元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「新選組」

2018-09-14 06:27:27 | 映画の感想(さ行)
 2000年作品。監督の市川崑が唯一残したアニメーション映画である。公開当時には“市川御大も老いた。注目作はもう撮れない”という声もあったらしいが、本作を観る限り、かなり頑張って作られた佳編になっている。それどころか斬新なテクノロジーが導入されており、アニメーション技法をチェックするだけでも観る価値がある。

 1864年に京都で勃発した池田屋騒動の後、事件を引き起こした新選組に常陸志筑藩を脱退した伊東甲子太郎ほか十数名が加入してくる。局長の近藤勇は伊東を高く評価して参謀に任命するが、土方歳三は実は勤皇派である伊東に不信感を抱いていた。やがて土方の懸念は現実化し、伊東は有志と“御陵衛士隊”を結成すると新選組から脱退してしまう。

 1867年の大政奉還により守護職を外された新選組は、鳥羽・伏見の戦いへの参加を命じられる。しかし、装備で勝る官軍に敵うはずもなかった。黒鉄ヒロシによる同名の漫画の映画化だ。



 黒鉄の原画から抜き出した切り絵のキャラクターを操作して、それをそのまま撮影するという方式は公開当時“ヒューマングラフィック崑メーション”と銘打たれていたらしいが、これは決して漫画のハリボテが右往左往するだけの単なる“人形劇もどき”ではない。

 漫画だけの画面や実写なんかも挿入されており、映像にメリハリを持たせている。照明や効果音には細心の注意が払われており、カメラワークにも抜かりはない(撮影は五十畑幸勇)。谷川賢作による音楽も的確だ。

 声の出演は中村敦夫をはじめ中井貴一、原田龍二、石橋蓮司、石坂浩二、萬田久子、清水美砂、岸田今日子と、かなり豪華である。何より新選組の成立から消滅までを(歴史的背景を無視せずに)コンパクトに1時間半にまとめた脚本が良く、それでいて主要キャラクターは十分に“立って”いるのだから言うことなしである。

 新選組を扱った映画としては、三隅研次監督の「新撰組始末記」(63年)にはちょっと負けるかもしれないが、大島渚監督の「御法度」(99年)よりは遙かに良い出来だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「グリース」

2018-09-10 06:26:16 | 映画の感想(か行)
 (原題:GREASE)78年作品。私は“午前十時の映画祭”にて今回初めてスクリーン上映に接することが出来た。当時は大ヒットした作品だが、それも頷けるほどのキラキラした楽しさに溢れており、観ている間はこの世の憂さも忘れてしまう(笑)。もしも若い頃に、リアルタイムに近い時期に観ることが出来ていたならば、生涯忘れられない一本になったことだろう。

 1950年代。夏休みに海浜リゾート地で知り合った高校生のダニーとサンディは、甘い日々を過ごした後、夏の終わりに泣く泣く別れる。新学期が始まって登校したダニーだが、何とサンディが父親の転勤で同じ高校に転校してきたではないか。サンディは思いがけない再会に大喜びだが、実はダニーは“T・バーズ”という不良グループのリーダーであり、仲間の前でデレデレした態度を取るわけにはいかず、無愛想な素振りをする。



 怒ったサンディは、女子グループの“ピンク・レディーズ”に参加する一方、ダニーへの当てつけ気味にアメフト部のキャプテンと付き合い出す。そんな中、“T・バーズ”に敵対する“スコーピオンズ”のリーダーが改造車でのレースを挑んでくる。

 避暑地で知り合った女の子が、偶然に同じ学校に転入してくるという、超御都合主義的な設定。片田舎の高校が、TV局の主催する全米高校ダンス・コンテストの会場に指名されるのも、随分と強引な筋書きだ。しかし、この映画のような明朗学園ミュージカルならば、そんなことは笑って済ませられる。小難しいことは考えずに、ひたすら脳天気に楽しむ一手だ。

 この作品がデビューのランダル・クレイザーの演出は、とにかくテンポが良くソツがない。時代設定に相応しいキュートなファッションやカラフルな大道具・小道具。バリー・ギブによるお馴染みのナンバーと、シャ・ナ・ナの歌と演奏による既成曲の数々が、お祭り気分を盛り上げる。



