元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ハード・コア」

2018-12-15 06:48:23 | 映画の感想(は行)

 山下敦弘監督作にしては珍しく、ほとんど良いところが無い。とにかく映画の狙いが定まっていない印象を受けた。聞けば漫画の映画化らしいが、もしもストーリーラインが原作を忠実に踏襲しているのならば、映像化しにくい素材を選んだという意味で企画自体に問題があったと言わざるを得ない。

 主人公の権藤右近は、社会に馴染めずに孤立した人生を歩んできた。今は群馬の山奥で、怪しげな政治結社の主宰者である金城という老人の下で、埋蔵金探しを手伝っている。仲間は素性の分からない中年男の水沼と、頭は弱いが心優しい牛山だけ。ある日、右近と牛山は、牛山が暮らす廃工場の地下室で古いロボットを発見する。そのロボットは外観はレトロだが、驚くべき高性能であった。右近の弟でエリート商社マンの左近は、ロボットの能力を利用して埋蔵金を簡単に発掘すると同時に、右近と牛山にこれを“きれいな金”に変えることを約束して海外に赴く。だが、左近は消息を絶ってしまう。

 右近が周囲に溶け込めない性格であることは分かるが、どうして金城と行動を共にするのか不明である。そもそも金城の政治信条が示されておらず、なぜ埋蔵金に執着するようになったのかも説明されていない。左近は甲斐性の無い兄と対照的な造型であることは理解できるものの、あまりにも図式的に過ぎて説得力が不足。肝心のロボットに至っては、斯様なハイテク機器が大昔に存在していた理由が見当たらない上に、たまに空を飛ぶぐらいで大した“活躍”もしないのだ。

 もしかすると右近と牛山の生き様を通じて、格差問題でも告発したかったのかもしれない。しかし、文字通り“漫画的”でリアリティに欠けるエピソードが連続するばかりでは、テーマを見出そうとする気も失せてくる。山下監督の演出はメリハリが無く、ヘンに沈んだムードも愉快になれない。いくつか散りばめたギャグも不発である。果てはヤケクソとも思えるラストを見せられるに及び、いい加減面倒くさくなってきた。

 権堂兄弟を演じる山田孝之と佐藤健は熱演はしていたと思うが、キャラクター設定自体が無理筋なので評価はしたくない。また牛山役に荒川良々を持ってくるなど、あまりにも芸が無い(別のキャストを起用して意外性を出しても良かった)。

 ヒロイン役が出てこないのも問題で、せいぜい石橋けい扮する、身持ちの悪い女が登場する程度では愉快になれない(松たか子の出番は序盤のみだし)。なお、私は本作を日曜日の昼間に観たのだが、場内はガラガラだった。
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「レイズ・ザ・タイタニック」

2018-12-14 06:05:17 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Raise the Titanic )80年作品。ゴールデンラズベリー賞の、栄えある“第一回最低作品賞候補”になったシャシンらしい。ハッキリ言って出来としても凡庸なのだが、日本での公開当時は(他に目ぼしい対抗馬がいなかったためか)正月映画の目玉として扱われ、そこそこヒットしたという“実績”を持つに至っている(苦笑)。

 元米海軍大佐のダーク・ピットは、現在は危険な任務を遂行しているフリーのエージェントである。彼が当局側の依頼で北極圏における調査の任務に就いていた際、行方不明だったアメリカ人鉱物学者を救出する。その学者によると、究極のレアメタル(?)であるビザニウムの鉱石が、1912年に沈んだタイタニック号に積み込まれていたという。ピットは、タイタニックの唯一の生き残りの老船員を探し出し、その事実を裏付ける証言を得る。

 ピットからの報告を受けたワシントンの政府海洋研究機関は、早速タイタニック号の引き上げの大規模プロジェクトを密かに立ち上げる。だが、それはソ連大使館の情報部の知るところとなり、アメリカがビザニウムを独占することを阻止するため、ソ連側はマスコミにリークするという暴挙に出る。マスコミ報道によって世間は騒然となるが、ピット達は粛々と引き上げ計画を遂行する。

