんなハードルの高い(ほぼ不可能な ^^;)ことを平然と宣言するほどゴーマンではない(爆)。有り体に言えば、大事なく一年を過ごせば他に望むことは無いのだ。

 ただ、あえて目標めいたものを設定するとすれば、読書量を増やすことだろう。3,4年前ぐらいまで(中身は硬軟取り混ぜて)年に50冊ぐらい読んでいたのだが、近年は公私ともいろいろあって、昨年は振り返ってみれば目を通してみた書物は10冊に満たない。さすがにこれはヤバいと思う。

 しかも、昨年転居してから職場に行くルートが変わり、通勤電車の中で本を読むということが出来なくなった。だから自分で読書する時間を作らなければ、購入したものの書棚に放置されたままになっている多くの本が永遠に整理されることは無いのだ。

 まことに恥ずかしい話だが、私は若い頃にあまり本を読まなかった(仕事関係の本は除く)。これじゃダメだと一念発起して読書を習慣化したのは、30歳をとうに過ぎた時期だったのだ。知人いわく、読書なんてものは“趣味”の範疇に入らないとか。学生やカタギの社会人ならば本を読むのが当然であり、“趣味は読書です”なんて述べるのは“趣味は食事です”と言うのと一緒で、ナンセンスの極みであるという。

 ともあれ、このトシになってくると、ますます読書の重要性を痛感する。本を読まないと語彙は増えないし、筋道立ててモノを考えることが億劫になってくる。読書を怠ると、若造の頃の私のように、感情とケチな欲得尽くでしか物事を考えられなくなる。もちろん、世の中には本なんか読まなくても深い洞察力や思考力を身に付けている恵まれた人間もいるが、そんなのは少数派だろう。少なくとも要領の悪い私としては、完全なる無知無能のレッテルを何とか貼られないようにするには、読書を欠かさないようにするしかないのだ。

 幸い2020年は環境の変化もあまりないと思われるので、毎日わずかな時間でも読書に充てて、年間50冊をノルマとして、出来ればそれ以上の書物に接してみたい。もちろん、語るに足る本に出会った際は、拙ブログに適宜感想文をアップしていく所存である。
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