 主演はジョン・トラヴォルタとオリヴィア・ニュートン=ジョンで、言うまでも無く“夢のスター共演”である。当時は人気絶頂だったトラヴォルタは、ここでは得意のダンスと歌声を賑々しく披露。オリヴィアはこの頃すでに30歳に達していたはずだが、凄く可愛い。この2人を見ているだけで、ウキウキとした気分になってしまう。ストッカード・チャニングやジェフ・コナウェイ、ディディ・コンといった脇のキャストも万全だ。

 なお、この映画が製作された70年代後半は、アメリカでは経済とエネルギーの危機が起こり、混迷の度を増していた時期だ。そんな状況で、ヴェトナム戦争もウォーターゲート事件も起きていなかった50年代に題材を求めた企画は、とても優れていたと言えるかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハードな素材のケーブルを試してみる。

2018-09-09 06:35:17 | プア・オーディオへの招待

 久しぶりにオーディオシステム用のラインケーブル(CDプレーヤーとアンプとの接続用)を調達した。米国Belden社の線材89207を使用した製品である。本来89207は音響システム用ではなく、コンピューターのデータ伝送に使われる線材らしい。だが、オーディオケーブルとしても有用だということで、取り扱っている業者も複数存在する。なお、今回購入したのは通常のRCAケーブル仕様ではなく、XLRプラグを取り付けたバランスケーブルである。

 結論から述べると、このケーブルは今まで私が実装してみたBelden社の製品よりも良好だ(もっとも、これまで同社のラインケーブルは4種類しか使ったことはないのだが ^^;)。とにかく、音に覇気がある。全域に渡って闊達な展開になり、特に中低域の弾力性やスピード感には目を見張るものがある。

 聴感上のレンジも十分確保されており、高域が詰まり気味になることも無い。元より業務用なので音に余計なカラーリングが施されておらず、システムを選ばずに幅広く使えるだろう。ひょっとしたら力感よりも繊細さを最優先するリスナーには合わないのかもしれないが、価格(1万円から釣りが来る)を考えれば、サウンド面では文句なしである。黒一色の外観は武骨で素っ気ないが、独特の“重量感”(?)を漂わせていると思う。

 ただし、使い勝手においては欠点がある。但書によると絶縁体にはテフロンが使用され、さらに2本の導線を透明なテフロンで覆っており、アルミと錫の二重のシールドが採用されているという。確かにノイズに強い構造になっていると思われるのだが、そのため非常に硬いケーブルに仕上がった。

 あまりにもハードな線材であるため、取り回しに苦労する。アンプ類と後ろの壁との間隔があまり開いていない場合には、装着するのに難儀する。さらには、下手すると機器側のコネクターを痛めてしまう。この意味では、RCAプラグ仕様は避けた方が良いケースが想定される。私の場合はラックを少し前に出すことで対応したが、いずれにしても機器の後方スペースが十分取れる場合にのみ導入を検討すべきだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「検察側の罪人」

2018-09-08 06:05:01 | 映画の感想(か行)
 原田眞人監督作品とも思えない、低調なシャシンだ。もっとも、彼はこれまで秀作・佳作・問題作ばかりを手掛けてきたわけではない。たとえば、アイドルを主役にして撮った作品などは、語る価値も無かった。考えてみると、本作の主演も(トシは取っているが)一応アイドルだ。この作家とアイドルは、相性が悪いのかもしれない。

 東京地検刑事部のエリート検察・最上と、彼の教官時代の教え子だった沖野は、都内で起こった老夫婦刺殺事件を受け持つことになる。捜査線上に浮かんだのは、松倉という風采の上がらない中年男だった。最上はその名前を聞いた途端に狼狽する。松倉は、最上が学生時代に懇意にしていた女子高生を殺害した事件の重要参考人として当局の取り調べを受けていたことがあったからだ。

 その事件は時効を迎えていたが、最上は、松倉が今回の刺殺事件の犯人であるならば、今度こそ松倉を刑務所に送り込まなければならないと決意する。一方、沖野は別に弓岡という有力な容疑者が現れた時点でも、松倉の立件に執着する最上の姿勢に疑問を抱く。やがて最上の執念は、彼自身を常軌を逸した行動に駆り立てる。雫井脩介の同名ミステリー小説(私は未読)の映画化だ。