 クライヴ・カッスラーによる原作は読んでいないが、カッスラー自身は本作を酷評しているという。なるほど、各キャラクターは“立って”いないし、米ソの鍔迫り合いもほとんど描かれていないことから、原作のかなりの部分が省略されていることは想像に難くない。ジェリー・ジェームソンの演出は平板で、メリハリの無い展開に終始。ラストの“オチ”は観客の裏をかいたつもりだろうが、脱力感を覚えるばかりだ。

 結局、この映画のセールスポイントは終盤のタイタニック引き上げ場面のみだろう。さすがにこれは良く出来ている。当時としては特殊効果の粋を集めた映像だと思われる。このシーンに接するだけでも、鑑賞した価値があったと満足してしまった観客も多かったのだろう。

 リチャード・ジョーダンにジェイソン・ロバーズ、デイヴィッド・セルビーといった配役は正直あまり印象に残らない。ただし、ジョン・バリーの音楽だけは立派だった。余談だが、この映画がテレビ放映されたとき、タイタニック引き上げ場面の途中にCMが挿入されたのには呆れた。放映局とスポンサーは映画の見どころを軽視していたと思われる。
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「ボヘミアン・ラプソディ」

2018-12-10 06:52:22 | 映画の感想(は行)

 (原題:BOHEMIAN RHAPSODY )映画の出来自体は大したことはない。何しろ監督が「X-MEN」シリーズのブライアン・シンガーだ。多くを望むのは酷というものだろう。しかし、音楽が鳴り響くとドラマは躍動し、観る者の目を惹き付ける。そしてラスト約20分間のライヴ場面は、素晴らしい高揚感を味わえる。難しい能書きは抜きにして、とにかく音楽を聴かせることに徹した本作の思い切りの良さがヒットしている要因の一つだと思う。

 世界的人気ロックバンド“クイーン”のヴォーカリストで、91年に45歳の若さでこの世を去ったフレディ・マーキュリーの伝記映画だ。複雑な生い立ちと、(当時は白眼視された)性的指向。家族との確執や、ストイックな姿勢から周囲から浮いてしまう特異なキャラクターを、映画は手際よく紹介する。

 だが、そこには挑発的な仕掛けや登場人物の内面に鋭く切り込む演出手法は見られない。あくまで事実(と思われているもの)を順序よく並べているに過ぎない。とはいえ、本作に限ってはそういう批判は相応しくないと思う。

 フレディを演じたラミ・マレックをはじめ、ブライアン・メイ役のグウィリム・リー、ロジャー・テイラーに扮したベン・ハーディ、ジョン・ディーコンを演じたジョセフ・マッゼロ、彼らは本物に外見が似ている上に、特徴も良く掴んでいる。これだけで大方の音楽ファンは満足するのではないだろうか。“クイーン”を取り巻く人物たちを演じたルーシー・ボーイントンやエイダン・ギレンなども、実際は斯くの如しだったと思わせるだけの説得力がある。

 実を言うと、私はこのバンドには少し思い入れがある。デビュー・アルバムの邦題は「戦慄の王女」だったが、最初に聴いたときは文字通り“戦慄”してしまった。その頃はガキのくせにロックは一通り聴いていたつもりだったが、彼らのサウンドは他の誰とも似ていなかったのだ。セカンド・アルバムはさらに“戦慄度(?)”は高くなったが、サード・アルバムでは衝撃は和らいだ。ただ、限られたロックファンの興味の対象から広く一般にアピールするようになったのは、その3枚目のアルバム以降だったのは皮肉なものだ。

 残念ながら映画ではカットされたようだが、このバンドに本国よりも先に高く評価したのは日本のファンだったというのは有名な話だ。いくらルックス面での優位性があったとはいえ(笑)、ああいうユニークすぎるサウンドを受け容れたのは、画期的なことだと思う(今から考えると信じられない)。
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「ゆりかごを揺らす手」

2018-12-09 06:21:17 | 映画の感想(や行)
 (原題:The Hand That Rocks The Cradle)92年作品。カーティス・ハンソン監督といえば「L.A.コンフィデンシャル」(97年)を皮切りに、2016年に世を去るまで秀作や佳編を次々と世に問うた作家だが、その昔は本作のような“お手軽な”映画も手掛けていた。もちろん、凡百の演出家とは違う張りつめたタッチはこの映画でも見受けられるものの、作品自体のアピール度はそれほどでもない。

 シアトルの高級住宅地に住むクレアは、は2人目の子供を身籠ったため、産婦人科へ診療に訪れる。だが、医師のモットは診察するふりをしてワイセツな行為に及んだ。怒ったクレアは警察に通報するが、この一件がマスコミに大きく取り上げられ、しかも“被害者”はクレア一人ではないことが判明する。



 窮地に追いやられたモットは自ら命を絶つ。それを目の当たりにしたモットの妊娠中の妻ペイトンは、ショックを受けて流産。それが元で子供が出来ない身体になってしまう。一方クレアは無事に男児を出産するが、そこにペイトンが身分を隠しベビー・シッターとして接近。クレアとその家族に対しての復讐を画策する。

 自殺したモットに対して同情は出来ず、逆恨みで凶行に走るペイトンは処置なしだ。しかし、クレアが清廉潔白なのかというと、そうではない。自身の告発によって産婦人科医を自殺に追いやっているにも関わらず、そのことを気にしている様子は無い。それどころか、使用人のソロモンを当然のことのように邪険に扱う。主要キャラクターが感情移入出来ない者ばかりであるため、早々に観る気が失せる。

 ペイトンに扮するレベッカ・デモーネイの狂気を帯びた演技や、ロバート・エルスウィットのカメラによるハードでクールな画面造型は見応えがあるが、基本線が通俗的なサスペンス・ホラーであるため、取り立てて評価する意味を見出しにくい。それにしても、彼の国の“山の手”は日本のように無闇に塀が建てられておらず、見通しが良くてクリーンだ。防犯上どうかと思う点もあるが、居心地に関しては心惹かれるものがある。
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「ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ」

2018-12-08 06:53:07 | 映画の感想(は行)

 (原題:SICARIO:DAY OF THE SOLDADO)前作「ボーダーライン」(2015年)は世評は高かったものの、個人的には良い印象を持てなかった。監督の演出の流儀を先行するあまり、各キャラクターの掘り下げが不十分だったからだ。その点この第二作では、平易な題材を正攻法で描いており、演出もオーソドックス。幅広くアピール出来るのは、本作の方だと思う。

 アメリカで市民を巻き込んだ自爆テロ事件が発生。犯人たちはイスラム過激派のようだが、捜査当局は彼らが中東からメキシコ経由で不法入国したものと断定する。その手引きをしたのがメキシコの麻薬カルテルだと決めつけた米政府は、CIA特別捜査官のマットにメキシコ・マフィアの弱体化工作を依頼する。

 マットはカルテルに家族を殺された過去を持つ暗殺者アレハンドロと協力し、麻薬王の娘イザベルを誘拐して、それを別のカルテルの仕業だと偽装してマフィア同士の抗争を引き起こさせようとする。だが、くだんの爆破犯はアメリカ人でメキシコ・マフィアは関係ないことが判明。もみ消しを図る政府は、マットにアレハンドロとイザベルの抹殺を命じる。

 前半は血も涙も無い殺し合いの連続で、一種の殺伐としたスペクタクル(?)として見応えがある。ただし、このままでは観客はささくれ立った気持ちで劇場を後にすることになる。これは娯楽性の点ではどうなのかと思っていたら、中盤以降はアレハンドロとイザベルのロードムービーになる。目的のためには手段を選ばないはずのアレハンドロだったが、若い娘と一緒に修羅場を潜っていくうち、連帯感のようなものが生まれるのだ。

 マットしても、冷酷な命令を受けてそれを遂行しようとするが、非情にはなりきれない。このあたりの“甘さ”を瑕疵と見る向きもあるだろうが、私は楽しめた。それどころか、こういう一見ヒューマニスティックなモチーフを挿入することにより、国境をめぐる地獄のような現状が浮き彫りになる。

 ステファノ・ソッリマの演出はソツが無く、アクション場面も的確にこなしている。前作から引き続き登板のベニチオ・デル・トロとジョシュ・ブローリンは余裕の演技。シビアな上官に扮するキャサリン・キーナーはドライな持ち味を発揮しているし、イザベル役のイザベラ・モナーは実に可愛い(笑)。ラストの処理は続編の製作を匂わせるが、いずれにしてもマフィアのシノギが麻薬から不法移民にシフトしているあたり、問題の深刻さが透けて見える。
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初冬の北九州市のオーディオフェア。

2018-12-07 06:39:37 | プア・オーディオへの招待
 去る11月30日から12月2日に北九州市のJR小倉駅の近くにあるアジア太平洋インポートマートで開催された、第32回九州オーディオ&ビジュアルフェアに足を運んでみた。もっとも、個人的にスケジュールが押していたのでフェア会場にいたのは3時間程度だ。それでも興味を覚えた出品物がいくつかあったので、簡単にリポートしたい。

 例年、このイベント(同じ主催者による福岡市の春のフェアも含む)では、一般ピープルには全く縁のない超高額品ばかりが並べられるのが常だった。しかし、今回は少し毛色の変わった製品も展示されていたようだ。伊CHARIO社のGHIBLIは明るい音色と温度感のある中域が印象的なコンパクト型のスピーカーであるが、係員が“このモデルの価格は38万円です。しかもスタンド込みの価格です”と説明すると、ギャラリー席はざわついた(笑)。



 木目の仕上げが美しく、正真正銘のメイド・イン・イタリーであるGHIBLIがこのプライスで買えるというのは、ちょっとした驚きだった。駆動していたプリメインアンプである伊PATHOS社のClassic Remixは48万円で、安価ではないのだが、犯罪的な高価格でもない。真空管とトランジスタのハイブリッド型で、エクステリアの質感は高くスタイリッシュ。衝動買いするリスナーもいるかもしれない。

 同じイタリアのメーカーであるSONUS FABER社の新シリーズであるSONETTOは、上位モデルでも100万円を切り、下位モデルならば20万円で買える。それでいて音はこのブランド特有の明瞭で色気のある展開を見せ、こういうテイストが好きなリスナーは満足出来るだろう。なお、製造は本国でおこなっている。

 岐阜県中津川市にあるキソアコースティック社のスピーカーは、優れたパフォーマンスを誇るものの、あまりにも高価だった。もうちょっと手頃な値段のモデルが欲しいという声に応えてリリースしたのが、新作のHB-N1である。外観は従来の機種よりは幾分簡素だが、小さい筐体から広大な音場を展開するという、まさしく同社の特質が活かされたサウンドだ。88万円と値の張る製品ながら、この性能を勘案すれば、決して高くはない。



 意欲的なデジタルアンプを発売してきたSPEC社は、国内メーカーとして新興ながらも地位を築いた感があるが、新作のRSA-M88はフラッグシップ機のRSA-F11に迫る駆動力と質感を達成している。価格は78万円だが、RSA-F11より50万円も安い。この価格帯の製品を買えるユーザーには、魅力的に映ると思う。

 もちろん、以上挙げた製品は一般ピープルににとって容易に手を出せる価格ではない。しかし、システム総額が1千万円とか2千万円とかの展示が多かった同イベントにあっては、リーズナブルなプライスに思える(笑)。

 また、いずれも価格を下げるために中国などで製造していないのは好感が持てた。以前の私ならば“コストの安いところに製造拠点を置くのは当然”と断言していたところだが、いくら製品管理をしっかりと行おうとも、やはりこういう“趣味性の高い製品”は、本国で作るに限るのだろう。
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「生きてるだけで、愛。」

2018-12-03 06:39:15 | 映画の感想(あ行)

 メンタル面でハンデのあるキャラクター達が織り成すドラマだが、作品自体は普遍性が高く、観ていると身につまされて胸が痛くなる。決して明るい映画はないものの、キャストの奮闘も含めて高く評価したい。最近の邦画の中では上出来の部類だ。

 躁鬱病を抱え、過眠に悩まされている寧子は、ゴシップ雑誌の編集者である津奈木の部屋で彼と一緒に生活している。部屋から一歩も外に出られず、たまに電話を掛けてくる姉からは“しっかりしろ!”と叱責されるばかりで、彼女はその不満のはけ口を津奈木に向けて当たり散らしていた。

 ある日、津奈木の元恋人である安堂が寧子の前に現れる。安堂の狙いは、津奈木とヨリを戻すため寧子を自立させて、彼の部屋から追い出すことだった。安堂は寧子を無理矢理に馴染みのカフェバーに連れて行き、勝手にその店のアルバイトとして採用させてしまう。それでも店のマスターは優しく、情緒不安定な寧子を受け容れようとする。一方、津奈木はゴシップ誌には不似合いの硬派な時事ネタを扱った後輩の美里の原稿を、何とか掲載させようとして編集長と衝突していた。本谷有希子の同名小説の映画化だ。

 寧子は内面的なハンデを負っているが、その悩みの中身は万人に共通するものだと言えよう。自身が考えていることと異なる言動を取ってしまい、嫌悪感を抱く。それでいて、周囲の者から自分の本音を見透かされてしまうことを何よりも恐れている。

 つまりは、ここで描かれているのはコミュニケーションの不全なのだが、大抵の者は些細な行き違いなど“大したことは無い”とスルーして日々を生きている。だが、本当はそれは欺瞞なのではないか。本作の寧子と津奈木のように、互いの心がほんの少しの間でも完全にシンクロする瞬間を追い求め、身悶えして苦しむ方が、本来あるべき姿なのではないか。そういう根源的な問いを突きつけるこの映画の存在感は、実に大きい。

 これがデビュー作になる監督の関根光才はCMやプロモーションビデオで実績を上げた人物らしいが、そういう経歴を持つ者特有の映像的ケレンやスタイリッシュな時制の切り取り方などが見られず、正攻法に徹しているあたりは感心した。今後も映画を作って欲しいと思わせるほどの、堅実な仕事ぶりだ。

 キャストでは何といっても寧子に扮した趣里が光る。正直、もしもこの役を蒼井優や門脇麦あたりが引き受けていたら、軽くこなしていたかもしれない。だが、趣里は懸命の努力によって役柄を引き寄せている姿勢がひしひしと感じられ、その気迫に圧倒される。

 津奈木役の菅田将暉もいつも通り安定したパフォーマンスを見せているが、それよりも凄いのが安堂を演じる仲里依紗だ。“頭の中が完全にイッてしまった女”を、ここまで生々しく表現できる俳優はそういないだろう。重森豊太郎のカメラによる陰影に富んだ画面、世武裕子の音楽、共に言うことなしだ。
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「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」

2018-12-02 06:53:35 | 映画の感想(あ行)
 (原題:YEAR OF THE DRAGON)85年作品。第6回ゴールデンラズベリー賞で最低作品賞をはじめ各部門の候補になったシャシンとして知られ、私自身も評価していないのだが、日本ではかなり話題になったことを覚えている。これはひとえに主演俳優の人気ゆえだろう。言い換えれば、これがもしもキャストが少しでも地味だったら、完全に埋もれていたと思われる。

 ベトナム戦争から帰還したスタンリー・ホワイトは、ニューヨーク市警で刑事として働いていた。管轄は犯罪の頻発するチャイナタウンで、ターゲットは麻薬取引を仕切るチャイニーズ・マフィアである。強引な捜査で相手のボス達と激しく対立するスタンリーだが、警察の上層部はマフィアと暗黙の協定を結んでおり、事を荒立てたくない。そのため警察内部でもスタンリーは次第に煙たがられるようになる。