 とにかく、話がメチャクチャだ。いくら最上が強い義憤を抱いていたとしても、ああいうことを検事がやるとは思えない。しかも、彼は闇社会との関わりでそれを遂行しようとする。沖野にしても、明らかに検事には適していない情緒不安定ぶりを露呈。挙げ句の果てには、内部情報漏洩も平気で行う。これではまるで、出来の悪いファンタジー映画ではないか。

 さらに、最上の親友が政治家であり、何らかのスキャンダルを暴こうとしているらしいが、その内容は最後まで具体的に提示されない。また、最上の親族が戦時中にインパール作戦に参加していたというモチーフが勿体ぶって挿入されるが、何ら本筋との関係性が見出せない。最上の妻子の扱いには現実感がないし、沖野と同僚の沙穂とのアバンチュール(?)も、取って付けたようだ。

 そして最大の欠点は、法曹関係者を主人公に設定していながら、法廷劇にもなっていないことである。これてはカタルシスも何もあったものではない。

 主役の木村拓哉はいつものカッコ付けた演技で、いわゆる“キムタク臭さ”が全開。セリフ回しや表情が全編変わらないので、主人公の屈託なんか表現出来ていない。彼の周囲に配置された大道具・小道具も、そのキャラクターに合わせて気取ったものばかりが集められているのには脱力した。沖野役の二宮和也の仕事も褒められたものではなく、すべてがワンパターンで表面的だ。

 脇に吉高由里子や平岳大、大倉孝二弓、八嶋智人、キムラ緑子、松重豊、山崎努といった濃い面々を配していながら、ほとんど機能させていない(強いて挙げれば、松倉役の酒向芳の怪演が印象に残った程度)。原田の演出は冗長で、テンポが悪い。富貴晴美&土屋玲子の音楽、柴主高秀による撮影、いずれも特筆出来るものは無し。オススメ出来ない映画である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ワイルドシングス」

2018-09-07 06:27:32 | 映画の感想(わ行)
 (原題:WILD THINGS )98年作品。本国では興行的成功を収めてシリーズ化され、この後に“続編”としてビデオムービーが3本作られているらしい。それらは観ていないが、この“本編”が評価出来ないことは確かだ。とにかく、サスペンス映画としては軽量級に過ぎる。まあ、言い換えれば内容が軽いから、いくらでも同パターンの作品が量産出来るということなのだろう。

 フロリダ州にある港町ブルーベイで、高校教師のサムが女子生徒のケリーからレイプされたと訴えられる。たまたまケリーの母サンドラが地元のセレブでかなりの金持ちであったことから、町は大騒ぎになる。身に覚えの無いサムは、法廷で徹底的に争うことを決意。その頃、地元警察の刑事レイは、ケリーの同級生スージーも以前サムに暴行されていたことを突き止める。

 サムは不利な状況に置かれるが、実はスージーが偽証を行っていることが判明。さらにケリーの一件も狂言であったことが分かり、サムの無実が確定。彼は多額の示談金を得ることが出来た。しかし、納得出来ないレイは捜査を継続。やがて“意外な真相”が浮かび上がる。

 この映画の売り物は、中盤以降に頻繁に起こるドンデン返しである。誰と誰が仕組んでいたのかが分かった途端、また別の企みが発覚するというパターンが延々と繰り返されるが、こう何度も実行されるといい加減面倒臭くなってくる。そもそも、ドンデン返しというのはひとつの作品の中で一回か二回程度展開されるからこそインパクトがあるのだ。

 また、ドンデン返しが何回も可能だということは、それだけ各キャラクターの掘り下げが浅いということだ。登場人物がどういう性格で、どういうポリシーを持っているのかシッカリと描いていれば、安易なプロットの“ちゃぶ台返し”は起こり得ない。本作は出てくる連中を単なる“駒”扱いして、良い様に動かしているだけだろう。

 ジョン・マクノートンの演出は安手のTVドラマ並に平板。キレもコクも無い。主演のケヴィン・ベーコンとマット・ディロンは、言うまでも無く80年代の青春スターだったが、ここでは薄い演技を強いられているのが観ていて辛い。ネーヴ・キャンベルとデニース・リチャーズの女子2人は語る価値も無し。脇にテレサ・ラッセルやロバート・ワグナー、ビル・マーレイといったベテランが控えていたが、彼らを主役に据えた方が面白い結果になったかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」

2018-09-03 06:26:08 | 映画の感想(は行)

 (原題:BATTLE OF THE SEXES )取り上げた題材は面白く、提示されるモチーフも興味深い。演出は及第点には達しており、キャストも健闘している。しかし、感銘度はそれほどでもない。これはひとえに、過去の出来事を描く際に“現代のトレンド”を不自然な形で挿入しようとしているためだ。

 60年代後半から女子テニス界の頂点に君臨していたビリー・ジーン・キングは、女子の優勝賞金が男子の8分の1しかない実態に異を唱え、仲間と共にテニス協会を脱退。70年に“女子テニス協会”を設立する。そんな彼女に挑戦状を叩き付けたのが、元世界チャンピオンで当時50歳代だったボビー・リッグスだ。

 彼はギャンブルで身を持ち崩し、資産家である妻からも別れを切り出されていた。そこで彼は“男性優位主義の代表”という名目で“女子テニス協会”にケンカを売ることにより世間の話題を集め、人生の一発逆転を賭けようとしたのだ。そして1973年、ヒューストンにおいて世界注目の“男女対抗試合”が敢行される。

 映画で描かれる時代は、ヴェトナム戦争批判と並び、ウーマンリブが盛り上がっていた。キング夫人も女子スポーツ選手の権利確立を求めて“女子テニス協会”を創立したのだ。一方のリッグスも、基本的には売名行為だが、建前としてはウーマンリブに対抗するマッチョイズムの代表として立ち上がったという形を取っている。

 構図としては単純であると思われるが、どういうわけか作者はここにLGBTの解放といった要素を織り込ませる。これはビリー・ジーンが同性愛者であり、彼女のスタッフにも同様の者がいたという事実をクローズアップさせたものだ。しかし、果たして当時はそんなことまで本人達や周りの人間が考えていたのかどうか、疑問が残る。

 この出来事は、題名通りの“性別間の戦い”であり、当事者達はまずそのテーマに沿って行動していたのではないだろうか。さらには登場人物に“新しい愛の形がどうのこうの”と言わせているのは、何やら取って付けたような印象だ。別に“現代のトレンド”を持ち出してはいけないという話ではないが、もうちょっと上手くやって欲しい。

 監督のバレリー・ファリスとジョナサン・デイトンはソツのない仕事に徹しており、時代風俗の再現にも抜かりは無い。だが、肝心の試合の場面が盛り上がらないのは減点対象だろう。ビリー・ジーンを演じるエマ・ストーンは頑張っているが、あまりにもキング夫人に似せようとしているあまり、トレードマークのファニーフェイスが封印されてしまったのは不満だ。対してリッグス役のスティーヴ・カレルは絶好調。実際にこういう人物だったのだろうという説得力は、かなり大きい。彼のパフォーマンスを観るだけで、入場料のモトは取れるかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷子の大人たち」

2018-09-02 06:12:18 | 映画の感想(ま行)
 (原題:USED PEOPLE )92年作品。設定が面白く、展開も気が利いている。楽しめるソフィスティケーテッド・コメディだ。人生、何歳からでもやり直せる(かもしれない)という本作のポジティヴな姿勢は、観ていて好ましい。

 舞台は1969年のニューヨークの下町クイーンズ。長らく連れ添った夫を亡くしたパールは、葬式の場で元バーテンダーのジョーに突然“好きだ”と告白される。彼は23年前に夫婦の危機を救ったことを切っ掛けに、ずっとパールに恋し続けていたのだ。最初は戸惑う彼女だが、優しく明るい性格のジョーに次第に気持ちが傾いていく。



 しかし、彼女はユダヤ人で、ジョーはイタリア系だ。しかも、パールの家族は肥満のせいか僻みっぽい長女をはじめ、問題児揃い。80歳を超えた姑まで同居しており、パールの悩みは尽きない。それでもジョーの兄が経営するレストランで両家の対面が実現するが、文化の違いから話が全然噛み合わず、ついには全員が掴み合いの大喧嘩を始めてしまう。