 一方、マフィアの若き親玉ジョーイ・タイは、他の犯罪組織を次々と壊滅させ暗黒街の顔役にのし上がっていく。頻発する殺人事件の裏側でタイが糸を引いていることを知ったスタンリーは、彼を逮捕すべく敢然と戦いを挑む。

 本作の監督はマイケル・チミノで、脚本がオリヴァー・ストーンである。こういう“腕力の強い”2人がタッグを組むと相乗効果で実績を残すことがあるが、同時に互いの相性が悪くて要領を得ない結果になる可能性も大きい。この映画は後者だ。

 ベトナム帰りのスタンリーは東欧系で、タイと同じく差別の対象である。だから民族問題を正面に打ち出そうとしていることは分かるが、演出もシナリオもその“設定”ばかりを強調し、肝心のドラマ作りは置き忘れているような感じを受ける。スタンリーの言動は直截的に過ぎて深みが無い。タイも目的のためなら手段を選ばない残忍さを見せるが、どうも薄っぺらで単にツッパっている印象だ。

 プロット面で何か工夫されているかというと、そうでもない。一度として興味を惹かれる展開が見られないのだ。ラストも弱体気味。しかしながら、当時は人気が高かったミッキー・ロークと、ジョン・ローンの端正なルックスがスクリーンを飾ると、何となく観て損した気はしないのだから世話がない(笑)。なお、デイヴィッド・マンスフィールドの音楽とアレックス・トムソンの撮影は確かな仕事だと思った。
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「銃」

2018-12-01 06:35:33 | 映画の感想(さ行)
 面白くない。ストーリー展開は説得力に欠けているし、キャラクター設定も感心しない。何より、主人公の饒舌すぎるモノローグにはタメ息が出てくる。なお、原作になった中村文則の同名小説はかなり前に読んではいるが、内容はすでに忘却の彼方だ。

 一人暮らしの大学生・西川トオルは、ある雨の日に河原で一丁の拳銃を拾う。どうやらヤクザがらみのブツらしいが、彼は警察に届けずに持ち帰る。思わず銃が手に入ったことで、退屈だった彼の生活はスリルに満ちたものに変貌。当初は部屋で眺めるだけで満足していたトオルだが、やがて銃を持ち歩くようになる。調子に乗った彼は公園で野良猫に向けて発砲するが、その銃声が周囲の住民の耳に届き、警察が動き出す。一方、トオルは同じ大学のユウコといい仲になりつつあったが、銃の存在が2人の関係に影を落としてゆく。

 通常、斯様な設定だと“平凡に生きていた者が、銃を手にすることによって道を踏みはずす”という筋書きになるし、それ以外にはまず考えられないのだが、なぜか本作の主人公は、銃を拾う前から頭のネジが飛んでいるのだ。ならば“ナントカに刃物”の例え通りに次々と凶行に走ってもおかしくないのだが、肝心な時に優柔不断なのには呆れてしまう。

 かと思えば終盤近くにはトオルの辛かった過去が顔を出し、いかにも映画の本筋と関係あるかのごとく挿入されるが、ドラマを盛り下げる結果にしか繋がらない。警察はトオルを疑わしいと思っているが、張り込む様子も無い。

 そして気になったのが、主人公たちが絶えず喫煙することだ。いまどきチェーンスモーカーの若者なんてあまりいないだろう。しかも大学の食堂でもスパスパやっているのには閉口した。いったいいつの時代の話なのか。私が大学生だった頃(つまり、かなり昔)でも、学食では禁煙だったぞ。武正晴の演出は精彩を欠き、ドラマとしての山を作れていない。モノクロで撮っている必然性が感じられないし、一部カラーになるのも効果的ではない。

 主演の村上虹郎は頑張ってはいるが、刑事役のリリー・フランキーと並ぶと格の違いは否めない。ユウコに扮しているのは広瀬アリスだが、別に彼女でなくても一向に構わない役だ。かえって共演の日南響子の方が、“身体を張っている”という意味では印象に残る(笑)。また村上の父親である村上淳も出ているのだが、明らかに損な役回りで脱力してしまった。
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