 監督のビーバン・キドロンは当時のイギリスの若手女流だが、ソツの無い仕事ぶり(特にセリフの面白さ)に加えて若干引き気味のクールなタッチを保っているあたりが、ヨーロッパの演出家らしいのかもしれない。これが「ディス・イズ・マイ・ライフ」のノーラ・エフロンとか「フライド・グリーン・トマト」のジョン・アヴネットなどの“ハリウッド的予定調和のぬるま湯”(?)にどっぷり漬かった監督が手掛けたら、退屈な作品に終わっていただろう。

 誰が観てもハッピーエンドは予想が付くのだが、それが決して欠点にはなっていない。何しろ出ている面子が豪華で、それぞれが持ち味を発揮しているのだから、その名人芸を見るだけで入場料のモトは取れるだろう。主演のシャーリー・マクレーンはコミカルな振る舞いにも違和感が無く、余裕のパフォーマンスだ。ジョーに扮するのがアメリカ映画初登場のマルチェロ・マストロヤンニで、とことん前向きなイタリア男を楽しそうに演じる。

 さらにはジェシカ・タンディ、キャシー・ベイツというオスカー俳優も彩りを添え、マーシャ・ゲイ・ハーデンのコスプレ演技も愉快だ。レイチェル・ポートマンの音楽は万全だ。なお、設定は60年代だが、時代色を出すためカナダのトロントで撮影が行われたというのは興味深い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「タリーと私の秘密の時間」

2018-09-01 06:33:25 | 映画の感想(た行)

 (原題:TULLY )確かに主演女優の奮闘は大いに評価出来るが、話自体はどうしようもなく、観終わって釈然としない気持ちばかりが残った。ただ、上映時間が約1時間半と短めであることは有り難い。この題材で2時間以上も引っ張ってもらっては、徒労感は増したことだろう。

 ニューヨークの郊外に住む主婦マーロは、仕事や家事を何とかこなしてきたが、3人目の子供が生まれてついに頑張りも限界に達してしまう。しかも、夫は家庭をあまり顧みない。見かねた兄は、夜だけのベビーシッターを雇うことを提案する。マーロの元に派遣されたのは、若い女タリーだった。彼女は外見と喋り方こそ今風だったが、仕事は完璧にこなし、マーロの話し相手にもなってくれる。タリーのおかげでマーロは次第に元気になっていくが、実はタリーにはある“秘密”があった。

 勘の良い観客ならば、タリーの“正体”に中盤あたりで気付くだろう。何しろ、彼女は夜明け前には必ず帰って行くし、マーロ以外と会うことはほとんど無いのだ。しかし、終盤でその“正体”が明かされると、それまでの展開にまったく筋が通らなくなる。

 どうしてマーロが元の輝きを取り戻していったのか説明出来ないし、兄がベビーシッターの費用を負担しているという事実が宙に浮いてしまう。さらに2人が夜中にニューヨークの歓楽街に遊びに行くエピソードも、説得力に欠けるものになる。

 また、長男が問題行動ばかり引き起こしてマーロや学校当局を困らせたり、ダンナがベッドで彼女を無視してテレビゲームに興じている様子は、観ていて不愉快だ。ラストは一応決着させたつもりなのだろうが、よく考えてみると全然解決していない。“家庭の問題は夫婦で何とかしましょう”という、紋切り型の言い分を差し出されているようで、脱力するばかりである。

 ジェイソン・ライトマンの演出は可も無く不可も無し。だが、主演のシャーリーズ・セロンは凄く頑張っている。「モンスター」(2003年)での肉体改造を上回る、20kgもの増量。生活に疲れた女を生々しく演じている。すでに中年に達している彼女にとって、この役作りは相当にハードだったと思われるが、その努力には頭が下がる。ただし、他のキャストはタリー役のマッケンジー・デイヴィスが印象に残る程度で、あとは大したことがない。

 なお、エリック・スティールバーグのカメラによる映像は透明感がある。ロブ・シモンセンによる音楽は悪くなかったが、それよりも既成曲の使い方が上手かった(シンディ・ローパーのナンバーや、「007は二度死ぬ」のテーマ曲など)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする